第4話 終焉の美

 人間が死んだところをみたことはあるだろうか。

 私は何度もある。

 

 一番多かったのは病院で看護助手として働いた二年間だ。

 その病棟は療養型の、所謂「死期の近い」人間が集められている病棟で、季節の変わり目や明け方に危篤状態になる人がいた。

 前夜、食事介助をした男性がいきなりサチュレーション(SpO2)が下がり、言葉も発することなく死んでいった。

 ALSの女性はよく私に「ありがとうね」と言ってくれたが、意志疎通が辛うじてできる人だったので夜勤の時に色々と世間話をしたことが嬉しかったようだ。それでも数ヶ月後には亡くなった。

 

 小学生の頃、私がマンションの横を歩いていたら背後で突然「ズシン」と水の塊のような音がして振り返った。

 およそ三メートルほどの距離に、飛び降り自殺をした肉片が散らばっていた。

 その時人間の脳ミソは綺麗なピンク色をしているのだと、頭蓋骨もろとも飛び散った髪の毛の間からそれをみて思った。


 高校生の頃、私はある女性と密かにお付き合いをしていた。

 彼女は学区一番の進学校にゆき、活発でなかなか聡明な人だった。

 中学の頃から頭痛に悩まされ、高校生になって精密検査をしたら小脳に悪性腫瘍が見つかった。進行は早く、抗がん剤により髪の毛は抜け落ち、それでも面会に行けば気丈に振る舞ってくれた。

 発見から一年足らずで、彼女はこの世を去った。

 私宛に手紙を残してくれ、そこに書かれた一文を生涯忘れることはないだろうと思った。


『少しの間だけ、私を忘れないでください』


 少しの間だけ?

 

 死者は生きている者の記憶の中でしか生きられないと言うが、少しの間だけとはどういうことか。当時の私はそれに気付けることはなかった。



 人間の魂とはどこにあるのだろうか。



 記憶は魂なのか?

 魂に刻むものはやはり記憶か。


 では記憶が消えればその人間足らしめる人格そのものが消滅し、それを生きた屍と呼ぶのだろうか。


 こういったフィルターを持つと、どんなに偉そうに吠える奴を見ても「お前もいつかはああなるんやぞ」と思う。


 人間が権力や富、名声を振りかざす期間というのはそんなに長くない。

「昔はどこどこの偉い人でね」と言われても、本人はオフトゥンの上で排泄の世話をされている。今はそうでなくてもいずれそうなる。

 人間で有るが故に、寝て、飯食って、クソをする。ただそれだけだ。


 それが人間だ。


 であれば、命を使いきる前にやりたいことをやるべきではないか。

 やれる期間もそんなに長くない。

 命には限りがある。


 誰かに萎縮して、自分がやりたいことを我慢することが「分を弁える」ということではない。

 誰かと比べて「自分には才能がない」というのは寝たきりになってから言えばいい。

 自分の中にある情熱は当人しか燃やせない。

 その記憶は本人だけのものである。


 『人生というのは本みたいだとは思わんかね?』

 私の小説にそんな1節がある。続けて、

『人間の一生は本と同じでな。ワシの1ページは誰かの1行になり、1節になる』

 

 これは何気無く書いたものではない。


 桜が何故美しいと感じるのか。

 

 誰かの一行、一節になるそのわずかな輝きが誰かの記憶となり、少しの間だけ生きつづけ、そこに儚さや美しさを感じる。


 桜が散り、川の水面を流れる花弁をどれだけの人が見てくれるだろうか。

「今年も綺麗だったね」と言われることを願いたい。

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