肉塊の尊厳

たまごかけごはん

肉塊の尊厳

『女同士で結婚するからだよ。だから、失敗作が産まれやすいんだ』

『まったくだ。無精子妊娠だなんて、雌雄を創った神に対する冒涜だな』


 ドアの隙間から聞こえる陰口。こじ開けて、怒り狂えてしまえたら、どれだけカッコいいだろう。


 だが、現実の僕は心の中でさえ、怒ることが出来なかった。自分も自分の妻をも冒涜する下衆な言葉に、何も反論出来ないからだ。


 何処の誰が作ったかも知らない、最新技術とやらに飛びついて、生命を弄んだ。そして、その代償を妻の胎内に背負わしてしまった。


 夫なのに、こんなんじゃいけないな。


 ◇


『同性同士の無精子妊娠手術。半数以上の妊婦が染色体異常の胎児を妊娠していると推測されています。原因は未だわかっておらず、杜撰な実験が見逃され、認可されたのは国との癒着ではないかという追求もあり、責任をめぐって……』


 胸糞の悪い、ニュースを消す。


 朝食のパンの袋も開けずに病院へ向かう。


 ◇


「………………」

「……別に、真乃愛まのあが気にすることじゃないよ。私だって、賛成してたんだしさ」

「……でも……結局、君にばかり負担をかけて……」

「そんなことない。真乃愛が私のために、色々苦労してくれたこと知ってるよ。ほら、顔あげて!」


 微笑みかける愛梨菜ありなの顔が直視できない。きっと、綺麗な笑顔だろうに。視線は自然と、僕と彼女の遺伝子の混ざった、ソレの方へ向いてしまう。


 ああ。嗚呼。


 今まで無関係だった差別意識から、目が背けられない。


 醜い自分を見るのは苦しい。いや、社会的には醜い自分が、醜く見えないのが苦しい。


 僕だから分かるんだ。完璧でない僕だからこそ、分かってしまうんだ。脳だけ男の僕だからこそ、コレは個性なんかじゃなくて、欠陥なんだって。


 何かが欠けた人間は、それを持っている人のことが分からない。それと同じように、世間の人たちは、欠けている人が理解できない。だから、『個性』という自分の知っている言葉で置き換えて、勝手に納得しているんだ。


「………………」

「大丈夫よ、真乃愛! 障がいがあってもなくても、私たちの子供なんだから。二人なら育てていけるわよ!」

「…………ああ……」


 やっと、直視できた彼女の笑顔は、目だけ笑っていなかった。


 ◇


「なんだねこれは」

「ゲノム編集手術の費用です」


 机の上に大量の札束を置く。


「あのね。法律で禁止されてるの知ってるでしょう?」

「お金ならいくらでもあるんで。だから、健康な子供を……」

「ダメダメ! 皆んなが皆んな、汚い大人じゃないんですよ。倫理的に問題があるし、第一、この病院じゃそんな技術もないよ」


 倫理的。倫理的か。患者の悪口を言っていた医者が言うと説得力があるな。


「じゃあ、中絶手術は……」

「駄目だって! それも最近、禁止されただろう! 今は『神聖なる生命』ブームなんだから、胎児だろうが受精卵だろうが、紛れもない人間として扱われなきゃいけないんだよ!」

「………………」


 ブームか。そうだよ。倫理観なんて、所詮ブームでしかないんだ。戦時中では人殺しが善で、どこかの国では生まれつきのカーストを守ることが善で、今この国では生命を尊重することが善なんだ。


 絶対的な真理なんかじゃない。その時、その場所、力のあるものが決めた勝手なルールだ。今は大衆が強いから、最も声のデカい者達のブームが『正しい』とされているだけ。そんな恣意的なものが法律なんかにも反映されて、あたかも真実かのように道を歩いている。実に、気持ちの悪いことだ。


 僕は僕こそが倫理的だと信じて反抗する。


「……私も暇じゃないんです。誰かに見られる前に、この札束を片付けてくれませんか?」

「………………」

「はあ………………」


 医者はため息をつくと、胸ポケットからメモ帳を取り出し、気怠そうに文字を綴る。そして、書き殴られたそれを千切って寄越してきた。


 誰かの名前と、電話番号。


「エラい立場のお友達が多いお医者さんです。堕ろすぐらいならやってくれるでしょう」

「………………」


 やっぱり、汚い大人ばかりじゃないか。


 ◇


 彼女の痕跡が抜けつつある部屋で、一切れの紙を握る。選択肢を広げるチケット。なら、どうしてさっさと使わない。彼女の下へ行き、自分の意見を述べ、共に決断する。それが夫の役目じゃないのか。


「………………」


 愛梨菜に言うのか。『堕してくれ』と。彼女は素直に受け入れてくれるだろうか。もしかしたら、僕のことを夫として見れなくなるんじゃないか。


 だと思うようになるんじゃないか。


「………………」


 そもそも、人間とは何だ。何を以て人間と為すのだ。種としてヒトならば、それは人間なのか。だが、仮に知性も感情も人間並みにある宇宙人がいたとして、彼に人権が与えられないというのはおかしな話な気がする。知的生命体を『ヒトではないから』という理由で実験しようものなら、きっと多くの人は『人道的でない』と言うだろう。


 では、ポリス的であることか。社会性こそが人間の証なのか。それは不適切だ。アリもサルも高度な社会を有している。


「………………」


 無駄な疑問だ。とっくに自分の中じゃ答えは出てる。


 知性人ホモ・サピエンス。知性こそが人間の証だ。宇宙人にも人権が認められるとしたら、それは高い知性を有しているからだ。人間の社会が他の動物と一線を画すとしたら、知性によって善く生きようとするからだ。


 工作人ホモ・ファーベル遊戯人ホモ・ルーデンスも知性故に成り得るものだ。


「じゃあ、やっぱり……」


 何も見たくなくて、顔を伏せる。得られた解の通りなら、僕は人殺しにならない筈だ。


 だが、答えを得られても、それが正しいと証明できない。だから、自身の正気を疑わざるを得なくなる。常に、自分はどうしようもないクズかもしれない、という猜疑心に囚われてしまう。


 顔を上げる。目につくのは、壁に飾った彼女の写真。


「………………」


 ◆


「隣いい?」

「あ……いいよ」


 年度初めの数学。急に自由席だとか言われたから、取り敢えず一番後ろを陣取る。だが、深い関係を持たないせいで、時間が経っても隣は空いたままだ。


 授業ギリギリに腰掛けたのは、一度も話したことない彼女。友人は多い方だった筈だが、不運にも文理の都合で皆んな離れてしまったようだ。


 授業中は話さない。互いに集中しているから。


 ただ、授業の始まる数分前、一週間に六回の、ほんの僅かな時間の関係。


「真乃愛ちゃん、数学得意よね!」

「ああ……。まあ、それなりには」


「この公式どうやって導出するの?」

「ああ……。こういう図形を書いたら、この扇形の面積が……」


「休日とか何してるの?」

「ああ……。本、読んだりとか」


「休日一緒に遊ぼうよ!」

「ああ……。……………………あえっ!?」

「カラオケとかどう?」

「ぼっ……私はいいけど……」

「じゃあキマリね! 後で色々決めるから、連絡先交換しとこうよ!」


 チャイムが鳴って途切れる会話。頭は混乱したままだ。何なんだ、この急接近は。


 ◇


「63.4……。高いのか、コレは?」

「うーん……鼓膜を破って聞いたらプロと同レベルだね!」

「………………」

「落ち込まないで! カラオケって上手く歌うもんじゃないから!」

「……もう歌わない」

「ごめんごめん! デュエットの曲もあるから一緒に歌おうよ!」

「……なら歌う」


 僕のパートだけズレ続ける音程バー。合ってると思うんだが。何でだ。


 一方、彼女は慣れた調子で悠々と歌う。普段は勉強を教えている自分が、完全に攻守逆転されている。


 だが、不思議と悔しさも嫉妬も感じない。寄り添うように、歌ってくれるからだろうか。むしろ、胸が変に暖かくなる。


「………………」

「…………私じゃなくて、歌詞見なきゃ」

「あっ……! ごめん…………」


 まったく、困った脳だ。ちょっと親しくなると、そういう目で見てしまう。彼女は微笑むだけで、気にしていないのが救いか。


「…………」


 救いにしては、寂しいな。


 ◇


「また、遊ぼうね!」

「!…………」


 帰り際、発せられた言葉。本当は嬉しくて堪らない筈なのに、それを恐れている自分が居た。そんな不安は見事実現し、僕の心を掻き乱す。


「うん。また遊ぼう」


 その言葉が出るのに、時間としてはほんの僅かだった。しかし、その刹那に起こった葛藤を僕以外の誰が知り得ようか。


 僕は女の子とは友達になれないのに。


 散々、胸が焼けるような思いを抱えながら、最終的には破滅するしか道がないのに。


 どうして、こんな異常を抱えてしまったのだろう。僕が何をしたのだろう。自分の身体なのに、自分で選べないなんて、あまりにもひどい話だ。回避する余地もなく生を受け、回避する余地もなく枷を掛けられる。


 昔の人間は自身へ降り掛かる理不尽を、神話や伝承によって解釈してきた。神の与えた試練だとか、前世での行いだとか。そうやって自身の不幸を説明することで、一種の安寧を得ていたのだろう。


 だが、残酷にも科学の発展はそれを否定してしまった。最早、僕たちはこの理不尽に意味を見出せない。納得ができない。ただ、偶然そうなってしまったという事実を受け入れるしかないのだ。


 結果、たどり着いた先が『平等』や『多様性』という言葉で無理矢理に解釈した暴論。能力が違えば、同じように扱えないのは分かっている。皆が皆、あらゆる性質を受け入れられる訳ないと分かっている。それでも、こんな矛盾だらけの綺麗事に頼ってないとやっていけない位、我々は気が狂ってしまったのだ。何千年と効き続けた『神話』という名の鎮静剤が急に切れてしまったのだから、無理もない。


 もはや、理不尽を背負いながら、気も狂えなかった人間には無慈悲な破滅しかないのだ。


「………………」


 ただ、もう少しだけ側に居たい。


 ◇


「ひどい雨だね」

「うん……」


 光のない闇。黒い絵の具で塗りたくられたみたいな窓。それでも僕らを乗せた箱は、人工の月で車内を照らす。


 意味もなく揺れ続ける吊り革達。不気味なまでに空いた席。今思えば、出来すぎた状況だったと思う。


「遅くまで付き合わせちゃってゴメンね」

「ぼっ……私は大丈夫だよ」

「…………はあ……」


 彼女は呆れたように溜め息を吐く。


「……私の前では『僕』、でいいよ」

「!?!? なな、何の話!?」

「毎回毎回、『ぼっ』って言ってるのバレてないと、思ってたの?」


 思っていた。堂々と使うと、浮いてしまいそうでずっと封じていたのに。


「…………」


 使っていいのか。


「……じゃあ、愛梨菜の前では『僕』にする……!」

「うん。それがいいよ」


 いつになく甘い声を出すと、肩に頭を乗せてくる。動揺する僕を抑えるように、腕を巻き付けた。右半身が温かい。


「何か真乃愛って、カッコいいよね」

「っっ!!?」


 とんでもない不意打ちだ。固く締めていた筈のフタがズレた。


 今まで不可能と決めつけていたことが、『もしかして』になり始める。僕をこんなに受け入れてくれる人ならば、この欠陥すらも許容できるんじゃないかと思ってしまった。


 幻想だと決めつけることは、ある意味では救いだ。どう足掻いても叶わないのだから、何も迷わなくていい。だが、実現可能かもしれない、と少しでも思ってしまったのならば、そのぬるま湯からは引き摺り出される。


 手を伸ばすのか、伸ばさないのか、決断を迫られてしまう。


「………………」


 どれだけそうしていただろう。


 言葉を交わすこともなく、互いの温もりを感じ合う時間。穏やかな時間でありながら、心の中は葛藤が続く。破滅する恐怖と、諦める恐怖。呪いじみた絶望と、無根拠な自信。至福と、苦痛。


 段々と考えるのが面倒くさくなって、半ば自暴自棄になっていたかもしれない。


 どうせなら悔いのない破滅を迎えようと暴走した。


「愛梨菜…………」

「うん……?」

「あっ、愛してる……! 付き合いたい……!」


 言った瞬間、心臓が跳ね上がる。その衝撃で全身が吹き飛んでしまうかと思った。全身が熱くなって、死を想わせる勢いで体が狂い始める。


 対して、キョトンとする彼女。唐突過ぎたかもしれないとか、もっとやり方があったかもしれないとか、本当にこれで良かったのかだとか、不安と後悔の波が押し寄せる。沈黙がコンマ数秒続くごとに、息が苦しくなっていった。


「……だ……ダメ……?」


 瞬間、体が締め付けられた。


 耳を赤くした彼女は、顔を胸に埋めている。


「……いつか、もっとハッキリ言えるようにして」

「えっ? ええっ?」

「……私と付き合うんだから、いつか吃らないように『愛してる』て言って……!」


 僕はこの時以上の幸せを知らない。


 ◆


 あれから、どうしてこうなってしまったのだろう。やはり、偶然なる理不尽の所為か。ちょうど、僕たちが結婚してから、命の選別は道徳的でないと、精子バンクが廃止されたのを覚えている。まだ自我すら芽生えていない『命』とやらを尊重するために、彼女は犠牲となったのだ。


 それが憎らしいのだろう。世間が憎たらしいのだろう。まだ、彼女と共に過ごしたい。まだ、彼女には自由に笑っていてほしい。そして、その為に知性ある者に害を及ぼす必要はないのだ。なら、何を悩むことがあるのか。


「………………」


 クシャクシャになった紙を持って出掛ける。彼女ならば受け入れてくれると、再び賭けてみようと思うのだ。


 ◇


「…………………………………………」

「…………………………………………」

「…………………………本当なの? それ?」

「正直、裏で政治家と繋がってるなんてことがあるかは疑ってる。ただ、つい数年前まで合法だったことだ。技術的には可能だろうし、政府や世間の考えが気に食わない医者もいるだろう。もしやるのなら、取り敢えず、行ってみる価値はあると思う」

「そう…………」


 ああ、このコンマ数秒ごとに苦しくなる感覚。懐かしいけど、嬉しくないな。


「結局、真乃愛に辛い仕事を背負わしちゃったね」

「………………」


 とんでもないことだ。結局、彼女に選択させているのは僕なのに。


「…………やっぱり、堕した方がいいのかな」

「……この子も、僕たちも、一緒に幸せになる未来はイマイチ想像できない」

「………………」

「…………ごめん。多分、そういう親子も居るんだろうけど、僕にはそれが出来る自信がない」

「……………………」


 彼女は虚ろな目をして、名残惜しそうに窓を見る。


「…………こっちこそゴメンね。私も本当は、こんな重いこと、二人で背負う余裕なんてないと分かってた。経済的にも精神的にも、負担が大き過ぎるだろうなって」

「………………」

「でもね……でも、エゴかもしれないけど、この子はとして弔ってほしいな」

「!…………」


 窓に映った瞳には、涙が湛えられている。それは、僕への罰にも見えた。


「確かに、この子にはまだ知性も自我もないかもしれない。でも、私は愛してた……。誰かが人間として愛したなら、それは紛れもない人間だと思うの」


 彼女は、なんて酷いことを言うのだろう。


 その答えを選ぶのは残酷だ。僕たちに人殺しになれと言うのだから。彼女の優しさに満ちた考えが、僕の無情な結論よりも残酷だなんて、なんと皮肉な話だろう。


「…………」


 人間として愛されていれば人間。知性も自我もない肉塊でも、人間と呼べるのか。その答えに納得することは難しい。


「…………」


 心は揺れる。脳は動じない。


「ああ。そうしよう」


 だが、彼女に『ソレは人間じゃないよ』なんて、言える筈がなかった。


 ◇


「はい。話は聞いておりますよ」

「本当に出来るんですか……?」

「ええ。ただ、あんまり大きな声で喋らないように」

「………………」


 待合室には当たり前のように患者がいる。それがかえって、このままいけば実現するんだろうなと思わせた。一時はあんなに願っていたのに、今となって、彼女の言葉が足を掴む。


 一瞬の躊躇いもなく選ぶなんて出来なかった。ただ、彼女も来ている。彼女に決断させている。今更、全て忘れて戻るなんてことも出来なかった。


「……お願いします」

「はい。では、他のお客様とは違う場所でお待ちして貰うので、看護師について行ってください」

「はい…………」


 ◇


 淡々と廊下を歩く看護師。見える人影は彼女だけ。この一区画以外では、普通の治療が行われているのだろう。日常の中から自分たちだけ切り離されたみたいだ。


 途中、手術室に向かうストレッチャーが追いつく。この廊下を使うのは、勿論彼女しかいない。


「………………」

「……そんな暗い顔しないで」

「……ごめん」

「もうちょっと落ち着いたら、久しぶりに二人でどっか遊びに行こうよ」

「……うん」


 会話の終わりを察知した医者は再び進む。たちまち、手術室の中に入ってしまった。


 暫くして、僕の方も目的地に着く。


「こちらです」


 だだっ広い空間に、一つだけ佇むソファ。


 使われた気配が微塵もないそれは、かえって気色が悪かった。居心地の悪さを抱えながらも腰掛ける。一方、看護師は普通の仕事に戻り、一人となってしまった。


「…………」


 愛梨菜が頑張ってるんだ。待っているだけの僕が不安に潰されちゃいけないよな。


 大きく息を吐く。


 すると、誰か入ってきた。


 ◇


 手術室。


「どうですか? そろそろ麻酔は効きましたか?」

「……………………」


 返事はない。身体も動かない。


 ただ、目だけが異常を訴える。


「意識はまだ残ってる? ああ。安心してください。それは私の趣味ですので」


 ◇


 病院の関係者ではなさそうな男達。白衣でもなければ、金髪やスキンヘッド等、いかにもな格好ばかりだ。


 訳は分からないながらも、異常を察して外に出る。出ようとした。だが、腕を掴まれ止められる。吹き飛ばされ、気付いたら、男達を見上げる形になった。


「ちょっと待てよ」


 サングラスの男が話しかける。


「だ……誰ですか……?」

「ああ? あのクソ医者と仲がいい、エラい立場のお友達だよ」

「……っ!? なっ……そんな!?」

「おっ? なんか勘違いしてた顔? 政治家かなんかだと思ってた?」


 まずい。これはマズイ。愛梨菜が、取り返しのつかないことになるかもしれない。


 目の前の技術に騙されて、彼女を傷付ける。また、同じ過ちを繰り返すのか。そんなのは嫌だ。


 男達の輪から抜け出そうと特攻する。引き止められても、押し倒されても、延々と踠いていれば、きっと活路は見えるはずだ。


 だが、その考えは甘すぎた。


「……ぁっ……!」


 鋭い痛み。脇腹を走る。ざっくりと裂けて、服に赤が染みていった。


 興奮した脳を冷ます、死への恐怖。


 抗えないと分かってしまった。


「内臓は傷付いてないよな? お前の番が来るまで、内臓を痛めるのと殺す以外なら何してもいいって言われてんだ。だからさ、それまでこの部屋で一緒に居ようぜ」

「………………ぁあ……」


 腕の雨が降り注ぐ。


 ◇


 意識はある。痛覚もある。ただ、動けない生きた人形。


 丁寧に、丁寧に削いでいく。


 愛用するのは錆びたナイフ。繊維も切れるが、上手くは切れない、絶妙な匙加減。


 指先から順に、皮を削いで、爪を剥いで、筋肉を削いで、少しずつスリムになっていく。


 上手く叫ぶことすらできず、顔に空いた穴からは、空気の漏れる音だけ聞こえる。それすら聞こえなくなったら、薬を追加して再び覚ます。生命が体感できる最高の苦痛を、その脳に刻みつけて欲しい。


 削ぐ、切る、抉る。耳も鼻も舌も要らない。もう少しこの光景を見て欲しいので、目は最後まで取っておこう。ただ、瞼は要らないな。


 まだまだ思考が出来るように、輸血を続ける。そのまま削いで、削いで、徹底的に削いで、美しくない部分は砕いて千切って無くしてしまおう。一通り、楽しむところを終えたら、いよいよ本業に向かう。


 胸から下腹部まで、垂直にメスを下ろす。宝箱を開ける気分。半ば強引にこじ開けると、中からは目当ての宝石が湯気を上げて現れる。まだ、ドクドクと動いているのは、紛れもない生の証だ。


 ここからは仕事なので真面目にやろう。傷付けないように、一つ一つ丁寧に剥がす。ただ、やはり、仕事も楽しくなけりゃやってられない。取り除いても即死しないものから順番にだ。


 ああ。そういや彼女も依頼人だったな。依頼通りに除去してあげよう。


 小さな子供部屋を取り外す。親子ならキスの一つでもしたいだろうから、口の中に押し込んでやろう。


 いよいよ、終わりだ。終わってしまう。最後のパーツを外さなければ。


 いや、まだ楽しみがある筈だ。


 このまま殺してしまう前に、彼女もお揃いにしてあげよう。


 約束通り、内臓が傷付いてなきゃいいのだが。


 ◇


 誰かが愛したら人間というのなら、今、この場の僕は人間じゃないだろう。


 尊厳も、今までの人生も、何もかも失くした気分だ。ただ、モノとして扱われ、彼らの欲を満たす為に、上から下まで使われる。屈辱を感じても、身体は恐怖で動かない。心はひたすら荒れ狂うのに、当の僕はなすがままだ。


 自分が辛い思いをすればするほど、愛梨菜はこれ以上の悲劇を受けているのではないかと思った。自分の想像に心臓が止まりそうになる。今すぐにでも、助けに行きたい。すぐそこにある手術室まで押し入って、怒り狂ってしまいたい。


 でも、出来ない。


 ただ僕にできるのは、窒息してしまわないように酸素を求めて踠くだけ。浴びせられる理不尽に、抵抗も出来ず嘆くだけ。


 自分が男だとか女だとか悩んでたのが馬鹿らしくなった。実際の肉体も、世間からの目も、僕がどう思おうが変わりないのに。僕の葛藤も知らないで、下衆な笑いを溢すだけなのに。


 扉の開く音がする。


 それは永遠とも思えた地獄の終焉を告げると共に、手遅れの合図でもあるのだろう。


「時間です」

「ええー! まだ、出してないやつもいるのに……」

「彼女が死んでしまわない内に始めたいので、お願いします」

「まあ、あれだけ出されりゃ誰かの子は孕んでるか。今度は健康だといいな!」


 何事もなかったかのように、出ていく彼ら。僕は惨めな格好で倒れていた。


「麻酔させてもらいます。動くとかえって痛いので、落ち着いて下さいね」


 近付く諸悪の根源。


 その首に突き刺す。


「…………」

「…………」


 彼らが忘れていったナイフ。ドクドクと、生の失われる手触りを感じる。ただ、人殺しをした気分はなかった。


「………………」


 服を整えて、部屋を出る。彼女が待っているであろう、手術室に向かった。


「……愛梨菜」


 返事はない。暗い部屋の明かりをつける。


「…………愛梨……!」


 真ん中に横たわる、肉の塊。


 手足はなく、貌もなく、もはや人型ですらない。


 剥き出しの心臓と肺だけがまだ動いている。


「…………愛梨菜……?」


 やはり、返事はない。知性も自我も無いかもしれない。


「……………………」


 口に挟まった胎児の死体。


「…………何で、何でこんな……!」


 視界がボヤける。現実が歪む。代わりに思い出が逆流する。走馬灯のように切り替わる光景は、どちらがどこまで夢なのかを分からなくさせた。


 身体に異常が現れて、中のものを逆流したら、やっと正気に戻る。


「………………っ……! ……ぁは……!」


 結局、僕は彼を人間として見ていたのだろうか。


 結局、人間とは何なのだろうか。


 僕は今の彼女を。


「……………………」


 ナイフを持った右手が震える。


 それを必死で左手が止める。


 どれだけそうしていただろう。


 ◇


「——————」


 包帯の塊に大量の管と電線が繋がれている。


「ねえ、愛梨菜」


 塊に話しかける一人の女。


「僕たちの赤ちゃん産まれたよ! 何も異常なしの健康体だって!」

「——————」


 当然、返事はない。だが、彼女は喋り続ける。


「ねえ、愛梨菜。やっぱり、僕の考えた名前でいい?」

「——————」

「愛梨菜……」


 明瞭な声で、彼女は告げる。


「愛してるよ」

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