第10話

「男って時々、本当に何も考えずに発言しますよねー」


 雅樹と慰め合いの関係が始まって一ヶ月。いずみは施術が終わってソファーで伸びをするなり、そう言う。


「また旦那さんですか?」


 黒兎は苦笑して尋ねると、そう、といずみは口を尖らせた。


「子供たちのお出かけの準備であたふたしてるのに、『明後日の買い物リストちょうだい』って……」


 明後日のことは明後日でいいじゃん! ってつい怒っちゃいました、と苦笑するいずみ。どうやら旦那さんだけで買い物に行くらしく、ついでに買ってきて欲しいものをお願いしたようだ。丁度その事を考えていたらしい旦那さんは、つい口から出てしまったとのこと。


「……男性は一度にあれこれできない生き物ですから……」


 黒兎は苦笑しながら温かいお茶を出すと、いずみは両手の指先で受け取ってフーフーとお茶を冷ます。


「でも先生はほんと優しいっていうか、人を癒すために生まれたっていうか」

「あはは……」


 乾いた笑い声を上げると、いずみは、もっと前に出れば良いのに奥手なんだから、とまだお茶をフーフーしている。


「……ところで、先生?」


 いずみは視線を落として黒兎を呼んだ。何か、と彼女を見ると、いかにも言いにくそうに口を開く。


「内田さんって覚えてます?」

「……ああ……はい……」


 黒兎は歯切れ悪く返事をした。思い出したくない過去を思い出しかけて、ペットボトルの水を飲む。


「会社、辞めたみたいです」


 耳に入れた方が良いと思って、といずみはお茶を飲んだ。しかし熱かったらしく、またフーフーとお茶を冷ましている。


「……氷、入れますか?」


 猫舌のいずみには熱すぎたようだ、氷を小皿に入れて持ってくると、彼女は先生のこういうところが良いんですよねー、と笑った。


「ありがとうございます。……内田さんの件も」


 黒兎は微笑んで礼を言うと、いずみはホッとしたようだった。あの頃の黒兎からすれば、今はだいぶ落ち着いたと思う。多分いずみもそう思っているだろう。


 過去のことだと思いつつも、生活を全て変えざるをえなかった黒兎にとって、それは重要な情報だった。そして、そのためにいずみが未だにそばにいてくれることも。


「本当に、皆川さんには足を向けて寝られません」


 黒兎はそう言うと、いずみはいやいや、と笑う。


「言ったでしょ? 私は人間的に綾原さんが好きなんです」


 いつもの敬称ではなく、苗字で呼ばれたことで、彼女も本気で言っていることが分かった。それだけで、そこまでしてくれる事に申し訳なさを感じて、黒兎はペットボトルを持つ手に力を込める。


「本当に、すみません……」

「謝るより、お礼が良いです」


 からっと笑ういずみに、黒兎は力なく首を振った。


「いえ……ここまでして頂きながら、本当のことを俺は話していないので……」


 そう言うと、彼女はなんだ、そんなことか、とまた笑う。


「客観的に見ても、被害者は綾原さんでした。それだけで充分です」

「……」


 言外に、何も言わなくて良いと言われ、ますます申し訳なくなってきた。すると彼女は優しく微笑む。


「……すみません。私は綾原さんが何も言わない事が、答えだと思ってたんですけど……」


 違いますか? と問われ、黒兎は苦笑した。


「……はい。俺はゲイですよ」


 いずみはやっぱり、といった感じで長く息を吐く。そしてこれ以上は聞かない方がいいですね、とマグを置いて立ち上がった。


「内田さんの事、また新しい情報が入ったら報告します」

「ありがとうございます……」


 大事なお客様なので、こちらが気を遣わなければいけないのに、いずみには助けられてばかりだ、と黒兎は自嘲した。そのままいずみはいつものように、元気にマンションを出て行く。


(内田さん……会社辞めたんだ)


 内田は黒兎が前にいた会社の先輩だ。彼とは業務内容は違っていたけれど、同部署だったのでそれなりに仲良くしていた。


 しかし、黒兎がいま、紹介制でサロンを開いているのも、友達がいないのも、原因は内田にある。


(元々友達はそんなにいなかったんだけど)


 そう内心で呟いて、黒兎は次の客に向けての準備を始めた。

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