第23話 ドル円の損失

「ふう、ちょっと疲れたなぁ」


 5月30日の週がはじまった。


 平日は学校の勉強と投資部の活動で忙しい。


 そして、土日は、本田さんの古本屋でのアルバイトだ。


「イロハよ、本田さんも、たまに休みんでもいいと言ってくれているのだろ? 好意に甘えるのも大切じゃぞ」


 花子が心配そうに言う。


「うん、そうなんだけどね、やっぱり、お金は稼がないと」


 えへへ、とイロハは力なく笑った。


 ただ、最近、疲れがたまってきているのか、授業中に眠くなることもしばしばだ。


(あまり自由時間がないんだから、授業中はきちんと聞いておかないと!)


 そう自分に言い聞かせるが、睡魔は容赦なく襲ってくる。


 睡魔との戦いで、授業は頭に入ってこない。かといって、眠っているわけでもない。


 授業も睡眠も中途半端な状態で、部活を迎える。


「うーん、軟調だなぁ」


 投資部では、すでにカリンがきていて、チャートとにらめっこしている。


「カリン先輩?」


 イロハは、カリンの見つめているパソコンをのぞき込む。


「うそ!?」


 127円を下抜けそうなところからはじまったドル円は、円安方向へ傾いてしまっている。


「なんで? 127円を下抜けたら、ストップロスを巻き込んで、一層円高が進むはずなのに!!」


 カリンはイロハを見て、


「まあ、思い通りにいかないのが投資さ。127円下抜けのところで、ショートポジションの利益確定の買戻しが入っているんじゃないかな?」


「で、でも……」


 かろうじて、ドル円はまだ含み益の状態だ。


 しかし、もうすぐ含み益は消えてしまいそうだ。


「イロハは、これからの動き、どう思う?」


「えーと……」


 イロハは、米国のリセッション問題をにらんで、ショートの考えだ。


「確かに、利益確定が出ているとすれば、このまま下がっていくと思うんですが……」


 自信は、あまりなくなっている。


「うん、じゃあ、まだ様子見しておこうか」


 カリンはニコリと笑う。


 しかし、心配になってくる。カリンの言った通り、思い通りにいかないのが相場だ。


 このまま、思った通り、下げてくれる保証はない。


(でも、130円はさすがに高すぎだし」




 ただ、イロハの考えとは裏腹に相場は進む。


「なに、これ……」


 31日には、ドル円は128円を上回ってしまった。


 含み損が勢いよく膨れ上がっていく。


 チャートを見ていると、ここのところの疲れからか、頭がぼーっとなってくる。


(ううん、だけど、部活のみんなの、奨学金がかかっているんだから、集中しないと)


 頑張って画面を見る。


(ドル円ショートは、わたしが言い出したんだもの。きちんと責任もたないと)


「うーん、どうも、ドル円は上昇のスピードが速いよね。損切すべきかな……」


 とカリンが言うが、


「まだです。きっと、ここから下がります!」


 と答える。


「イロハ?」


「大丈夫です。わたしも、色々勉強しました。だから、きっと下がるはずです。もし下がったら、今損切すると、もったいないことになりますから!」


 なんとか、強く言って、自分を納得させる。


(うん、きっと、下がる。リセッション問題がまだあるんだから……)




 自宅に帰る。


 料理は花子から教えてもらい、上達してきたと思う。


 イロハが夕食を準備している間、花子はずっとパソコンでチャートを見ているようだ。


「ごはん、できたよ」


 テーブルに夕食を置く。


 なんだか、味はよいはずなのに、おいしいとは感じられない。


 為替のことが気になって、きちんと味を確認することができない。


「のう、イロハよ。最近、意固地になってはおらんかの」


 突然、花子が指摘した。


「え、なに、それ?」


「うん、土日のアルバイトといい、平日の部活といい、ちと頑張りすぎではないのかの?」


「そんなことないよ……」


「ドル円も、このままだと、むしろショートを焼き殺して、上昇していくようにも見えるが」


 バタン!


 イロハはテーブルを両手で叩いた。


「イ、イロハ?」


 花子は驚いた表情をした。


「わたし、間違えてないよ。お金は必要だし、リセッションについてもたくさん調べたし」


「いや、いくらリセッションと言っても、相場は考える方向に行くとは限らんからの」


「わたし、ぜったい、正しいよ! ごちそうさま」


 イロハは、自分の部屋へと駆け出した。


 部屋の扉をしめる。


(わたし、なに、やけになっちゃってるんだろ……)




 部活でも、いよいよみんな、イロハを心配している様子が分かった。


「イロハちゃん、たまには、部活休んで、家でゆっくりしてもいいんだよ……。ちょっと、パソコンから目を離した方がいいかも」


 アヤノは、優しい。でも、


「大丈夫です。それに、目を離している方が、精神的によくないですから」


 思ってもいないことを言ってしまう。


「なんだか、航空関係株も下がってきちゃったね。日経は上がっているのに。ドルは、堅調……」


 アヤノは、首をかしげながら、チャートを見ている。


「ユーロ円も上がってるから、円安っていうのはあるんだろうけど、ユーロドルは上がってこないから、やっぱりドルは強いみたいだよね」


「あの、アヤノ先輩……」


「うん?」


「それって、あてつけですか……」


「え、どういうこと、イロハちゃん?」


「それって、ドル円は切った方がいいって、そう言いたいんですか!」


 大声になっていた。


 アヤノは、後ずさった。花子もカリンも驚いている。


「あの、イロハちゃん、わたし、そういう意味で言ったんじゃ……」


 しばらく、投資部に沈黙が流れた。


(わたし、何やってるんだろう)


「イロハ、それは、いいすぎだよ」


 カリンが静かに言う。


「…………」


 何も、言えない。


「ごめんね、イロハちゃん。わたしの言葉、そういうふうにとらえられちゃったなら、謝るよ」


「いえ、すみません。今日は、帰ります……」


 カバンを持って、逃げるようにして部室を出る。


(わたし、なんで、こんな……)




 家の部屋に閉じこもる。


(みんなに、嫌われちゃった……)


 アヤノが、当てつけで言ったのではないことは、当然分かる。


(わたし、こんなに根性の悪い子だったんだ……)


 自分が嫌になる。


 夕方、花子が帰ってきたのが分かったが、イロハは部屋から出なかった。


 2日の木曜日は、ついに部活をさぼってしまった。


 そして、こういう時には、事故が起きる。


 その夜……


「うそ、なに、これは、なに!!」


 スマホで、ヘッドニュースをチェックしていると、アメリカ連邦準備理事会のブレイナード副議長が、9月に利上げを実施しない可能性は低いとする、今後も利上げを続けることを宣言するかのような発言をしてしまったニュースが飛び込んできた。


 急いで相場をチェックする。


「ドル円、どうして……」


 ドル円は、130円に突入しては、129円90銭代まで戻ることを繰り返している。


「お願い、下がって……」




 3日になっても、ドル円は下がらない。


「今日は、雇用統計なのに……」


 授業など、聞いていられなかった。


 そして、部活にも行く余裕はなかった。


 自宅で、ずっとスマホを見つめる。


「お願い、雇用統計は、悪い結果になって……」


 必死に祈る。


 スマホに電話の着信がきた。


 アヤノからだ。


「アヤノ先輩……」


 でも、ひどいことを言ったのだ。出られるわけがない。


 今度は、メールの着信だ。


【イロハちゃん、大丈夫? 無理しないでね】


【雇用統計の結果は、気にしないでいいから、ゆっくり休んでね】


 優しい言葉が、何通もきた。


「やっぱり、アヤノ先輩、優しいな……」


 でも、きっとアヤノの内心も、イロハのとった態度でモヤモヤしているだろことは、分かっている。


「雇用統計でドル円下がってくれないと、仲直りもできない……」


 21時30分に向けて、スマホを見続ける。


 目に水分がなくなり、痛い。


「ここで結果が悪ければ、きっと、落ちてくれるはず……。さすがに、130円は……」


 花子が何度か部屋をノックしてきた。


「おーい、イロハよ、トイレの花子さんは、ノックされる方の立場なんじゃがの……」


 そんな、冗談を言ってくれるが、何も笑えない。


「夕飯、ここに置いておくからの、ちゃんと食べるのじゃぞ……」


 そして、21時30分……


「!!!」


 雇用統計の結果は、それほど良いとは言えないものだった。


 しかし、先日のブレイナード副議長の発言も効いているのか、一気に上昇をはじめる。


「130円60銭……」


 イロハは、スマホをベッドの上にたたきつけた。


「なんで、どうして……どうして、わたしだけ、こんなにうまくいかないの!! ありえない、ありえないよ、こんなの!」


 いつの間にか、涙が止まらなくなっていた。


「お金持ちになって、復讐してやるなんて、なんて馬鹿な考え。これじゃあ、一文無しになっちゃう。それに、みんなに、迷惑ばっかり。わたし。こんなにバカだったなんて!」


 金曜の夜、イロハの泣き声だけが家に響いていた。

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