一章、月と黒猫の逃亡

1、コマンド『にげる』

 少年は黒猫を追いかけていた。

 状況が状況なら微笑ましい光景だが、少年が身に纏っている衣装は血や泥で汚れ、空は日も月も照らさない曇り空の宵の刻、そんな中で、暗闇に紛れそうな黒猫を見失わないように、震える足を必死に動かし悲壮感の漂う形相でよたよたと歩く姿を前に、とても呑気なことは言ってはいられない。

 少年の名前はルクスリア。このアルステラ帝国の皇太子であり、皇帝の一人息子。

 そんな彼が人気ひとけの無い夜道で従者もつけずに黒猫を追いかけているのは道楽などではない。


「サフィール……父上……」


 ルクスリアは時々歩きながらも、後ろを振り返り、不安そうな面持ちで戦火の煙が漂う皇城の方へ目を向けている。

 自身の十歳の誕生日。特別な思い出になるはずだったそんな記念日に、帝都は炎上し、騎士団が謀反クーデターを起こした。

 誰が敵で味方かも判別が難しい中、宮中の使用人たちと忠臣サフィールが身を挺して、ルクスリアを帝都の外へと逃がそうとした。

 逃亡の案内人はルクスリアが追いかけている黒猫。『フェスタ』と呼ばれていた。

 それがルクスリアの置かれた現状だ。


「……もう、洛外……」


 ただ必死に黒猫に着いて行っていたルクスリアは、どれだけの時間逃げていたのかはっきりと把握できてないが、思いの外早く、帝都城壁の外、俗に下町と呼ばれている洛外に出ていた。


「西門側だ。洛外と言っても一応、帝都の一部だ気を抜くなよ」

「はい、わかりました…………って」


 ルクスリアは道が省略されたような不思議な感覚で気が抜けていたせいもあってか『突然目の前に少女が現れた』という事態への反応に時間を要した。


「うわあああああぁぁッ!!」

「どうした? 急に素っ頓狂な声を上げて」

「あ、あ、ど、だ、誰ですか?」


 ルクスリアは気を張り詰めていた反動もあってか、大変気が動転してしまったようだ。


「ん? あぁ、そうか、この姿はまだ見せていなかったな。落ち着いて大丈夫だぞ皇太子」


 後ずさりして慌てふためくルクスリアに対し、少女は落ち着いている。というより気怠そうだ。


「自分はフェスタだ。さっきまでお前がケツを追いかけていた黒猫だよ」


 そう言う少女は、ルクスリアの前で顔を三回腕で拭うような動きをして、黒猫フェスタの姿に変身する。


「にゃ」


 これで分かったかと言わんばかりにルクスリアの顔を見て一鳴きしたあと、猫の姿で顔を三回洗い再び少女の姿に変身する。

 戻して。


「人間……だったんですね……一言も喋らないから不思議な猫さんだとばかり」

「猫は人間の言葉を話さないから可愛いんだよ」


 微妙に答えになっていない回答をしたあと、少女の姿になったフェスタはツカツカと歩き始める。


「何をぼーっとしている。さっきも言ったが、ここはまだ帝都の中だ、夜明けまでにギルドの仲間と合流して帝都を出るぞ」

「え、あ、あの、人間の姿でも大丈夫なんですか?」


 慌ててフェスタの後を追いつつ、ルクスリアは率直な疑問をぶつける。

 おそらく、ルクスリアは猫の姿になることで、追っ手を惑わす能力が使えていたのだと思っていたのだろう。


「何も問題はない。追っ手を撒くための幻想魔術は人間でも使える。自分が許可した人間以外に見つかることは無い」

「魔術で攪乱していたんですか」


 魔術は能力のような天賦の才ではなく列記とした学問だ。ちゃんと勉強し多少の素養があれば誰でも使える。

 実際、サフィールが翠嵐の力を借りているとはいえ風の魔術を扱えるのは、ちゃんと教育を受けているからに他ならない。


「……え、じゃあ何でさっきまで猫の姿で……?」

「猫の方が人間ごときより優秀だからな、人間の状態でいることのメリットなど多少器用な指が使えることと、人間と会話ができること以外ない。他は猫に劣る。所詮人間は猫の奴隷なのだよ」

「ね、猫尊人卑……」

「お前の言葉を訂すなら、自分にとっては猫の姿の方が通常の状態だから『何で人間の姿に?』と言った方が正しかったな。今後気をつけるように」

「し、失礼いたしました」


 フェスタとルクスリアはそこまで歳が離れているようには見えないのに、えらくフェスタは子供らしからぬ態度だ。

 というか、ルクスリアは皇太子ぞ。

 ルクスリア本人はフェスタの不敬を気にも留めていないが、この場にサフィールがいたら問答無用で叩き斬とうとしてることだろう。


「自分が人間の姿になったのは、先ほど上げた、人間の数少ない利点である『会話』が目的だ」

「と言いますと?」

「会話をする相手など、この場にお前しかいないだろう皇太子」


 ルクスリアは困惑していた。フェスタのようなタイプの人間(猫)と接するのは人生十年の中で初めてだ。こんなに会話に体力が必要な面倒くさい相手が世界にいるとは思いも寄らなかったことだろう。


「あの……フェスタさん。先ほどから気になっていたのですが」

「なんだ?」

「『皇太子』と呼ばれるのは……なんと言うか、僕個人ではなく、役職で呼ばれているようであまり気持ちのよいものではありません。できれば名前で呼んでいただけませんか?」


 話していてルクスリアは、「この人の面倒くさい言い回しが移ったな」と感じていた。


「ふむ、確かに、お前の感情を無碍にした発言だったな。失礼した、すまなかった」


 失礼は初めから現在に至るまでずっとだが、意外と素直にフェスタは頭を下げて謝った。


「失礼ついでで申し訳ないが、自分がお前を皇太子と呼んでいたのは、単にお前が皇太子だからではなく、お前の名前を知らないからなんだ。サフィールも『殿下』としか言わんからな。今更だが教えてもらえるか」

「……そこからでしたか。いえ、僕も国民全員が知っていて当然だと思っていたのは傲慢だったかもしれません」


 いや、大抵の国民は容貌は知らずとも皇太子の名前くらいは把握しているものだろう。どう考えてもフェスタのような人種が例外なだけだ。


「では、遅ればせながら、僕の名前はルクスリア。ルクスリア・レグルス・ルミナスです」

「ルクスリア、ルクスリアか……長いな……」


 そうだろうか?


「じゃあ、ルナで」

「え?」

「呼び名だよ。今後、身を隠しながら移動するんだ、人前で本名で呼ぶわけにはいかんしな。それにこっちの方が呼びやすい」


 それっぽいことを言っているが、主に後半の方が理由だろう。


「ルナ……それは所謂いわゆる、『あだ名』というものでしょうか?」

「嫌だったら名前で呼ぶが?」

「い、いえ、嫌じゃないです! むしろ、僕は皇太子という立場ですので、あだ名というもので呼ばれたことがないので、少し、憧れていたんです」


 フェスタも大概だが、ルクスリアも少し変かもしれない。

 普段からサフィールが親しい間柄の相手に『サフィー』と呼ばれていることに密かな憧れを感じていたのかもしれない。


「ではフェスタさんも、何か呼び方を……」

「いや結構だ」


 ルクスリア改めルナの提案を言い切る前に、フェスタは断る。


「そうですか……」

「そもそも、『フェスタ』という名が既にあだ名だからな」

「そうなんです?」


 サフィールが自然な感じで呼んでいたので、ルナの目線ではてっきり本名かと思っていた。


「自分の名前は『マツリ』と発音する」

「マツリ……帝国内ですとネクタリス領の方言で確かそのような言葉がありませんでしたっけ」

「当たり。東部、東南部の方は移民が帝国に帰化して独自の文化形態を形成しているからな」

「それがどうして、フェスタというあだ名に?」

「意味を聞かれた際に、面倒だった自分は『祭典Festa』と答えた。そしたら、そっちの方が定着してしまったんだ」


 言いだしっぺは彼女の上司である金髪の槍使いだ。


「祭典……」


 ルナはその言葉と共に、路地の隙間から見える町の様子を見て、今自分達が置かれている状況を再認識してしまった。

 洛外の街路の方には、今でも大火事から避難してきた人たちで溢れている。

 本来なら建国記念祭と自分の生誕祭で賑わうはずだった帝都が、悲しみにくれている。


「情報共有だ」

「…………え、なんですか?」


 ルナは上の空でフェスタの話を聞いていなかったようだ。


「自分が人間になった理由だよ。ルナ」

「あ、その話でしたよね……」

「見ていたってなんにもならん。今の状況をどうにかするためにも、情報を刷り合わせておくぞ。こっちも他人事じゃないんでな」


 そうぶっきらぼうに言い放つフェスタ。


「マイペースな人だな……」


 フェスタの傍若無人な姿に、ため息混じりに呟くルナは気づいているだろうか、絶望感を漂わせ俯いていた彼はいつの間にか周囲に目を向けられる程度には未来のことに目を向けられているということに。

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