第2話 不穏な空気

 翌日、紫音が傘を閉じながら研究所に入ると、所員がなにやら慌ただしく動いていた。必死で不安な形相に安定しない声色、時折飛び交う怒号にすぐさま異常事態が発生したと察する。急いで白衣に着替え、モニタールームに直行すると、八雲が複数の研究員から矢継ぎ早に状況報告を受けていた。冷や汗の量が尋常ではなく、血眼になって対応に当たっている様子から、かなり深刻を極めているのだと分かった。


「紫音先輩、おはようございます。何か、嫌な予感がしますね」

「おはよう、葵。これはかなりまずそうだ」


 とりあえず、何が起こっているのかを把握しようと思い、モニターの方へとおもむろに近づくと突然、ガタイの良い強面の人物に行く手を塞がれた。


「すみませんが、今は不用意にモニターに近づかないようお願いいたします」

「え?どうして?」


 紫音たちの頭に疑問符が浮かぶ。自分たちの施設なのに、顔も知らない他人にとやかく言われるのは気分があまり良くなかった。仁王立ちをしているその人物は他の検疫官と似た紺色の制服を着ているが、胸元にある紋章は全く見覚えのないものだった。


「それはね、下手に混乱を広げないようにするためよ」


 話しかけられた方を向くと、茜が腕を組んで立っていた。


「茜!いったい何が起こっているの?」

「そうね、いろいろ話したいところだけど……。ここは少し騒がしいから、更衣室に行きましょ」


 そう言うと茜は先に更衣室へと向かっていった。その足取りが普段よりも少し重くなっているのを紫音は見逃さなかった。



「あ、あの、僕がここにいて大丈夫なんでしょうか?」

「ああ、大丈夫だよ。今は誰も来ないはずだから」


 その中性的な見た目で時々忘れそうになるが、葵は立派な男の子だ。女子更衣室に入るのにはどこかためらわれる部分があるのだろう。紫音は彼がそういった不安を抱くと分かっていたが、あえて口に出すことはしなかった。


「ま、バレても葵の見た目なら、ワンチャンどうにかなりそうだしね」


 紫音がいたずらっぽく笑うと、葵はむっとした表情を取る。彼にとって「女の子っぽい」と言われるような発言は気に入らない部類に入るのだ。それを見た茜は呆れたようにあははっ、と乾いた笑いを見せた。


「紫音、まーた後輩いじりしてる」


 声色が少しだけ、いつもの茜に戻ったように感じられたので、紫音は心の中でほっとした。


「それじゃ、何が起こっているのか説明してくれるかな」

「あ、うん。二人とも、落ち着いて聞いてね」


 紫音たちは首を縦に動かして同意を示す。それを確認すると、茜は一息大きく呼吸をし、ゆっくり口を開いた。


「実はね、今日の朝にタイムトラベルから帰還する予定だった部隊が、まだ戻ってきていないの」

「「えっ……」」


 紫音たちは言葉を失った。一瞬の沈黙の後、蒼生が重い口を開いた。


「今日帰還するのってたしか、第2調査団、でしたよね?安土桃山時代に向かったっていう」

「第2調査団……」


 紫音は手を顎に添えて、第2調査団の構成を思い出した。そこにはたしか、考古学者、植物学者、地質学者の計3人が所属しており、いずれも不用意なトラブルは起こさない、慎重な人ばかりだったはず。そうなると、やはり不測の事態に巻き込まれたのか?


 紫音の思考をよそに、茜は話を続ける。


「葵くんの言った内容で間違ってないよ。原因はまだはっきりしてないけど、タイムマシンが壊れたのか、それとも、現地で何かしらの事件に巻き込まれたのか……。上げだしたらきりがないけど、とりあえず異常事態なことに変わりはないわ」


 異常事態、という言葉に引っかかるものがあった紫音はすぐさまそれを言葉に載せた。


「でも、そんな一大事なら、なぜ連絡ツールの方に報告が回らないんだ?」

「それは、俺たち上層部が止めてるからだ」


 示し合わせたかのように扉をがちゃっと開きながら答えたのは、やつれた顔をした八雲だった。


「所長!ここは男子禁制ですよ」

「それなら、どうして桜田がここにいるんだ?」


 名指しされた葵は申し訳なさそうに身体を小さくする。崩れかけた空気を元に戻すと言わんばかりに、茜が話を繋げた。


「止めてる、とはどういうことですか?」

「お前たち若者には分からない感覚かもしれんが、タイム・パンデミックが起こってからまだ40年経っていない。この事件が公になれば、国民の不安を煽ることになるだろう。特に、あの惨事を経験した俺らのような世代は、そういうのに敏感なんだ」


 八雲は頭をポリポリ掻き、苦い顔をしながら答える。そのしぐさや表情を見た紫音は即座に、これは政府による隠蔽だと悟った。

 仮に連絡ツールで情報を共有すれば、データベースに記録され、外部に意図せず流出するおそれがある。しかも、昨今は復元技術がかなり発達しているため、サーバーを木っ端みじんにでもしなければ、データを完全に削除するのは難しい。ゆえに、隠蔽を行う際にはあえてデジタルツールを使用しないのが定石なのだ。


 不正にはあまり加担したくないが、いっぱしの研究者でしかない紫音たちには抵抗できるほどの力など持ち合わせていなかった。そしてそれは、所長である八雲も同じようだった。言葉にこそしないが、表情や仕草の節々から葛藤のようなものが感じられた。


 ただでさえどんよりしている空気がさらに重くなる。その流れを変えたのは、一番の若手である葵だった。


「それにしても、どうして所長はここに来たんですか?」

「ん?ああ、実はお前たちのことを探していたんだ。村雨、桜田、すまないが私に付いてきてくれ」

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