王の涙、聖女の涙

 そのまま宙に吊り上げられて、クウィルの手が耐えきれずに剣を離す。大地に硬い音をたてた剣が、竜の重い前足に踏みつけられる。

 騎士としてのクウィルを象徴する剣は、粉々に砕けた。


 竜はそのまま、何者をも近づけぬように羽ばたきを繰り返す。振動はクウィルの右肩に激しい痛みを呼び込んだ。


「ぐ、ぁッ!」


 痛みに思考が焼き切れる。ザシャの、ギイスの呼び声が遠く聞こえる。意識がかすみ、視界がぼやける。あらゆる感覚が自分の身体から離れていきそうになる。


 ――駄目だ。


 必ず戻ると、薄汚れた革紐ひとつでリネッタに誓った。彼女は怖れることなど何も無いかのように、強くクウィルに頷いた。こんなひどい婚約者を信じているのだと、真っ直ぐな青い瞳が告げた。


 折れるものかと、左肩に突き刺さる尾を掴む。薄れかけた意識を手繰り寄せ、竜の大きな赤眼と向き合う。


 痛みにわななく唇を噛み、氷術を唱えようとしたときだった。


 クウィルを射殺すかのような竜の眼の奥に、失意が滲んでいる。感情など読めないはずの魔獣の瞳を前に、唐突にそんな想いを抱く。


 ――ベツィラフトの血は、寄り添うためにある。


 遠い記憶の中にあった父の言葉。


 ――ベツィラフトの血と魂は、我らに必要なものであったゆえな。


 魔獣の王たる竜、ドゥオイグニシアの言葉。


 ふたつの言葉が絡み合い、クウィルの中に静かに落ちた。それは痛みも焦りも鎮まらせ、静寂をもたらす。


 ふと耳をすませて、ようやく気づく。

 地響きのような竜の唸り。その振動に応じるように、アッシュフォーレンの遠き山々から、嘆きの遠吠えがかすかに届く。

 リネッタがずっと聞いていたという声。クウィルは物悲しい響きに意識の全てを注ぐ。


 彼女はクウィルに言った。

 星に選ばれた日、魔獣たちの声は歓喜に震えていたと。

 新たな聖女の誕生。それは彼らにとって、同胞の魂を狂王に踏みにじられる日々の終わりを意味するのだ。


 ――ああ、そうか。


 リネッタの契約を解いたとき。

 痛みも、嘆きも。彼女の内に秘めたものをすべて、分かち合いたいと想った。


 同じだ。


 血を結び、他者を想う。

 呪術の全ては、この身体に流れるベツィラフトの血が知っている。


 眼前の竜に、クウィルはまだ動く左手を伸ばす。突き抜けるような悲しみが指先から飛び込み、クウィルの胸を打ち震わせた。


「……アッシュフォーレンの王。あなたは、泣いておられるのか」


 竜のうなりが止む。

 四つの眼が、一度閉じた。

 次に開いたその眼は、どこか懐かしむような色を浮かべていた。


『認めよう、騎士よ。その血は尊きベツィラフトの赤だ』


 竜の左頭が、口を開く。

 クウィルの身体を口の端で柔らかくくわえ、肩からずるりと尾を引き抜く。そのまま首を下げ、平原にクウィルの身体を丁寧に横たえた。


 アッシュフォーレンの王は、その場に足を折る。クウィルを囲うように尾を丸め、左右ともに、あごを地面につけた。

 ぐる、と小さく喉を鳴らし、眼を閉じる。


『我らの同胞はときに狂う。避けられぬ本能だ。狂った魂は、人も同胞も食い破り、命果てるまで走り続ける』


 大地に寝そべったまま、クウィルは竜の足に左手で触れた。硬い足先は冷たく、火照った身体に心地いい。

 何度か撫でているうちに、王の眼はうっすらと開いた。


『ベツィラフトの血は我らの想いと響きあう。そして魂が……呪術が狂いをほどき導く。我らに戦を強いることも出来ように、ベツィラフトはせなんだ。ゆえに、アイクレーゼンに敗れた』


 幼いクウィルの傍にはいつも獣がいた。王の血に揺り起こされた記憶が、共に遊び共に眠った日を脳裏に鮮明に描きだす。

 ベツィラフトの黒髪を厭われたクウィルに、友として寄り添ってくれたのは彼らだけだった。


 ぐるる、とまた竜の喉が鳴る。


『その血がひとつきりとあっては、同胞すべてを救うことは叶うまい。我らはいずれ滅びよう』

 

 クウィルの頬を、涙がひとしずくだけ伝って落ちた。これは自分の心が流したものではない。誇り高き王の心を、クウィルの血で受け取った涙だ。


 王の言葉に何も返せるものが無い。ベツィラフトの命はすでに、リングデルにほふられ、アイクラントの聖剣に捧げられた。この暗赤色の瞳も黒い髪も、クウィルが悪意を一身に受けるほど珍しいものになってしまった。

 ベツィラフトの根底。他者に寄り添うためにこの力は生まれた。呪術の研鑽けんさんは、隣り合うアッシュフォーレンを守るためでもあったのかもしれないのに。


 歴史は戻らない。クウィルひとりでは救えない。


「だから、呼び声に応えたのか……何もかも終わらせるために」

『狂王の声ごとき、耐えられぬでもない。ただ、かの狂王が滅ぶさまを見るも良し、アイクレーゼンと共倒れするも良し。興が乗ってな』

「興で脅かされたのか」


 たまったものではないと苦笑する。すると竜もきゅるきゅると笑った。


『だが、来た甲斐はあった。実に愉快だ』


 竜はゆっくりと身体を起こす。まるでクウィルを労わるように、鼻面で左腕をつついた。鱗が剥がれ剥き出しになった右首の橙色の肌。その傷口に左の顔を擦り付ける。

 鼻面を血で濡らし、左頭がまたクウィルの元へ戻ってきた。


『傷に使え。竜血は良い薬になる』


 クウィルが左手をかかげると、竜は鼻を地面の際まで下げてきた。鼻面の血を手のひらで拭い、貫かれた右肩に当てる。


「ふっ、づぅぅッ!」


 身が焼かれたかと思った。強烈な痛みに脂汗を吹かせてもだええると、『言い忘れた。強く染みる』と今更な忠告が降ってきた。


『ベツィラフトの子。死ぬなよ』

「死ぬものか。帰らねばならない理由がある」

『良い。己の血を知り、傷をく癒やせ。さすれば今しばらく、我らはこの愉悦を抱いて眠れよう』


 竜の足が一歩下がる。引きずるような足の動きひとつでも振動が傷に響く。

 うめきを聞きつけた竜は、もう一度クウィルの左腕をつついた。この動きもなかなか痛い。巨躯であることをもう少し自覚して欲しいものだとクウィルは顔をしかめた。


『ここで我が飛べば、死ぬか?』

「そうだな。人の身体はあなたと違って壊れやすい」

『そうか……そういう、もろいものであったな』


 懐かしむように笑い、ずず、と小さく地鳴りを起こす。竜なりには静かなのだろう足さばきで巨躯を後ろに引いていく。クウィルの身体から距離を取り、王は双頭をくっと動かした。まるで、来いと誘うように。


 その動きに応えたのか。クウィルの身体は、駆けつけたギイスに抱え込まれた。

 ギイスが風の障壁を張る。渦巻く風の向こうで、ドゥオイグニシアがゆっくりと昇っていく。


 アッシュフォーレンの気高き王は、アイクラント王都の上をゆっくりと旋回した。強く高く、追悼の鐘を思わせる声を空に響き渡らせる。

 そして、夜へと色を変えた北の空に進路を取った。


 その雄大な姿を見送り、クウィルは目を閉じようとした。


「美しいですね」


 戦場に似つかわしくない柔らかな声に、閉じかけたまぶたを開く。

 いつの間にかリネッタがクウィルの傍らに膝をつき、微笑んでいた。その背後には意味もなくザシャに締め上げられるマリウスの姿もある。


 藍色の空を背にしたリネッタの顔に、両腕に。赤く腫れた傷がいくつもある。彼女の戦いもまた苛烈なものだったのだろうと想像がついた。


 彼女の傷へと伸ばした右手は、クウィルの全身に突き抜けるような痛みを走らせる。歯を食い縛ってうめきを殺し、どくどくと脈打つ鼓動の音が静まるのを待った。


「無理に動かすな。腕が駄目になる」


 ギイスの声にうなずいて答えた拍子に、汗がこめかみを滑り落ちた。額に張り付いた黒髪を、リネッタが軽く撫でてくる。聖女然とした彼女を束の間眺め、クウィルはギイスの腕を軽く叩いた。


「少しだけ、帰還を待っていただけますか」

「傷のことがある……竜血で塞がったとはいえ、それほど時間は取れんぞ」


 渋るような返事をして、ギイスは再びクウィルを横たえてその場を離れた。ついでにと、マリウスとザシャを引っ張っていく。


 残されたクウィルは、リネッタの整った美しい微笑みへと左腕を伸ばした。

 リネッタが気遣って腰を折り、顔を近づけてくる。クウィルは彼女の傷ついた白磁の頬に、ぷすりと指をめり込ませた。


「ふゅ!?」

「初めから、やり直しですか」

「な、何のことでしょうか」


 ほんのり涙目になって頬を押さえるリネッタに、クウィルは左手をくいくいと動かした。もう少し傍へ来いと、動きだけで要求する。こんな大事なときに満足に動けない自分がもどかしい。


「その笑顔は……いらないと、伝えるところから」


 もともと上手くない口が、回りまで悪い。正しく伝わるよう、休み休み、ゆっくりと言葉を繋いで渡す。


「左手は、快です。不快は、右手を」


 リネッタは小さく首を傾げ、誤魔化すように口端を半端に持ち上げた。今までクウィルが見た中で一番不出来な笑みを貼り、やがて耐えかねたように、それをくしゃりと崩す。

 美しい眉をきゅっと寄せ、花びらのような唇を引き結ぶ。

 そしてリネッタは、手をあげた。

 快の左手と、不快の右手。その両方を。


「もう聖女でなくて、いいと。全て終わりにしていいと……それは嬉しいことで。でも、どうしても……」


 うつむくと、絡み合うシルバーブロンドの髪がクウィルの胸に下りる。強くあろうとする十八歳のリネッタの中に、もうひとりの彼女がいる。


 永遠に誰にも救われることのない、聖女リネッタ・セリエスが。


 彼女が乗り越えたものを想う。そして、もう戻らないものを想う。

 今さら自分に何もできないと、わかっている。それでも、どうか――。


 クウィルは左手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。額にできた傷を撫で、そして、頬に手を添える。


「私のことを、心を分かち合うに足る男と思ってくれるなら。貴女の傷を、どうか……隠さないで欲しい」


 その途端だった。

 彼女の両目から、氷が溶けたかのように一気に涙が溢れ出た。まぶたを閉ざしても、こじ開けるようにして頬を滑る。


「……痛、くて」


 震える右手が誓約錠のある手首をきつく握り、胸元に抱え込む。


「毎日毎日、痛くて。ずっと怖くて……惨めで。終わりにしたって消えない……消したくても、消えてくれない」


 リネッタが身体をへたりと折り曲げた。潰されてきたあらゆる感情を溶かしこんだ嗚咽おえつが、吹き始めた夜風に流れていく。


 見上げる空は深い紺。城壁は遠く、灯りのない平原では星が瞬き始める。


 あの星が彼女からもう何ひとつ奪うことのないよう。

 クウィルは左腕で、震えるリネッタを自分の胸に引き寄せた。

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