プロローグ③

「は?」


 川を渡って、びしょ濡れの足のまま俺はその場で立ち尽くした。


 本当に壁があるのかどうかも見当がつかないほどに見渡す限り白色の空間。まるでミュージックビデオのスタジオのようなその空間は、そんな賑やかな例えとは対照的に虚無そのものだった。さっきまでの静寂の世界から完全に音が消えた。加えて今度は色も消えた。あれほど鮮やかに彩っていた草原、それに空までもがなくなっていた。再び恐怖に襲われる。こういう類いの悪夢もあるのか。


 いや、虚無だとしたら白はおかしいか。まず、見たところ光源と言えるものは見つからない。光がないのになぜ白いのだ?そもそもさっきまでいた世界にも光はあったか?それとも夢の中では、あまり理屈で考えない方が良いのだろうか。理系人間としての癖が身に染みつき過ぎている。


 究極の殺風景を意味もなくキョロキョロと見回していると、真っ白な空間に異質な物が見えた。足元から水を滴らせながらその物体へと近寄った。


「え?どういうこと?」


 その物体は山積みにされたどこか見覚えのあるノートの束だった。俺の膝くらいの高さまで積まれた束の一番上のノートを取ると、その表紙に「日記」と書かれていた。これは俺が中2の頃から書き始めた日記帳だ。中身を確認しても確かに本物だ。


 夢にしてはなかなかトリッキーな仕掛けをしてくる。まあ、夢なのだからトリッキーなことは至極当たり前のことだ。意味は分からないが、俺はすぐに受け入れてしまった。


 ここは虚無そのもの。目の前には俺が書き溜めた日記。それ以外には何もない。もはやどう足掻いても日記を読むことしかすることがなかった。


 だが、日記を書き始めて5年は経つが、こうして一から読み返すのは初めてだった。初日から読み進めると、当時の俺の文章の使い方の拙さよりもその思い出の懐かしさの方が優った。


 中学時代から高校1年生くらいまでは、ほぼほぼおかきのモテ過ぎ事件で埋め尽くされていたが、高校2年生の時に俺は放課後の教室で瀬良せらさんに出会った。瀬良さんと放課後の教室で話すようになってからは、日記にも瀬良さんや漫画の話がどんどん増えていった。


 漫画の単行本ですら一冊読むのに1時間以上かかるほどスローリーダーな俺は時の流れを忘れてゆっくりゆっくりと自分の書いた日記を読み進めていった。


 だが、時の流れは忘れても、ここが夢の中であるということは忘れなかった。それほどまでにこの空間では冷静さを保っていた。読み進めながらも、いつになったらこんな時間が終わるのだろうという疑問や早く終わってくれという願いが頭の片隅から離れなかった。


 瀬良さんに初めて勧められた漫画「スペーシア」を読んで泣き崩れた日。そして、その感動を瀬良さんに伝えた日。


 漫画を通じて瀬良さんとおかきが仲良くなった日。


 受験期に入って、少しだけ瀬良さんにLINEでやり取りをしていた日々。


 ちょくちょく挟まるおかき関連の事件。


 最後のを除けば、これと言って大きな出来事はなかった。ただほぼ毎日クラスメイトの一人の女の子と少しだけ話していただけの日々だった。


 瀬良さんにとっては何気ないことなのかもしれないけれど、俺にとってそんな何気ない時間がかけがえのない時間だったし、瀬良さんはかけがえのない人なのだ。


 高校の卒業式が終わった後、俺は瀬良さんと二人で帰りのバス停まで歩いた。着いたバス停で意を決して旅行に誘おうとしたら、先に瀬良さんに誘われるというサプライズもついさっきの出来事のようだった。


 そして、ついに俺は日記を読み終えた。


 何時間読み続けていたのだろうか。体感的には1時間くらいのような気がするほどにあっという間に時が過ぎていた。


 俺はそっと日記を積まれた束の上に乗せて、もう一度辺りを見回した。


 結局、夢から目覚めることはなかった。いくら見回したところで、この状況が覆ることはなかった。


 仕方なく、もう一度日記でも読み直そうと視線を下ろすと、つい数秒前まで足元に存在していた日記がなくなっていた。

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