第17話

「内田さん、あの……本当にもう仕事に戻らないといけないので」


 二人で何を話す訳でもなく、無言で歩いていた黒兎は、耐えられなくなって声を上げた。

 コンビニから少し遠回りして、自宅マンションから離れた所で足を止めると、内田は分かりやすくイライラしたように言う。


「俺は諦めないって言っただろ? 黒兎が頷くまで引かないから」


 黒兎は息を詰めた。心臓が大きく脈打って苦しい。この状態の人間は、一体どうしたら分かってくれるのだろう、と震える息を吐く。


「本当に。話す機会はまた作りますから」

「そう言って、逃げる気だろ」


 黒兎は顔を顰めてため息をついた。だめだ、引いてくれそうにない。かと言って自宅マンションは知られたくないし、今二人で立ち止まっているのも危険な気がしてきた。


 黒兎は首を振る。


「内田さん、あなた今、何をしてるか分かってますか?」

「黒兎が素直にならないから悪い」


 内田の言葉を聞いて、黒兎は本当に頭が痛くなってきた。お願いですから、と黒兎は内田を見上げる。


「俺はあの時お断りしたはずです。確かに片想いの人がいますけど、あなたではありません」


 すると急に視界がひっくり返り、背中に衝撃が走った。胸ぐらを掴まれ壁に押し付けられたと分かって、いつかと同じようなシチュエーションに、一気に恐怖が襲ってくる。


「じゃあその気も無いのに仲良くしてたってのか?」

「……っ、だからそれは仕事上の話で……っ」


 その瞬間、左頬に強い衝撃があり、小さく悲鳴を上げて腕で顔を庇う。叩かれたと思うより早く足がすくみ、止めて、とか細い声で懇願すると、なぜか彼を更にヒートアップさせてしまったようだ。


「俺が勘違いしてるって言うのか!?」


 その通りだ、と黒兎は思う。けれど声に出せず、情けなくも涙が出てきた。恐怖と痛みで身体が思うように動かず、それが情けなくて更に泣けてしまう。


 内田は改めて黒兎の胸ぐらを掴み直した。


「俺が! こんなにも想ってるのに! 何で分からない!?」


 ひとつひとつ、言葉を区切って言う内田。黒兎は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


 それは、黒兎こそ言いたい言葉だ。


 雅樹への憧れから、恋愛感情に変わって十四年、雅樹と付き合いたいと思った事は山ほどある。でもその度に諦めてきたのだ。彼は自分に関係ない人脈は作らない。彼の視界にすら入れないのだから、期待するのは止めて見ているだけにしよう、と。何度も何度も、そう思い返してきたのに。


「お願いだから、止めてくださ……っ」


 黒兎は叫んだ。叫んだけれど最後まで言えずに、頭が強く揺れて地面に倒れ込む。反射的に腕で庇うけれど、髪の毛を引っ張られ掠れた悲鳴を上げた。


「何でだよ!? どうしてだ黒兎!?」


 次々と続く鈍い痛みに、この調子じゃ例え付き合ったとしても上手くいかない、と思う。付き合う気などさらさらないけれども。そうどこかで冷静に考える自分がいた。


(あ、やばい……)


 徐々に視界と思考が薄れてきて、身体に力が入らなくなってきた。このままだと死んでしまうかもしれない。


(ああ……そうか……)


 もはや内田の声が微かにしか聞こえなくなった黒兎は、そっと目を閉じた。


 いいのだ、これで。叶わない夢を見続けるより、さっさと終わらせた方がいい。何を今まで無駄な時間を過ごしていたのだろう? 雅樹の隣にいられないのなら、早くこうしておけば良かったのだ。


 右頬に、コンクリートの感触がする。口の中が鉄の味がして顔をしかめようとして、できなかった。


 内田はどうしたのだろう? そう思うけれど身体のどこも動かせない。けれど続いていた身体への衝撃が止んでいるので、まあいいか、と黒兎は意識を手放した。


 もうどうでもいい。生きていても意味がないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る