第6話 触れられたくないこと

 週が明けた3月7日、放課後までの時間がやけに長く感じた。


 授業の一時間、一時間がまったく頭に入ってこない。


 早く、カリンと会って話がしたかった。


 それに、カリンのことに頭の領域を専念させることができたもう一つの要因は、なんといっても、ノーポジで週の初めを迎えたことにあった。


 先週から続くロシア・ウクライナ情勢はいまだ解決の糸口が見えない。


 為替も底なしで売られ続けている。


「私の、残り6万円も、なんとかしなくちゃな……」


 残り6万円の利益をどうやってとるかは、喫緊の課題だ。


 そのためには、早くカリンに調子を取り戻してもらい、ともにチャートに向き合う必要がある。


 ようやく、待ちに待った放課後がやってきた。


 投資部に急ぐ。


 部室にいったら、すぐにカリンと話をつけよう。


 投資の話は、それからだ。


 投資にはメンタルが重要だ。


 メンタルの悪い状態で、相場に向き合うと、勝てるものも勝てなくなる。


 とにかく、冷静に、落ち着いて考えないといけない。


 それに、「休むも相場」という格言があるとおり、今はむしろ休むべき時かもしれない。しかし、アヤノには、無理やりにでも、進級のために、今月中に6万円の利益を出さなければならないのだ。


 勢いよく部室のドアを開ける。


 しかし、そこにカリンの姿はなかった。


「うそ……」


 頭の中では、てっきりカリンがすでに到着しているものと決めつけていた。


 しかし、予想に反して、まだカリンは到着していなかったのだ。


「もしかして……」


 頭の中には、悪い考えが浮かぶ。


 このままカリンが部活にこなくなるのではないか。そうなると、自分一人で、このプーチン大統領の思惑に支配された相場を渡り歩くことなど不可能に思えた。


 まさに、プーチン大統領の持つピストルの銃口が突きつけられているような状況なのだ。


 一人で、パソコンの電源をつけて、チャート表示させる。


 いぜんとして下落し続ける様子が映し出されている。


「ドル円だけは、強いな……」


 リスク回避通過のドルだけは、比較的上昇の気配を見せている。


「円よりも、強いのか……」


 頬杖をつきながら、片手でマウスを動かし、色々な通貨を表示させていく。


「カリン……先輩……」


 相場のことは、あまり頭に入ってこなかった。


 それよりも、カリンのことばかりが気になる。


 と、そこへ、部室のドアが静かに開く音がきこえた。


 振り向くと、カリンが立っていた。


「カリン、先輩!」


 大きな声を上げてしまった。


 カリンは、少し驚いた様子だったが、すぐにニコリとして、


「おつかれ~!」


 と元気よく言った。


「いや~、掃除当番が長引いちゃって~!」


 いつもの陽気なカリンに戻っている。


「先週は急に休みにしちゃってごめんね~。でも、難しそうな相場だったから、うかつに入ったら、やられてたよね~」


 しかし、そんなカリンの態度に少しイライラする。


 先週、あれだけおかしな態度をとっていて、今更なしになってできっこない。


 カリンは、いぜんとして、とぼけたような話を続けている。


「カリン先輩!」


 カリンの話をさえぎる。


「どうして突然、こなくなったんですか?」


 問い詰めるような口調になってしまった。


「うーん、なんかちょっと、体の調子が悪いっていうか? 風邪のひきはじめみたいな」


 カリンの目が泳いでいる。


「風邪のひきはじめって、なんなんですか」


 カリンは少し戸惑っている。


「カリン先輩、もしかして、昔の部活のこと、気にしてるんですか?」


「え?」


 カリンは、アヤノが急に言ったことを、理解できていないようだ。


「先週、自分が大孫おおぞん先生に謝るって。自分のこと、恨んでいいって……」


「いや、それはさ、えーと」


「剣道部の時と同じなんですか?」


 カリンの顔が、急に険しくなった。


「アヤノ、何、言ってるの?」


「わたし、カエデ先輩に聞きました。中学の時に、剣道部でカリン先輩がとった行動のこと」


「ちょ、アヤノ……」


「カリン先輩、自分のこと大事にしなさすぎです。もっと、人のことじゃなくて、自分のこと考えてください」


「アヤノ、やめて……」


「自分に責任があるとか、自分を恨んでいいとか、ちょっと、どうかしてます」


「もう、やめにしよう。チャート見よう……」


「どうして、そんなに自分を犠牲にしようとしてるんですか?」


「……」


「そして、自分が謝るとかって。聖人でも気取ってるんですか」


 ドン!


 と、カリンは大きく机を両手で叩いた。


 はっとした。言い過ぎたかもしれない。決して自分は、カリンを問い詰めたり、批判しようとしていたわけではない。


「アヤノ、もう、たくさん……だよ……」


「カ、カリン、先輩……、あの、わたし、すみません、言い過ぎちゃったかも……」


 カリンは両手で肩をつかんでくる。


「うっ」


 カリンの、両手の握力が肩に伝わる。


 カリンは、顔色はそこまで変えてないが、怒っていることは分かった。


 そんなカリンの顔は見たことがなく、むしろ怒っているほりも怖いと思った。


「アヤノ、ひどいよ……」


 カリンは、静かに言った。


「なんで、そんな話、聞いちゃったの……。アヤノ、人の知られたくないこと、詮索する趣味でもあるの?」


 声が出ず、首を横にしか振ることしかできない。


「もう、わたしに、構わないで……」


 そういって、カリンは肩から手を放し、カバンをもって部室を出て行った。


 アヤノは、あっけに取られてしまった。


 カリンは、剣道部でカエデの彼氏になった男子を殴ったこと。その後、剣道部が出場停止処分になり、部員から恨まれることになってしまったこと、そのことは触れられたくない過去だったようだ。


 呆然と立ち尽くす。罪悪感だけが込み上げてくる。


 どうして、こんなことを言ってしまったのだろう。


 行動を誤った。カリンが、先週のことをなかったことにするかのように、陽気な振る舞いでやってきたからには、触れずにすませばよかったのではなかったか。


 もうカリンが部活にきてくれないかもしれない。それどころか、もう自分とは口をきいてくれないかもしれない。


 ふと、チャートに目が行く。


 総資産114万円の表示が恨めしい。


 これさえなければ、自分が欲張って取引しなければ、そもそもこんなことにはならなかったのだ。


 一方で、カリンの態度にも腹が立ってきた。


「たしかに、過去をほじくりかえしたのは、わたしが悪いけど。わたしは、心配しただけなのに」


 それに、カエデとは偶然話すことになり、カリンの過去はその結果分かったことでもある。


「詮索する趣味って、そんなひどい言い方しなくてもいいでしょ」


 ドル円の動いているチャートがチラチラと視界に入る。


「こんなの、わたし一人で、すぐに取り戻してやる!」


 チャートの分析もせず、ドル円を選択し、売りの文字をクリックした。


「114円90銭? 115円台になんていかないでしょ! ほかの通貨がこんなに下がってるんだもん、ドルだって下がるでしょ!」


 半ばやけくそだった。


 10Lotのドル円ショートポジションを、感覚だけで持ってしまった。


 そのままパソコンをシャットダウンし、カバンをもって家に帰った。




 3月8日の朝。ポジションを持ってからは、腹が立ってチャートを見ていなかった。


 さすがに、ドルはレンジか、下落しているだろうと思い、チャートを見た。


「うそ……でしょ?」


 ドル円は115円50銭付近まで上昇していた。


 含み損6万円。


「いや、いやいや、これは、下げるでしょ……」


 そこまで大きな危機感は抱かずに登校した。


 しかし、授業中もドル円の動きが気になる。


 休み時間になるとスマホで為替をチェックする。


 ドル円は、115円30銭付近まで戻っている。


「よかった……心配させないでよね……」


 しかし、次の授業が終わってもう一度チェックすると、


「また、50銭に上がってる……」


 一日、115円50銭台を推移しているドル円にやきもきした。


 放課後、危惧していたとおり、カリンは部室にはやってこなかった。


 一人だけの部室で、チャートを見続ける。


 やはり、50銭台を推移している。




 翌3月9日も、ドル円は115円50銭台の前後を推移した。


 気が気でなくなってきた。


「どうして……。いやいや、リスクオフで上昇してきてるんだから、リスクオンなら売られるよね……」


 部室でも、一人夜遅くまでチャートとにらめっこが続く。


 しかし、


「115円80銭……含み損、9万円って……」


 だんだん、部活にこなくなったカリンに向けても怒りがわいてくる。


「どうして、急にこなくなったの。二人でやるって、決めたのに……。途中でいなくなるなんて……」


 その日、ウクライナのゼレンスキー大統領は、NATO、北大西洋条約機構への加盟を断念することを発表。ロシアの特別軍事行動がおさまるとの見方から、一気にリスクオンに傾いた。


「リスクオン。これで、ドル円は、下がるよね……」


 しかし、アヤノの期待はむなしく消えた。




 3月10日……


「ドル円、116円超え……含み損、11万円……純資産103万円……」


 ふらふらと登校した。


 もう、頭の中は、含み損のことでいっぱいだ。


 授業中も、ドル円は下落せず、昼休みには116円20銭近くまで上昇した。


 もう、自分ではどうしようもできない。


 どうして、また、こんなにおかしなことをしてしまったのだろうか。


「カリン、先輩……」


 なぜだか、カリンのことが頭に浮かぶ。


 放課後になり、部室に向かう。


 しかし、カリンのいない部室に行く意味など、あるのだろうか。


 投資は、家でもどこでもできる。


 でも……


「わたし、もう。一人では、だめかもしれない……」


 そこにカリンがいることに、一縷の望みを抱いて、部室の扉を開ける。


 すると、目を疑った。


「カ、カリン先輩!!」


 そこには、カリンがいたのだ。


 幻でも見たのではないだろうかと、目をこする。


「お疲れ」


 カリンが、照れくさそうに手を振っている。


「あの、カリン先輩。もう、来ないかと思いました……」


 本当に、疲れ切って幻を見ているのではないかと思い、カリンに近づく。


 幻覚ではない。ふわっと、コーヒーのいい香りが伝わってくる。


「あの、わたし、問い詰めるなんて気はなかったんです……。でも、カリン先輩の過去について色々とカエデ先輩から聞いちゃって……。本当にごめんなさい」


 頭を下げようとした。


 しかし、下げようとした頭をカリンが止める。


「謝るのは、わたしのほうだよ」


 顔を上げてカリンの顔を見た。


 カリンは照れくさそうにして、手で少し顔を掻いてから、


「アヤノの気持ち、わかってた。わたしのこと、心配してくれてたんだって。なのに、ちょっと気が立っちゃって。あの、肩を強い力で握っちゃったけど、痛くなかった?」


「痛かったです……」


「ごめん……」


「それに、怖かったです。カリン先輩、すごい怖かったです……」


「うう、ごめん……」


 だんだんと、涙があふれてきた。


 カリンは、あたふたした。


「ひどいです。もう、部活に来ないかと思って……。それに、わたし、カリン先輩が本当に怒っちゃったと思って。そして、わたしのこと、嫌いになっちゃんだと思って。もう二度と、口もきいてくれないかと思って……」


「ごめん、ね……」


 カリンが、肩に手をかけてくる。今度の手は、温かい。


「どうして、来てくれなかったんですか……」


「いや、あの……知らなかった? わたし、風邪ひいて、休んでたの」


「ふぇ?」


 泣いた顔でカリンを見る。


「風邪のひきはじめみたいで、部活しばらくお休みにしてたじゃない?」


「ええ、あれって風邪だったんですか!?」


「うん。だから、廊下で見かけた時も、うつしたら悪いなって思って、遠くに離れていたんだよ。ちょっとよくなったかなって思って部室に行ったけど、体調の悪い時はダメだね。風邪のせいだけじゃないだろうけど、そのせいでアヤノにつらくあたっちゃったのかもしれない……。家に帰って熱測ったら、かなり高くなってたんだ。またコロナにでも罹ったのかとあせったよ。でも、今度は普通の風邪で、もうへっちゃら」


「あの、それなら、休んでいるって、スマホで何か連絡してくれてもよかったじゃないですか!」


 少し怒った口調で言った。


「いや、スマホ、教室の机に入れっぱなしにしちゃってて……」


 カリンが、照れながら言った。


「バカじゃないですか!」


 カリンに抱き着く。とても、腹が立つ。でも、とても安心した。


「ごめん。本当に」


「…………」


 しばらく、沈黙が流れる。


 カリンがゆっくりとささやく。


「わたし、あんまりこういうこと分かってなくて。でも、アヤノがきちんと言ってくれたから、分かったよ。自分を犠牲にしなくても、アヤノは受け入れてくれる。わたしのこと、恨んだりしないって」


「あたりまえです……」


「わたし、どうせ嫌われるんなら、自分から去ろうって、ちょっと格好つけていたのかもね」


「まったくです……」


「でもさ、わたしね、中学校の時に戻れたとしても、きっと同じことやると思う。カエデが暴力振るわれたら、きっとその相手、殴ると思う。たとえ嫌われても……」


 黙って、カリンの言葉を聞いていた。


「でも、一つだけ違うとしたら、今は理解してくれる人には、色々相談に乗ってもらうってことかな」


 カリンが見つめてくる。


「こんなわたしだけど、これからも、一緒にいてくれる?」


「もちろんです!」


 笑顔で返事をした。


 カリンもニコリと笑う。


「よーし、そうと決まったら、残り6万円をとりもどそう! さあ、チャート……」


「カリン先輩……」


 せっかくいい話になってきたところだが、申し訳ない気持ちで話をとめる……


「あの、わたし……また、バカなこと、しちゃいました……」


「え? どういうこと……」


「ドル円、114円90銭でショートしちゃいました。含み損、10万円超えちゃいました」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る