第16話

 それから数日後。今日は雅樹の予約が入っていない日だ。ここのところ、毎週来てくれていたのに予約が入らず、ぽっかりとその時間が空いてしまった。


 あれから、雅樹から食事した日のことについて、何も言われなかった。雅樹が黒兎のことを、どれだけ気にかけているのかそれで分かってしまい、#月成__つきなり__#の言う通りだったな、と気分が落ち込む。


「……」


 何だか気分を変えたくて、無性にコーヒーが飲みたくなった。散歩がてらコーヒーチェーン店に行くことにし、ユニフォームから私服に着替える。外へ出ると、春らしい陽気がそこにあった。


 しかし、黒兎の心は晴れない。


 外に出てきたのは失敗だったかな、と黒兎はため息をつく。なぜなら店がある通りはオシャレなお店が多く、女性客やカップルで溢れているからだ。


(人の幸せを喜べないのは、自分の心が腐ってる証拠だな……)


 楽しそうに笑うカップルを横目に、黒兎は視線を地面に集中させる。


 今までも雅樹に片想いしていたのは変わらないのに、一体何が変わったのだろう? 何もしていないのに涙が出そうになり、足早に用事を済ませようとする。


 すると、あるイタリアンレストランの前を通り過ぎた。ガラス越しに店内が見えて、思わず足を止める。


 そこにはスーツを着た雅樹と、女性の姿があった。彼らは笑顔で話していて、とても楽しそうだ。


(何で女性と?)


 そんなことを思って凝視してしまったからか、雅樹が不意にこちらを見た。そして黒兎と視線が合うと、わずかに苦笑したのだ。


「……っ」


 黒兎は反射的に歩き出す。


 そうか、雅樹がサロンに来られなかったのは、女性と会う約束をしていたからなんだな、と黒兎は拳を握り息を詰めた。


 用事があるなら仕方がない。なのになぜ、無性に泣きたくなるのだろう。


「だめだ、帰ろう……」


 せっかく出てきたのに、こんな気分じゃコーヒーすら飲む気分になれない。黒兎は回れ右をして、元来た道を足早に戻る。


 自宅マンションの近くのコンビニで缶コーヒーを買い、俺にはこれがお似合いだと卑屈に考えたところで、声を掛けられた。


 黒兎はその人物を見て、ひゅっと息を飲む。


「内田……さん……」


 そこにいたのは、黒兎が前職を辞める原因になった、内田がいた。見た目はあの頃から大きく変わらないけれど、こころなしか身につけているものが派手になった気がする。


「久しぶり」


 内田がそばまでやってくる。黒兎は逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、コンビニの前にいれば手は出してこないだろう、とその場に留まった。


「……家、この辺りなのか?」


 内田の質問に、黒兎はハッとする。家はここから歩いて五分だ、絶対に知られてはならない。


「……内田さんこそ、こんな所で会うなんて……奇遇ですね」


 冷や汗をかきながら、黒兎は慎重に言葉を選んだ。自分の情報を話さないようにしないと、と拳を握る。


「……まぁな。なぁ、今時間あるか? 少し話がしたい」


 内田の予想通りの提案に、黒兎は笑顔を作った。彼の言う話など、ろくなものではないだろう。


「すみません。休憩中なので、もう戻らないと」


 黒兎はそう言って、何とか内田と別れようと試みる。しかしやはり彼は食い下がった。


「休憩中? 今、なんの仕事してるんだ?」


 内田はさり気なく、黒兎の進路を阻むように立った。しまった、と黒兎は内心舌打ちして、誤魔化すように微笑む。何とか情報を何も渡さずに、内田と別れたい。そう思って頭をフル回転させた。


「……接客業です。お客様を待たせてしまうので、これで」


 しかしやはり内田は黒兎を逃がすつもりはないらしく、歩き出そうとした黒兎の前に立ちはだかる。ぞわりと背筋が寒くなって、思わず内田を見た。


「職場は近く? そこまで送るよ」


 冗談じゃない。黒兎はそう思う。職場兼自宅は、絶対に知られたくない。知られてはいけない。


 内田は一見優しい顔で黒兎を見ていた。けれどその瞳の奥には、ギラついた感情が見え隠れしている。


「そこまでしてもらわなくても……」

「俺はあの時の事を謝りたいんだ」


 黒兎の言葉を遮って、内田は言った。黒兎は思わず視線を逸らすと、更に彼は口を開く。


「悪かったよ、みんなの前でホモだなんて言って……」

「やめろ……」


 内田の声は大きく、周囲にいた人たちが振り返った。彼のその態度で、彼自身は全然反省していないどころか、再び黒兎を陥れようとしていることが分かる。堪らず歩き出すと、案の定ニコニコしながら付いてきた。


「言っただろ、諦めないって」


 表情や態度は爽やかなのに、黒兎はその粘着質な行動に寒気がする。


「内田さん……こういうことは、止めてくれませんか?」


 堪らずそう言うと、彼はクスクスと笑った。話が通じていないことを悟り、この場をどうやって切り抜けようか、と考えを巡らせる。


「黒兎がいつまでも意地を張ってるからだよ」


 許した覚えのない名前呼びに、走って逃げ出したくなった。けれどそれをしたら、内田はもっと強い態度に出るだろう。ハッキリ言おうにも、黒兎の味方になってくれる第三者がいないと、色々と厄介だ。


 思わずコンビニを離れてしまったことを後悔した。

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