盲信者の善意

 * * *


 ガジガジという音で目が覚めた。


 リネッタがまぶたを開くと、目の前には、縄をかじっているニコラがいた。彼女の両手は身体の前側で縛られていて、縄を噛みちぎろうと奮闘しているところらしい。

 こういう場合、後ろ手に縛るほうが有効だが。誘拐犯は不慣れな人間のようだ。


 詰所で待っていると、お茶が運ばれてきて。

 ニコラとふたり、気を落ち着かせるためにそれを口にした。その直後から記憶が曖昧だ。

 あのお茶に何か盛られていた。そうすると、犯人は騎士団の詰所にいた誰かということになる。


 リネッタはどうにも、犯人の顔が浮かんでしかたがなかった。


「ニコラ」


 呼び掛けると、かじりつきに夢中だったニコラの目が大きく開いた。


「リ――」


 大声をあげそうなニコラの口を塞ぐ。塞いだところで、リネッタ自身は縛られていないのだと気づいた。

 指1本を唇に当て、静かにと伝える。こくこくとうなずくニコラに微笑みかけ、ぐるりと周りを見回した。

 良い部屋だと、すぐにわかる。壁際のキャビネットも小さなテーブルも樫胡桃ウォルナットで、隅には天蓋付きのベッドがある。

 重厚感のある扉には鍵がかかっている。ひとつしかない窓の厚いカーテンを引くと、立派な木がすぐ側まで伸びていた。三階ほどの高さ。リネッタひとりなら、昔のお転婆を活かして充分逃げられる。


「ニコラ、木登りは好き?」


 問いかけながら、ニコラの縄に指をかけた。

 結び目に爪を食い込ませて開こうとすると、あまりの固さに爪が割れる。


「いけません、リネッタ様のお手が」

「いいのよ。爪なんてまた生えてくるのだから」

「でも、痛いじゃありませんか」

「感じないの。だから大丈夫」

「嘘です。クウィル様にお聞きしましたもん」


 リネッタの手が止まる。


「クウィル様が、わたしの何を?」

「リネッタ様はちゃんと、痛いだとかくすぐったいだとかおわかりになるから。なのにあまりご自分に頓着なさらないようだから、ニコラが気をつけてやってくれって」


 驚いた。自分の知らないところでそんな気遣いがあったのか。

 クウィル・ラングバートは、押し掛けてきた婚約者のことなど気にかけないだろうと思っていたから。


 それから、自分が驚いたということに、驚いた。

 驚くという心が、まだ自分の中にあったのか。


 そんな心の動きが、波が引くように消えていく。いつもより引きが鈍いのは、盛られた薬の影響だろうか。

 縄解きを再開しながら、ニコラに笑いかけた。


「これを解いて、外に出なくてはいけないでしょう? クウィル様にもっと心配をおかけしてしまうから」


 何度も結び目を引くと、少しずつ緩んでいく。爪の周りから血が染み出たところで、ようやく縄が解けた。

 ニコラはハンカチーフを取り出してリネッタの手に押し付けてきた。ありがたく受け取って指を押さえ、立ち上がる。

 窓に鍵がかかっていないのは、相手が聖女だからという油断だ。ずいぶんと品のいい女だと思われているに違いない。

 枝に手をかけ、ぐっと引く。しなりの少ない、太い立派な木だ。


「行けるわ。ニコラ、あなたが先に」

「お任せくださいませ。助けを呼んでまいります!」


 気合い充分でニコラが枝に飛び付く。リネッタも同じ道で脱出するとは思っていないのだろうという口ぶりだ。

 少し危なっかしいが、ニコラは幹にたどり着き、ゆっくりと降りていく。そろそろ揺らしても問題ないかと、リネッタが枝に手をかけたときだった。


「何をなさいます! お止めください聖女様!」


 リネッタは後ろから抱き止められ、勢い余って床に倒れた。人を尻で踏んづけた感触。リネッタの下で焦り顔を見せているのは。


「……クラッセン卿。これはどういう事態ですか」

「それは私の台詞せりふです。婚約を苦に飛び下りようとなさるなんて」


 三つ数える間、驚愕する。何を言っているのかさっぱりわからない。


「大丈夫です、聖女様。誓約錠を今すぐ断ってくださればいい。あの男に文句は言わせません。家格はこちらが上なんだ」


 侯爵家をちらつかせるこの口ぶりは、旅の間マリウスから何度も聞いた。その身分を餌にリネッタを誘うような素振りもあった。

 マリウスが聖女という存在に心酔しているのはわかっていた。だが。


「このまま、私と誓約を結びましょう。ここは聖女様のために用意したお部屋なのです」


 ここまで突き抜けた酔いっぷりだとは、思わなかった。


「クラッセン卿。以前にもお伝えしましたが、婚約を望んだのはわたしです」

「ええ、ええ。王家に脅されたのでしょう。やはりセリエス伯爵様の心配されたとおりだった」


 これは駄目だとリネッタは悟った。この男はどうやら転がしやすく、伯父が存分に手のひらで捏ね回したあとだ。対話で切り抜けられる状況ではない。

 こういう状況で動揺も悲嘆もない自分の心に、今は感謝する。じりじりと窓に近づきながら、相変わらず妄想に酔っぱらっているマリウスの独白を聞いて隙を探す。


「聖女様の微笑みが私に向けられていること、気づいていたのです」


 それは作り笑いだと、まさかわかっていないとか。


「護衛隊の誰より、まず私に言葉をかけてくださった」


 それはこの男が隊長だったからで。


「旅を終えて任を離れるときは、手を握ってくださった」


 もれなく全員と握った。


「夢を見るのもほどほどになさいませ」


 テーブルクロスを掴み、マリウスに向けて投げつけた。その隙に窓に足をかけ、枝に手を伸ばす。

 が、長い銀髪を思い切り掴まれた。


「痛っ!」

「ご無礼を!」


 部屋に引き戻され、マリウスの両腕に抱え込まれる。


「お離しください!」

「なりません。聖女様は義理堅く、誓約を断つにもあの男の許可が必要だとお思いなのでしょう」


 ベッドにどさりと押し倒された。マリウスがリネッタの左手を取り、腰の剣に手を伸ばす。


「お手伝いして差し上げる。今すぐ、錠をお切りください」

「できません」

「では、私の手で貴女を解放します。こんな安物に罪悪感を覚える必要など無いのです」


 誓約錠を剣先が引っ掻ける。リネッタは咄嗟に右手で錠をかばった。

 マリウスの剣がリネッタの手の甲を引っ掻く。

 ぴりっとした痛みに顔をしかめた瞬間だった。


 マリウスが、へぶ、と情けない声を上げて吹っ飛んだ。

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