アンチクショウに花束を

そうざ

Flowers for the Subjects

「それで、先方はどんな要望を?」

 自室のソファーにどっかと身を投げた理事長は、そそくさと煙草に火を点けた。

「この部屋はまだ喫煙が可能でしたか?」

 対面に腰掛けた学部長が問うと、理事長は眉根を更に深くして煙草とライターを一旦テーブルに置いた。

「読んでくれ」

「はい、先ずは報酬のベースアップと――」

「既に妥協んだ条件は繰り返さんで良い」

「いえ、更なるベースアップを要求して来ました」

 一瞬固まった理事長は、思わず煙草とライターを引き寄せたが、歯軋りをしながら再び放り投げた。

1%いちパーか? 2%にパーか?」

10%テンパーです」

 紅潮した理事長がテーブルを引っ繰り返そうとしたので、学部長が慌てて制止しようとした。が、そもそも重たいテーブルは老体の腕力ではビクともしなかった。

「アンチクショウッ、思い上がりやがって!」

「そのアンチクショウのお陰で大学経営けいえいは良好なんですから、余り強く出られませんねぇ」

 そもそも『アンチクショウ』は単なる一被験者に過ぎなかった。それが実験の最中さなかに知恵を付け、主義主張をするようになり、仲間同士で団結し、労働組合を組織するまでになった。

「えぇと、続けます……労働環境の改善に関して、生活空間の拡張、食料の増量、睡眠時間の延長、見舞金――」

「見舞金?!」

「被験者及びその一族郎党への見舞金制度を創設しろという要望です。実験の数が数だけに捻出額は馬鹿にならんと思われますが」

「年払い、一律支給か?」

「いえ、実験が行われる度に現物支給との要望です」

「なっ……?!」

「体を張った実験ばかりですからねぇ」

「うぬぅぅうっ!」

 理事長はライターの発火石フリントをグリグリッと擦り、もうお構いなしに煙を撒き散らした。

「先を続けます」

「まだあるのかっ?!」

「はい、この通り」

 学部長が掲げた要望書には、老眼を嘲笑うかのように細かな文字がびっしりと詰まっている。

「残りは全て突っ撥ねて構わんよっ」

「全項目が承認されない場合の抗議方法も書かれております」

「何をぉっ?!」

「ストライキを決行し、それでも改善されない場合は契約を破棄して出て行くと」

「けっ! 思い上がるにも程があるってんだっ。片っ端から首根っこ掴んで研究部ラボに監禁してやらぁ」

 下町生まれの気質がどんどんあらわになる理事長。銜え煙草をスッパスパである。

「それがその、集団自決も辞さないと」

「やれるもんならやってみろってんだっ」

「そう返される事を見越して既に投身した者が多数居りますが」

 激しく咳き込むゲッホゲホの理事長。

「けけけけっ、研究チームのリーダーは理化学部の有住ありすだったなっ? 奴は何をしてるんだっ?!」

「彼は完全にに組みしてますよ。研究対象であり、研究仲間でもあり、最近では同志のように感じてるようで……まんまとたらし込まれてるとも言えますが」

唐変木とうへんぼく朴念仁ぼくねんじんのこんこんちきめっ!!」


 結局、理事長は要望書の押印欄に渋々判子を突くしかなかった。ぐいぐいと押し過ぎて朱肉がいびつに滲んでいる。

 理事長は、まだ右も左も判らなかった頃の『アンチクショウ』のい姿を思い出していた。いたずらに情が湧くのを按じて深く関わらぬよう距離を取っていたが、その事が却って反乱を許す土壌を生んだとすれば、何とも皮肉な話だ。

 学部長が生乾きの印に息を吹き掛けながら言った。

「それにしても、アンチクショウがこれ程まで狡猾になるとは思いも寄りませんでしたね」

生意気なまを言えるようになれたのは、実験中に起きた突然変異アクシデントのお陰じゃないか。言わば大学うちはあいつを知的にしてやった恩人だ。なのに、まるで恩を仇で返すような真似をぅ、全くっ」

「アンチクショウは自身が貴重なサンプルである事を冷静に理解してるんですよ。自分の身柄が保証されてるからこそ、仲間の犠牲を容認しながらもその権利を守るだなんて合理的且つ相反的主張が出来るんでしょう」

「んなもんっ、畜生の仕業だっ」

「そりゃあ、どんなに知的でもですからねぇ」

いずれ私の地位まで脅かしそうで敵わんよ」

「あ、そう言えば要望書の最後に……」

「あぁん? 死んだ時は墓に花束でも供えろってかぁ?」

 苦々しく二本目の煙草を銜える理事長。

「学内全域を禁煙にしろと書いてあります」

 煙草もライターも渾身の力で窓から投擲し、今度こそはとテーブルに手を掛けたが、やっぱりビクともさせられない理事長。

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