亡国の王

 * * *


 石を投げられた。ひたいにガツンと当たって、ころころと足元を転がった。


「ベツィラフトの黒毛」


 また、石を投げられた。

 汚い汚いとそしられるから、掴んだ先から鋏を跨らせて閉じた。三度、四度と刃を閉じると、じゃくじゃくと散った黒い髪は、ラングバート家の美しい絨毯じゅうたんに積もった。


「かあさま、かあさま」


 途方に暮れて母を呼ぶと、にこにこと駆けてきた母は蒼白になり、手にしたマロニエの花びらを落とした。母の悲鳴を聞きつけて飛んできたラルスが、絨毯を汚す黒とクウィルの頭を見て号泣した。あまりにも兄が泣くから、この絨毯はもう駄目になってしまったのかもしれないと、クウィルも泣いた。


 どうして自分はこんな色をしているのかと鏡を割った。何度も伸びた髪を切った。ラングバートの家族をずいぶん困らせた。


 ――ラングバートとは、誰のことだ。


 両親はクウィルと同じ真っ黒な髪をして、暗赤色の瞳で笑いかけた。

 深い森の中。

 小さな獣は友のようにいつも家のまわりにいて、クウィルは毎日獣と遊んで泥だらけになった。


 ある日、森に村人が押し寄せた。

 魔獣を使い、村の貴重な家畜を襲わせただろう。そう言って、村人らはクウィルの家を囲った。


 ベツィラフトの悪魔と指さされ、父と母はクウィルをかばいながら村人を説得し続けた。


 そこに、獣が来た。三つの頭を持つ獅子だった。


 クウィルはいつものように、父が飼い馴らしてくれた友だと思った。父の手にかかれば、どんな獣もおとなしくなるからと。

 そう思って、獅子の前に飛び出した。


 後のことは、何も覚えていない。


 ――嘘だ。覚えている。


 母の腕に抱きしめられたことも。

 吹き飛ばされた父の身体も。

 足元に落ちた、父の手も。


 ――それは、誰の記憶だ。


「あ、あ、あああああああああああああああ!」


 ――私は。俺は。ぼくは……誰だ。



 闇。

 彼我かがの境界が定まらないほどの黒。

 油断すれば自身の輪郭さえ見失うような闇の中。誰だ、誰だと這いまわる。

 無意識に腰に手を伸ばし、何がしたかったのかと首を傾げる。自分は何者かと顔に手を伸ばすが、その手は何にも触れず、すり抜ける。

 手は、どこにある。

 足は、腕は。

 身体は、あるのか。


 溶けていく。

 溶けていく。


 闇に呑まれて、自分が消えていく。


「どうだ。魂をさらす心地は」


 闇がうごめいた。

 大きな存在が遠くにあるような、それでいて身の内側にあるような。その大きなものが頬を撫でてきた。


「やはりベツィラフトの魂は美しい」


 駄目だ、と闇を払いのけた。

 だがその感触もすぐに不確かなものに変わる。

 定まらない。すべてがあやふやでおぼろげで。自分を描けない。


「よい、よい。恐れることはない。我となれ。さすれば、お前の欲したあの娘も手に入る。我となり、存分にかせてやればよい」


 大きなものが、愉しげに語る。その言葉にパチンと両目を見開いた。


「……あの娘、だと?」


 自分の左胸に光がある。そこに触れようとした途端、指があることを実感した。確かになった指で触れた光は、青い石になった。


 リネッタの青い瞳が。

 雨の中で誓約錠から外れてしまった青い石が、淡く優しい光を放っている。


 クウィルを象徴するような安っぽい石が明滅する。到底褒められたものでない婚約者、それがおまえだろうと。


 はは、と笑いがこぼれた。

 石を握りしめて目を閉じる。


 腰に重さが戻る。馴染みの剣の感触を確かめた。

 飲まれるなと自分を叱咤する。疎んできた黒髪を。血のような暗赤色の目を取り戻す。


 自分は何者かとおのれに問う。

 ラングバートの次男。ギイスの部下。ザシャの友。ベツィラフトのオルガと、名も知らぬ父の元に生まれた子。


 リネッタ・セリエスの婚約者。


 左手にぬくもりが宿る。その手の向こうにリネッタを感じて、クウィルは唇で甲に触れた。


 闇の中に、拍手の音が響く。


「なかなか上手く立て直すではないか」


 クウィルが自身を正しく認識すると、周囲の闇が薄まった。うごめく闇でしかなかったものが男の姿に成っていく。

 精悍せいかんな男だった。かと思えば、まだ年若い男にも、やせ衰えた老人のようにも見える。


「リングデルの、王」

「いかにも」


 男の脚に幾つもの身体がまとわりついている。いずれも苦痛に顔を歪ませて、涸れ果てた涙のあとをその頬に残す。

 右足に絡みついていた者が離れた。王から剥がれた身体は砂のように崩れ、最後に一瞬だけ、穏やかな顔をして消える。そして、ふわりと小さな光になる。

 だが、生まれた光はまた闇に絡めとられ消えてしまう。


 聖剣に編まれた模倣術と、王の転移術。ふたつの術がせめぎ合う戦場。

 ここで自分にできることなど、ひとつしか思い当たらない。

 クウィルは剣を抜いた。すると、王はほう、と感心したように眉を動かす。


「よい威勢。よい目だ。ベツィラフトの赤い瞳だ。だが、理解しているか?」


 王はせせら笑い、右手で顔を覆った。手を離すと、そこに――クウィルの顔があった。


「我をここで害すことの意味。今、おまえが誰の魂の内にいるのか」


 やはりクウィルはあの一瞬で王に取り込まれたのだ。視線だけで、自分が今立っている魂の庭を見回す。

 クウィルの逡巡しゅんじゅんに、王がにたりと笑みを浮かべる。王の下から無数の腕が伸び上がり、クウィルの両足首を掴んだ。


「跪け。こうべを垂れよ。誰の許しを得て王に刃を向ける」


 いつかの模擬戦を思い出す。強かなリネッタの言葉を。あの日の激励を。

 怖気おじけを振り捨て、クウィルは剣を構えた。


「私の婚約者の許しだ」


 彼女がこの王を滅ぼすと決めたなら、クウィルは剣を取る。

 聖女の守護者たるクウィル・ラングバートは、この程度の狂人など、軽くあしらえねばならない。


 足元にまとわりついた腕を蹴りはらい、クウィルは駆けだす。

 王は闇から漆黒の剣を生み出し、愉悦に顔を歪ませた。

 互いの剣がかち合う。

 あかい火花が散る。

 王の暗赤色の瞳がぎらつき、弓のように細まった。


「無謀な若者よと称賛せんでもない。娘ひとりのために我に挑むその意気を」


 ギンと鈍い音を立てて剣が弾かれた。足を踏みかえて体勢を保ち、クウィルは再び剣を構え直す。


「氷刃」


 剣が氷を纏う。

 詠唱が通る。

 外界から隔てられた場所に、魔術の素など存在しない。だが、クウィルの魂は馴染んだ力を構築する。


「氷槍」


 足元に描かれた弧から氷の槍が吹き出し、四方から王を貫く。

 王の負った傷と同じものを、同時にクウィルの魂がうつし取る。受けてもいない傷から血が滲む。


 ――この傷は、私のものではない。


 繋がりを否定する

 正しく自分を描く。

 自分の身体を。自分の存在を。自分を構成するもの、これまで培ってきたものを。


 認識する。おのれが何者か。


 剣と魔術。クウィル・ラングバートを作ってきたすべて。周囲の悪意を退け、息する術を、生きる場所を与えてくれたもの。

 すべて魂が知っている。

 今、この魂にある記憶は。積み上げた研鑽は。クウィルが自身の手で刻みつけてきた。


 ――奪われるものか。


 斬撃は幾度も王の剣に弾かれる。剣身から剥がれた細かな氷の欠片が舞う。刃こぼれのように欠けた剣に、また新たな氷の鎧を纏わせる。

 漆黒の剣が頬を掠め、腕を裂く。

 構うことなく、クウィルは剣を振るう。


「あの汚れた娘がそれほど欲しいか? 我が手であえがせ、よう濡らし、よう啼かせた娘が」

「汚れてなどいない」


 リネッタの強さ。凛とした背中。真っすぐにクウィルを見つめる青い瞳。

 この男が損ねたものなど、ひとつもない。


「虚勢を張るな若造。いかりに沸く魂が透けておるわ!」

「当然だろう」


 強く踏み込み、剣を振るう。

 放った一撃は王の剣を弾き飛ばす。


「二年。感情を伴わない身体で、彼女は痛みに耐えてきた」


 二撃で王の腕を。三撃で王の右足を斬り捨てる。

 氷塊が王の右目を潰す。

 叫びをあげながら王の身体が大きく傾いだ。


いからずにいられるものか!」


 渾身こんしんの一刃が王の腹を食い破る。

 同時に。

 王とクウィル。互い口から、ごぼりと血がこぼれ落ちた。

 繋がりがほどけない。王の耳障りな嗤い声が薄闇を震わせる。


脆弱ぜいじゃくな魂ひとつで、どこまで耐えられる?」


 だがクウィルは歯を食いしばって剣を握り続ける。リネッタを縛りつづけたかせを砕くために。


「どこまででも、堪えられる」

「強情な。意地を捨て、我の身に収まればあの娘の全てが手に入るものを」


 ――ああ、欲しいとも。


 口端から血をこぼしながら、クウィルは笑った。彼女の美しさをひとつとして理解していない、欲深い王に向かって。


 リネッタは人形じゃない。この手に握っていいものじゃない。

 そんなことのために、騎士の名を捨てるものか。


 摘み取るためじゃない。

 三つ数えて手折られてきた花を。やっと咲いたあの花を守るために、今この剣はある。


 全てなど、いらない。


「私には、彼女の左手だけでいい」


 その瞬間。

 クウィルの周りに光が湧いた。

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