第4話 様子がおかしい
2月も終わる28日、朝見た為替のチャートに目を疑った。
「暴落ってレベルじゃない……」
ロシアへの経済制裁として、各国が国際銀行間通信協会、通称SWIFTからロシアの主要銀行を排除したのだ。
そのため、ロシアを中心に、各国の通貨の取引が抑制されることや、ロシアの国や企業を相手に取引をしている決済が正常に実施されず、最悪資金回収できなくなることから、大きく通貨が下落していたのだ。
「もう、相場の様子がおかしすぎるよ……」
怖くて、チャートを見るのをやめた。
「ノーポジにしておいて、よかった。よし、今日からだ」
3月末までに、総資金を12万円伸ばし、120万円としなければ、留年が決まる。
3年生の卒業式を翌日に控えた
まず、通学中には、予備校のチラシを配る人たちや、自動車学校のチラシを配る人たちが校門の前にたむろしていた。
「おはよう、アヤノ!」
後ろから、聞きなれた声に呼びかけられる。
「カリン先輩!」
振り向くと、ニコリと笑っているカリンがいた。
「商売熱心だよね」
「そうですね。チラシ刷ってる会社とか儲かりそうですよね」
カリンはクククっと笑いをこらえた。
「カリン先輩、わたしなにか変なこと言いました?」
「いや、もう大丈夫みたいだね。さっそく儲けること考えちゃって」
「うっ」
たしかに、商売熱心だ、と言われたら、普通の人は予備校や自動車学校の商魂を讃えるだだろう。しかし、そんなことよりも、チラシを印刷している会社の業績のことが最初に頭に浮かんでしまったのだ。
「べ、別にいいじゃないですか!」
ちょっと、顔が赤くなった。
「いいよいいよ照れなくて」
恥ずかしくはあるが、別に馬鹿にされた気にもならない。
ついにこらえきらなくなって笑い出したカリンにつられて、一緒に笑ってしまった。
休み時間に入るたびに、在校生となる生徒が、3年生の先輩に告白したり、3年生が卒業式が終わった後の打ち上げの話をしたりしている。
「今年のわたしには、縁がない話だったな……」
ロマンスや友情を横目に見ながら、なんだか切ない気持ちになる。
「今年は投資のことで頭がいっぱいだったけど、来年こそは!」
そう思う。そのためには、必ず、あと1か月で12万円を稼ぎ出さなくてはならない。留年なんて、シャレにならない。
一日の授業を終え、投資部に行く。
同じタイミングで、カリンも部室にやってきた。
パソコンをつけて、チャートを表示させる。
「ここからだね」
「はい」
これまでは、それぞれの裁量でトレードをしていた。
しかし、ここからは、二人で協力して、108万円となったアヤノの総資産を120万円まで伸ばす。
ドル円、ユーロ円、ポンド円、日経平均、ニューヨークダウ、ナスダック、S&P500、原油、ゴールド……。そして、それぞれ15分足、1時間足、4時間足、日足を表示させて、一通りチェックしていく。
「ドル円はあまり動いてないようですね」
「完全に、ドルと円はリスク回避通貨になっているね」
「そういうことなら、今後は基本的に、ドルと円は買い、それ以外の通貨は売りと考えるといいってことですよね」
「そうだね。だけど、今はリバウンドが入っているよね」
一通り、FXの通貨について考えていく。
「指数はそこまで動いてませんね」
「軍事的な企業の株が伸びているから、平均値はそこまで変わらないのかもね」
少し不謹慎な気がする。ウクライナの人たちが被害にあっているのだ。
それだけれど、今は自分の進級を考えることも重要だ。
「商品は、原油とゴールドは高値圏で推移してますね。でも、ちょっと高すぎて手をつけられなさそうな……」
「だよね。もし解決に向かったら、一気に落ちるだろうし。でも、解決しなければ、まだまだ上がる可能性もあるしね」
「なんといっても、今はファンダメンタルですよね。ロシアとウクライナ情勢でどうなるか」
「だね。やっぱり、もし損しそうになったら、すぐに切れるようにしよう」
「それなら、スプレッドが狭くて、かえってファンダメンタルにすぐに反応しそうなものを選べばよいかもしれませんね」
「うん、ヘッドニュースに反応していきなり動いたら、すぐに損切するって方向で」
「となると……」
二人の意見は一致した。
「ユーロ円」
ユーロ円のチャートを見る。週を挟んでの取引開始時には、週末のロシアの主要銀行をSWIFTから除外したことにより、大きく下落していた。
しかし、今日一日で買戻しも入っている。
「日本時間が終わって、欧州時間に入ってからどうなるか、ですね」
「だね。でも、まだまだ低いし、欧州時間に入ってからも、もう少し買戻しが進むんじゃないかな」
「私も、そう思います。経済制裁もしましたし、ロシアが停戦に前向きになる、っていう希望も市場には出てくるかもしれませんしね」
二人の意見は一致した。
ユーロ円、ロング。
取引画面から、ユーロ円を選び、買いポジションを選択する。
ポジションサイズは……。
チラッとカリンを見る。
「本当は、慎重に行きたいところだよね……」
「はい……」
ここまできて、少し自信がなくなる。
カリンは真剣な表情で、考えを言う。
「でも、私は、10Lotくらい入れてもいいんじゃないかな、って思う。かなり下げてるし、仮に下がったとしても、今はそれがネガティブなニュースに反応したって分かるから、すぐに損切すればいいわけだし。ここは、がっつり取ることを考えるといいんじゃないかな?」
カリンの考えは、休みの日に見た投資本への書き込みを見ると、しっかりと根拠のあるものに思えた。
ここにきての損は怖い。
でも、カリンのことは、今は絶対的に信じられる。
それに何より、二人とも、ユーロ円はロング、という意見では一致しているのだ。これで負ければ、仕方がない。
「じゃあ、ここは度胸で、10Lotいきます!」
ポジション枚数を10として、取引ボタンを押す。
129円00銭。買い注文が成立した。
ふう、と息を吐く。
しばらく、数百円から数千円の含み益と含み損を行ったり来たりしている。
二人は無言でチャートを眺めている。
1分足、5分足、10分足、と次々と変えていく。ヘッドニュースにも警戒する。
しばらく、時間がたった。
「ねえ、アヤノ……」
静かにカリンが声をかける。
カリンの方を向くと、真剣な表情だ。これまでカリンの真剣な表情は見てこなかった。むしろ、和気あいあい、冗談ばかりを言い合っていたのだ。
「もし、もしもだよ……」
カリンが続ける。
「もし、120万円達成できなかったら、私、大孫に謝るから。そして、アヤノが進級できるように、いろんな先生に頭下げるから……」
突然、アヤノが進級できなかった時のことを切り出された。
「カリン、先輩?」
自分は、12万円を勝つことしか、考えないようにしていた。しかし、カリンは違っていたのだ。
「先週さ、
先週、108万円まで資産を減らしてしまい、どうしていいか分からなくなっている時、部活顧問の大孫にまで責められた。カリンは、そのあまりにひどい大孫の態度に激昂し、殴り飛ばしてしたのだ。
「あの時のことは、後悔していないよ。アヤノにあんな酷いこといって、サイテーな先生だと思う。でも、もし残りの12万円勝てなかった時のことを考えたら、ちょっと不利になることをしちゃったかなって思って……」
「い、いえ、わたし、うれしかったです」
「ううん。もしあの時、わたしが軽率なことをしなければ、どうにか頭下げて、もし120万円がダメでも、進級をお願いすれば、なんとかなったかもって、思って」
カリンの声が、どんどん小さくなっていく。
「ごめんね……」
カリンは、ついに顔を伏せてしまった。
普段のカリンは、お気楽な性格のように見える。しかし、実のところは、そんな自分の性格を隠して、いつもアヤノに元気にふるまってくれているのだ。先輩として、明るい部活の場を提供できるよう、カリンなりに頑張っているのだ。
「もし、12万円が達成できなかったら……進級できなかったら……、私のこと、一生恨んでいいからね……」
そんなことを言われたくはない。
カリンには、もっと明るくしていてほしい。
「そんなこと、絶対しないです!!」
座っていたイスから立ち上がって、大声で言う。
顔を伏せていたカリンも、あまりの大声に、びくっとした。
「わたしのために、あそこまで言ってくれた人、今までいません。それに、カリン先輩、とても努力家じゃないですか!」
自分でも、熱っぽくなりすぎていることが分かった。でも、関係ない。ちゃんと伝えないといけない。
「わたし、カリン先輩の書き込んだ本見て、すごいと思ったんです。正直、私、たぶんこっちに動くだろうな、とか、感覚でトレードしていたから」
カリンは、顔を上げる。
「投資は、ここまで考えてやるもんなんだって。これまでに勝てたのは、単純に運がよかったからなんだって、そう思いました。だから……」
「だから? わたしは責任とらなくてもいいって、そう言いたいの?」
思いがけず、カリンが言った。それも、冷ややかな声でだ。
「え、はい、そうですけど……えっ?」
自分が言おうとした言葉を先にカリンに言われて、驚いてしまった。
「そ、そうです。仮に12万円とれなくても、カリン先輩が、他の先生たちに謝る必要なんてないです。私の問題ですから」
カリンは黙っている。
「カリン、先輩?」
「きっと、わたしのこと、恨むよ……」
そういって、カリンは顔を背けてしまった。
いったい、どうしたというのだろうか。突然、カリンの態度がかわってしまった。
もし、仮に12万円取れなかったとしたら、どうしていいか分からないのは事実だ。しかし、カリンに頭を下げてもらう必要なんてまったくない。自分がミスをして、こうした事態を招いているのだ。
それに、カリンと相談して取引することにはした。しかし、だからといって、負けてしまっても、決してカリンのせいにする気はなかった。
しばらく沈黙が流れた。
チャートは、欧州時間に入ってから、一気に上昇してくる。
「これって……」
129円10銭、20銭。
アヤノとカリンは画面に注目する。
「カリン先輩、2万円の含み益です。そろそろ、切りましょうか」
「いや、ちょっと待って……」
カリンは真剣にチャートとニュースを見比べている。
「ウクライナとロシアの停戦交渉があるかもしれない……だから、上昇しているんだ。もうちょっと、待ってみよう」
アヤノはうなずいた。
30銭、40銭。
まだ、上昇していく。
「129円50銭を超えました!」
かなり、大きく上昇していく。
「少し下落がはじまるまでは伸ばそう。頭と尻尾はくれてやれ、だよ」
時刻は19時を回った。
とっくに、他の部活は帰宅してしまったようだ。
校舎の中は静かだ。
部室のパソコンの明かりだけがこうこうとともっている。
20時、129円70銭を超えたところで、下落がはじまったのが分かった。
「トレンド転換? いや、まだいけるでしょうか?」
ローソク足は、129円60銭を割り込む。
「10銭落ちた。利確、した方がいいね」
「わたしも、そう思います」
利益確定。6万円!
「や、やった! 半分です! 目標額の半分とれました! 総資産114万円です!」
うれしい。手放しで喜ぶ。
ただ、カリンは少しニコリとしただけだった。
「よかったよね。1万円取り損ねちゃったけど」
少し元気がない。
「あ、あの、さっき……」
さきほどの話をしようと問いかけたが、すぐにカリンは話題をかえた。
「もう20時だね。こんな時間になっちゃった。帰ろう」
「あ、そうですね」
カバンを持つ。カリンは、なぜか急いでいる。
今日は、カリンはもうこの話には触れたくないようだ。
せわしくなく荷物をまとめ、カリンに続いて帰宅した。
3月1日は卒業式だ。
3年生が涙を流して別れを惜しんでいるのを見ると、ぐっとくる。
この日は、3年生を送るだけの日で、授業もない。
午後からは投資に専念できる。
卒業式が終わってからすぐにスマホにメッセージが届いた。カリンからだ。
『ゴメン、今日部活に行けなくなった。こんな時期なのに、本当にゴメンね』
「カリン先輩、どうしたんだろう。もしかしたら、3年生との用事でもあるのかな」
昨日のカリンの様子がおかしかったことを思い出した。
「でも、昨日のは、関係ないかな?」
『分かりました。昨日かなり勝てましたし、ウクライナ情勢で動きも難しいので、今日は休みにしましょう』
返信すると、ふう、とため息をついた。
早く、残りの6万円を取り戻したい気持ちもある。ただ、あせってもいいことはない。まだ、時間はある。
それに、スマホでチャートを見ると、昨夜20時を境に相場は下落をはじめている。
ウクライナとロシアの停戦交渉がうまく運ばず、ロシアからの攻撃はとどまることを知らずに実施されている。次の停戦交渉もいつはじまるか分からず、こうした状況の悪さが嫌気されているようだ。
「今は、危ない橋は渡らない方がいいのかも」
今日は、これ以上の投資のことは忘れて、3年生の旅立ちを心からお祝いすることにした。
翌3月2日にも、カリンは部活の休みを提案してきた。
『今週は、停戦交渉のニュース次第でどちらに動くか分からないから、お休みにしたいんだけど、どうかな?』
たしかに、28日以来、2回目の停戦交渉が実施されるか否かが不透明だ。それに、ロシアは核攻撃までチラつかせている。
世界情勢に目を向けると、国際連合でロシアへの非難が決議されている。今後、世界がどのように動いていくか、まったく予想できない。
『分かりました。今週はポジションを取らないことにします』
返信はしたが、同じ学校にいるのだから、直接伝えてくれてもいいのに、と思った。
ひな祭りの3月3日、家にあるひな人形がかわいいとか、女子はうかれている。
ただ、カリンのことが、だんだんと心配になってきた。
カリンの様子がおかしいことも気になる。
カリンとは移動教室の時など、昨日から数回、廊下ですれ違ってはいるが、カリンはアヤノと目を合わせないようにして、逃げるようにどこかに消えてしまう。
「もしかして、月曜日に、様子がおかしかったけど、何か関係あるのかな?」
自分の投資も気になるが、カリンの様子がおかしいことが気にかかった。
「ちゃんと、確かめなきゃ」
こういうことは、しっかりと確認しておかないといけないと思う。
放課後、カリンの教室へと向かう。
2年生の教室。一歳年が違うだけど、大人に見える人たちばかりだ。
「もし、留年したら、私の周りはみんな2年生になっちゃうのか……」
ううん、と首を振った。
「今は、カリン先輩のこと」
カリンの教室までくる。
先輩たちに話しかけるのは、なぜか勇気がいるが、
「あの、カリン先輩いますか?」
教室から出てきた生徒に話しかける。
「カリン? えーと」
問いかけられた生徒は教室を見回す。
「どしたー?」
もう一人、2年生が教室の中から現れた。
「カリンって、もういないの?」
「なんか、そそくさと帰ったぞ」
出てきた生徒がアヤノを見る。
「1年生か?」
体育会系で色黒の女子だ。少し怖い。
「は、はい。投資部のことで……」
「投資部……ああ、そうか」
体育会系の女子は、深刻そうな顔をして、
「あの裏切り者には、気を付けた方がいいぞ」
「え?」
突然、カリンのことを裏切りものと言われたことに驚いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます