記憶を失った彼女

三鹿ショート

記憶を失った彼女

 事故で意識を失っていた交際相手が、ようやく目を覚ました。

 日常生活に戻るためには時間がかかるが、それでも彼女がこの世界に留まってくれたことに、私は感謝した。

 だが、目覚めた彼女は、別人と化していた。

 正確に言えば、彼女の言動は、何年も前のものに戻っていたのである。

 事故が原因であり、記憶が元に戻るかどうかは不明だと説明され、私は困惑した。

 現在の関係を素直に語るべきなのか、もしくは、彼女を混乱させないためにも、かつての関係を再現する必要があるのか。

 悩みに悩んだ挙げ句、私は後者を選ぶことにした。

 彼女の言動を見れば、交際してからどれほどの月日が経過した頃なのか、容易に判断することができる。

 同じことを繰り返すわけだが、彼女の記憶と現実に齟齬が生じないように、考えて動かなければならないだろう。

 想像しただけで疲弊することは目に見えているが、これも彼女のためだと、私は自身に言い聞かせた。


***


 幸いと言っては彼女に申し訳ないが、意識を失っている期間が長かったため、街の風景などに変化が生じている理由を簡単に説明することができた。

 当初は、周囲から置いて行かれたような状況に戸惑っていたものの、やがて彼女は順応し、日常生活に支障を来すことはなくなっていた。

 自然と明るい表情を浮かべることが多くなり、それを取り戻すことができるようになったことに、私は喜びを噛みしめた。


***


 しかし、歴史は繰り返すものだった。

 彼女は私を裏切り、別の異性と関係を持つようになったのである。

 そのような未来が再び訪れることがないように行動してきたはずだが、私の苦労は無駄だったというわけだ。

 私は、彼女を許すことができなかった。

 記憶を失った彼女のために行動してきた私の苦労を抜きにしても、私を裏切ったということは、これ以上ない罪である。

 私は、彼女を閉じ込めることにした。

 そうすることで、彼女の心が私に戻ってくるとは信じていない。

 それどころか、彼女は余計に私のことを忌み嫌うようになるだろう。

 だが、彼女が私以外の人間と身体を重ねることよりは、遥かに良かった。


***


 自宅で作業することが可能な仕事で良かったと、私は初めて会社に感謝の気持ちを抱いた。

 休憩がてら彼女の肉体を味わい、仕事が終われば、食事をするかのように彼女の肢体に溺れた。

 今や私に従順と化した彼女が逃げ出すことは無いだろう。

 そのような油断が生じたためか、私は珍しく彼女を自宅に置いて、外出した。

 それが間違いだと気が付いたのは、閉めたはずの自宅の鍵が、帰宅した際に開いていたためである。

 彼女が何らかの方法で外部の人間と連絡をとり、逃げ出したのではないか。

 その場合は、私の立場も危うくなる。

 彼女やその協力者が、然るべき機関に通報している可能性が高いからだ。

 本当ならば、今すぐにでも逃げ出すべきである。

 しかし、手持ちの金銭では、逃亡生活に心許ないため、私は自宅に入った。

 室内は暗く、物音一つしない。

 私は急いで貴重品をまとめている部屋に向かい、手当たり次第に鞄の中へと突っ込んでいく。

 そのとき、床が軋むような音が聞こえた。

 勢いよく振り返ると、彼女が包丁を振りかざしていた。

 慌てて横に転がると、私が座っていた位置に包丁が突き刺さった。

 私は立ち上がり、彼女と向き合う。

 彼女の呼吸は荒く、目も異常な光を宿していた。

 逃げ出していたと思っていた彼女が残っていた理由は、己を監禁し、陵辱を繰り返した私に対して、自らの手で復讐するためなのだろう。

 だが、そうなったことの原因は、彼女にあるのだ。

 私は彼女を指差しながら、

「きみが撒いた種だ。私を恨むことは、筋違いではないか」

 火に油を注ぐような言葉だと理解している。

 しかし、彼女が被害者のような態度を見せることが、許せなかったのだ。

 想像通りと言うべきか、彼女は叫び声をあげながら、私に向かってきた。

 包丁を躱し、彼女の身体に体当たりをすると、彼女は床に倒れ込んだ。

 その隙に、私は包丁を握っている側の手首を踏みつけ、動かすことが出来ないようにした。

 それでも暴れようとする彼女の髪の毛を掴み、床に押しつけながら、

「やり直すことができると思ったが、やはりきみは、救いようの無い人間だったようだ」

 私がそう告げると同時に、彼女は突然、動きを止めた。

 不気味なほどに大人しくなった彼女は、包丁から手を放すと、私に視線を向けた。

「私も、出来ることなら、あなたを裏切りたくはありませんでしたが、仕方の無いことだったのです」

 それまでの怒りは何処へ消えたのか、彼女は冷静な様子で、口を開いた。

 だが、彼女の拘束を解くわけにもいかず、私は彼女を床に押しつけたまま、

「一体、何を言っている」

「私は、記憶を失っていたわけではありませんでした」

 彼女の言葉を、私は信ずることはできなかった。

 油断させるための虚言かと考えている私を余所に、彼女は続ける。

「記憶を失った様子を見せることで、あなたと心から愛し合っていた時代に戻ることができるのではないかと考えたのです。その目論見は上手くいき、平和な日々を取り戻すことができましたが、私は、やはり退屈に思えてならなかったのです」

 彼女は何の感情も宿っていない目を私に向けながら、

「あなたを裏切ればどうなるのか、私は理解していましたが、同じことを繰り返すことになってしまった。もちろん、裏切った私が悪いのですが、あなたの監禁を二度も味わうことに、耐えることができなかったのです」

 彼女の言葉通り、私が彼女を監禁したのは、二度目である。

 一度目も二度目も同じ理由で、それは彼女が私を裏切ったためだった。

 二度目とは異なり、一度目は初めてだったことが影響してか、彼女に対する私の監禁には隙が生じていた。

 その結果、彼女は監禁場所から逃げ出したわけだが、事故に遭い、記憶を失ってしまったのである。

 彼女が記憶を失ったことで、ようやく普通の毎日を送ることができると考えていたが、それは叶わなかった。

 何が起きたとしても、私も彼女も、愚かな人間であるということに変化は無いらしい。

 途端に、全てが馬鹿馬鹿しくなった。

 私は彼女の手から放れた包丁を拾うと、それを自らの首筋に当てた。

 驚く様子も見せない彼女に、私は告げた。

「私を愛しているのなら、すぐに追ってきてくれると嬉しい」

 しかし、彼女は首を左右に振った。

 清々しいその反応に、私は笑ってしまった。

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