彫刻刀

日谷津鶴

彫刻刀

 あれは初等部5年生の冬のことで僕は教室に居残って一人だけ仕上げることができなかった図工の版画を彫っていた。

 それを椅子の背を抱き締める格好で眺めているのは同じクラスの加島。彼の視線は僕の指先に注がれる。彼の胸を飾るリボンタイは僕と同じ制服の筈なのに酷く上等な物に見えた。それはズボンもシャツも同じだった。

 削れたおがくずが床に落ちる。拾い上げない僕を加島は咎めない。あと少しだ。輪郭線をうっかりと削らないように彫り進めれば完成する。

 早く家に帰れば夕方に繰り返し放送している十年も前のアニメの再放送にでも間に合うかもしれない。そう思いながら平刀を滑らせる。

 それは一瞬の出来事で僕は痛みで手を上げて悲鳴を上げた。左手の指を削ってしまったのだ。血はじわじわと溢れて押さえても出てきた。

 加島は黙って血の滲む僕の指を咥えて確かに吸った。下校の最終時刻の聖歌のチャイムのアヴェマリアの曲が鳴り止んで担任の先生がもう下校の時間よ、とおざなりに告げた瞬間に加島は僕の指をさっと離した。加島は唇に残った血を舐め取って口を拭う。その傷は今も僕の左手の中指の先に残っている。


「六田、その指どうしたん?」

僕はノートに書かれた二次関数の曲線上ではっとする。そう尋ねるのは中学から編入してきた坂見。

「包丁でやったんだよ。すぱっと。」

坂見はそうなのか、と納得する。誰かに咎められる度にそう説明していた。

 斜め前の席には相変わらず加島の背中がある。20人ぽっちの一クラス。高等部に上がるまで僕たちにはクラス替えは無縁だ。

 以前母に連れられて訪れた美容院に置いてあった瓶に詰められたメダカのような酸欠した学校生活を送る。それが冴えない私学の生徒の過ごし方だ。

 次にその美容院に訪れた時にその瓶は無くなって代わりに大振りの花束が飾られていた。あのメダカ達は死んだんだろうなと思うと髪に入れられた鋏を持つ美容師の手のエナメルグリーンのネイルが空々かった。

「なあ、お前あの噂知ってる?高等部のリストカット女。」

坂見は声を潜める。

「高等部の女の先輩でさ、こう腕が洗濯板みたいになってる女の人が居るんだって。」

「へえ。よくやるよ。一文の得にもならないのに。」

 チャイムが鳴って次の授業が始まる。六間目の退屈な科目はよりによって宗教の授業。

 机には教科書の代わりに分厚い聖書が並ぶ。洗礼を受けた信者なんてこの中には一人もいないのに毎日十字を切って神に祈る。期間限定の空々しい祈り。

 その時に他のクラスメイトは一体何を考えているのだろう。早く授業がおわりますように、明日のテストの山が当たりますように。といったところか。


 宗教の先生に当てられた加島は立ち上がって新約聖書の一説を読む。この前の昼休みに聖書がイエスの弟子の弟子の弟子が書いた伝言ゲームのラストのアンソロジーだと軽口を叩いた坂見は購買にいるシスターに長々と説教されていた。

 加島の声はいつだって涼しい。隣の席の杉本さんはうっとりした様子で加島の横顔を眺めていた。


 僕はあれ以来狭い学校の中で加島から逃げ回ったけれど体育の柔軟体操、理科の実験の班、合唱のパート分け。どう頑張っても加島と話す破目になる。

 何よりも嫌なのは挨拶だった。六田、おはようと加島は校門の前で微笑む。眩しい太陽とそびえたつ白壁の校舎。すれ違うこの学院の生徒たち。僕は指の腹を撫でてそこに傷があることを確かめる。加島は歩き出して昇降口の人だかりに紛れていった。


 中等部の2年の課題学習。僕は五分の一の確率の偶然で加島と同じ班で調べ物をすることになった。

 50年前に死んでいる地元で有名な彫刻家の作品について、というテーマにリーダーの笠原さんが

「それじゃ今度の日曜日に駅集合で実際に美術館とかに行ってみよう」

と提案した。杉本さんや坂道もいいね、賛成、ついでに帰りにカラオケでも行って遊ぼうと賛成した。

 僕は観念してて日曜日に駅の水槽の嵌め込まれた柱の前で皆を待っていた。水槽を覗き込む。鰭をひらひらさせた魚たちが泳ぎ回る様を見ては腕時計を確認する。10分遅れているのに誰一人来やしない。

 皆に担がれたのだろうか、或いは向こうの柱の後ろに隠れてクスクス笑っているのだろうかと考えて次第に不安になる。日時を間違えているのではなかろうか、と。そう考えて水槽をまた眺めていると後ろから肩を叩かれた。振り向くとそこには加島がいた。寒気が走る。

「六田君。残念なお知らせがあるんだ。」

「…何?」

「さっき電話があって杉本さんの曾おばあさんが危篤で笠原さんのお母さんの陣痛が始まったんだって。」

その時僕の携帯が鳴る。出ると坂道だった。

「悪ぃ…六田。俺下痢酷くて今日無理だわ。皆に伝えといてくれねえか。」

僕は分かったと答えて加島に伝えると

「それじゃあ僕たちで写真、取っておこうか」

 皆のために、と言って加島は首に下げたカメラを抱えて見せた。僕は頷いた。ここで逃げれば後でどう皆に説明すればよいのか分からなかったからだ。

 

 憎らしいことに例の彫刻家は美術館を中心に市内の至る名所に彫刻を残してご丁寧にもその場所を観光バスが循環している。僕たちもそのバスに乗り込む。

「いい天気だね」

僕もそうだな、と答える。ちゃんと受け答えしなけば普通の同級生という魔法は解けて僕はまたあの瞬間にタイムスリップするのでないかというあり得ない恐怖に囚われる。

「お前、カメラ趣味なの?」

距離を保つには適当な雑談しかない。

「兄さんの影響。お下がりで貰ったんだ。現像もやってもらえるから。」

そっか、と答えた。


 咲き乱れるマリーゴールドの前の少女像、銀杏並木の小道の奥で立ちふさがるように置かれた青年の像。どの像も公然と置かれているがつんとした乳首も皮を被った陰茎も丸出しだ。

 加島はシャッターを切る。バレエを踊る男女像の前で若いカップルが加島にカメラを預けて取ってくれませんかと申し出る。加島はカップルに向かって笑って下さい、と語りかけては写真を取る。

 向けられた二人分のピースサインの後ろの噴水とマリーゴールド。雲一つ無い空。きっと現像すれば素晴らしい写真が浮かび上がるのだろう。もう二度と会うことのない行きずりの僕らはそれを見ることはできないけれど。


 最後の美術館で僕たちは一通り展示を見て回った。例の彫刻家の生涯の説明のパネルを読んだ。

 商家の長男として産まれ、芸術の道に出奔し東京の芸術学校に入学し、作品を作り続けた男。3回の結婚。道ならぬ恋の数々の末に産み出された塑像。数々の写真。

 そのうちの一枚の年若い少女の細面の顔を見れば誰でも気づいてしまう。

 あの像はどれもその少女の顔をしていた。細い眉に少し吊った瞳に薄い唇。少年の像もバレリーノですらその顔をしていた。

 少女は結核で死んだ彼の年上の従姉らしい。その写真を彼は肌身離さず生涯持ち歩いていたそうだ。作品は彼の死後にようやく評価されて彼が産まれたこの街のいたる場所に飾られている。

 そのどれかの像の側で彼は笑っているのだろうか。あるいは色情の煉獄の底で作品を削り続けては彼女の幻に手を伸ばし続けているのだろうか。加島も僕の隣で彼女の写真を見詰めていた。


 帰りのバスは空いていて僕は美術館のパンフレットを広げてぼんやりと眺めていた。

「次の停留所で降りるよ。家、この辺だから。」

加島はそう告げた。

「なあ、加島。レポート、何て書けばいんだろうな。」

「像の顔は彼の最愛の女性だった、まあそのパンフレットにある生涯を模造紙に書けば無難だろうね。」

「そうだな。写真、ありがとうよ。」

 いきなり加島は僕の手を掴んでいきなり噛みついた。僕が上げようとした悲鳴をもう片方の手で口を押さえつける。噛まれた手の甲から血が滲む。

 嘘だろう、嘘だろうと心臓が脈打つ。加島は舌で僕の血をざらりと舐め取った。加島は瞳を見開いて声を出さずに顎を反らして笑う。

 そして僕の耳元でばあか、と囁いた。バスが止まる。川沿いの水力発電の記念館の前で加島は下りていった。僕の左手甲の親指側にはくっきりと加島の犬歯の跡が付いてしまった。


 中等部3年生の修学旅行の行き先は ぱっとしない海沿いの温泉町だった。隠れクリスチャンが江戸末まで信仰を続けてたその場所で歴史めいたものを学ぶというのは建前で校長の親族が経営している旅館に大口の客を与えるのが目的だというのは公然の事実だった。

 成績不良じゃ高等部に進学できないぞ、という先生の脅し文句は効かず高等部にストレートで進学できる僕たちは受験勉強とは無縁でだらだらと中学生活を送っていた。高校から公立のトップ校に進むという一部の同級生を除いて。

 高等部には高校から入学する生徒の方が多くクラスも4つになって僕はようやく加島から離れられると自分に言い聞かせて他校の受験から逃げた。


 聖堂記念館のガラスケースに納められた煤けたマリア像に形を変えても失われなかった信仰心は僕たちのような信心浅いミッションスクールの生徒の心を打たなかった。記念館の職員の白髪交じりおじいさんは慣れた口調で江戸時代初期に行われたクリスチャンに対する迫害が如何に悲惨で非人道的かを語った。

 おどろおどろしい物語は次第に熱を帯びて踏み絵の前で裸にされて役人たちの慰み物になった年端も行かない処女の乳首が切り取られたという所で女子の顔は引きつり担任の諸田先生が曖昧な笑顔で目配せをして話題は明治時代までタイムスリップしていた。

 それから館内を回る時もさっきのおじいさんは曲がった腰の後ろに手を当てて女子生徒にばかりやたら説明を聞かせていた。坂道は古典の遠藤といい勝負の助平じじいだな、と僕に耳打つ。

 歴史だ学習だ当時の風習だと尤もらしい理由で猥談をする大人の魂胆を知らんぷりして聞いてやるのはいつだって子供の方だ。


 旅館の料理は物珍しくて僕たちはピンク色の固形燃料に火を付けて鍋をつついて新鮮な魚を食べた。坂道はおいしいおいしいと白飯を三杯もおかわりをする。斜め向かいに座っていた加島は器用に魚の腹を箸で裂いて骨から身を削って後に残った骨はまるで標本だった。

 海に面した大浴場は中学生には贅沢すぎるほどの景観で僕たちは騒ぐなよ、と何度も諸田先生に注意されたのにプールのようにはしゃいでいた。

 なにせこの寂れた旅館には僕たち以外に宿泊客が見当たらなかった。僕は大理石の浴槽の縁に手をついて暗い海を眺める。遠くに頼りない船の灯りが見えた。

 脱衣所で裸になった加島と居合わせた。プールの着替えに林間学校やら小学校の時の修学旅行まで裸になることなんていくらでもあった。坂見が加島を見てお前色白いなあ、とからかうと加島は日焼けすると腫れるんだと返す。大嫌いな加島の体はもぎょっとする位色白くて細い。見てはいけないもの、と思わせるほどに。


 夜のお喋りが楽しみで仕方ない同級生のそわそわした様子がどうも落ち着かずに僕はトイレに行くと行って部屋を抜け出した。僕は宿泊学習が苦手だ。ただ疲れるし行かないで済むなら行きたくない。行事全般も苦手だ。いつもと違うことに面白さより億劫さが先立ってしまう。

 旅館の中庭は要り組んだ生け垣になっていてそこにオオミズアオが飛んでいた。滅多に見ることの出来ない青白い蛾をつい追いかける。旅の思い出になりそうな兆しは抗えない。この旅館に来ることは一生ないだろう。だったらほんの少し冒険してもせいぜい先生に怒られるだけだ。

 消灯時間も間近なのにどんどん生け垣を進んだ。暗いけれど多分椿にツツジだ。きっと春になれば花が咲く。聴こえる水音は海の波なのか表にあった錦鯉がひしめく池の音なのか分からない。

 歩いていると人影が見えて僕は咄嗟に身を隠した。女の子の泣き声。そしてごめん、を繰り返す男の声。僕は二人の声に聞き覚えがある。同級生の誰か。女の子が走ってきて僕はぶつかって転んだ。そこには真っ赤に目を腫らした杉本さんがいた。杉本さんは僕を見て一瞬罰の悪そうな顔をしてまた鼻をすすると走っていった。

 背後で忍び笑いが聞こえる。加島だ。頼りない電灯に僕の追ったオオミズアオがたくさん群れては雲蚊を散らしていた。じじ、じじ、と虫たちが爆ぜていく。その下で加島は笑っていた。そして僕の方を見ると目を細める。バスで僕の手を噛んだ時と同じ顔。尻餅を着いたままの僕に加島はゆっくりと近づいて身を屈める。

「お前、杉本さんに何したんだよ。」

「何って。あなたのことが好きって言われたから断った。そしたら勝手に泣いた。ちゃんと謝ったよ。ごめんって。おかしいよね。向こうが勝手に押し付けてきた感情なんてさあ。迷惑で仕方がないのに。泣かせたみたいになるのって。」

加島は喉を反らして僕を見下ろす。

「お前、ほんと性格悪いよ。クラスの連中と上手くやって女子にモテて先生に気に入られても」

「俺は知ってるんだぞって言いたいの。」

「お前は俺には酷いことするじゃないか。こうやって周りに誰もいない時に。」

 卑怯じゃねえか、という言葉を口にする前に加島に口を押さえつけられて僕は首を絞められる。

 加島は僕の体に跨がって首を絞め続ける。僕の意識は次第に遠くなる。奴の瞳は底が見えそうなほど開いていた。暫くするとふと締め付けていた手は離れて僕は噎せた。加島は立ち上がって僕を見下ろす。暫くすると飽きたようで去っていった。びっしょりとかいた汗。紛れもない死の恐怖の証。

 

 次の日僕の首にできた痣を見つけた坂道は幽霊の仕業だ、と騒いだ。杉本さんの目は可哀想な位腫れていて加島は何事も無かったかのように坂道の冗談に笑っていた。


 中等部まで一クラスだった学校生活は高等部に上がって様変わりした。初等部からずっとこの学院にいる生徒なんて指折り数えるくらいだ。その中には加島もいる。

 幸い高校に入ってから奴に会う機会はめっきりと減った。僕は高校から吹奏楽部に入ってトランペットを吹きはじめた。放課後の部活では楽器ごとに別々の空き教室に別れてパート練習をする。

 サックスでもトロンボーンでも大正琴でも何でも良かった。ただ新しいことを始めてみたかった。中学から吹奏楽をやってた外部生たちは上手くてとても敵わないけれど。


 あれは夏休み明けの蒸し暑い日に起きた。僕は二年生の空き教室でパート練習をしていた。

 録に読めない楽譜に音楽の教科書で調べて振ったカタカナの音に沿って吹く。その教室にぬらりと現れた女子生徒の姿を見た僕はぎょっとした。

 彼女の左手首には包帯が巻かれていた。手首より上の腕には痛々しい傷が何本も刻まれている。リストカットの類いであることは一目で分かった。彼女は教科書を取って鞄に詰めるとふらふらと教室を出ていった。鞄からぶら下がるくたくたになった犬のマスコットが揺れる。

 彼女の姿が消えて一緒に練習をしていた須藤先輩が口を開く。

「あの人、留年してるんだってさ。本当は大学生の歳なんだよ。俺の一個上。」

「中学生位に見えるのに。」

僕はそう言った。中等部のセーラーを着ても紛れてしまうような人。

「手首のアレ、見ただろ。これは噂だけどよ。」

須藤先輩は声を潜める。

「何でもあの人と同じ学年だった男子と子供、出来ちゃったみたいでさ。すっかりおかしくなって入院してからそいつが卒業してから復学したんだとよ。」

「子供は?」

 口にしてから僕は自分の質問が如何に間抜けているか気付いた。須藤先輩は堕ろしたんだろうと呟いた。チャイムの上の磔刑像は彼女に何かを咎めるのだろうか。


 その彼女は嫌でも人目に付いた。ある時はバス停の前で聖書を広げて読みふける。

 秋の全校集会で彼女は生徒たちが立ち並ぶ中、突然つかつかと歩き出して体育館から出ていってしまった。

 モーセの海開き宜しく人だかりは彼女から退く。壇上で生徒たちに説教していた生活指導の先生がおい、前崎と叫ぶのも聞かずに軽やかに走っていった。そのままつまらない学校から飛び立って行きそうな背中に全校生徒は呆気に取られていた。


 次に前崎先輩を見かけたのは図書室で彼女は背を伸ばして棚の上の本を取ろうとしていた。

 腕が伸びて例の傷がより痛々しく露になる。僕は咄嗟に彼女が取ろうとした本の背を掴んで渡した。その表紙には見覚えがある。この学院の系列の修道院の高名なシスターが書いたエッセイ。

 彼女はどうも、と暗い目で僕を見上げて貸し出し手続きもせずに本を鞄に入れて持ち去った。それ以来図書室で彼女と居合わせた時は視線を合わせないようにした。

 話しかけた途端に軽やかで奔放に見える彼女が一瞬で暗く病んだ生身の人間に零落する。

 それでいて僕は前崎先輩に恋する根性は無かった。彼女に関する無数の噂はどこかに一抹の真実が含まれている筈だ。それが何章何節のどこにあるのかは分からないが。


 そんな前崎先輩と会話している人間を僕は教室の廊下で見かけた。彼女は黙って柱に凭れて時おり笑った。

 その相手は僕が忘れかけていた加島だった。その光景から目が離せない。相変わらず線の細い加島とそれに輪を掛けて華奢な前崎先輩の取り合わせは妖しい程絵になった。

 あの修学旅行の晩のような目に彼女が遭わなければいい。

 あいつの血迷った所業もほんの一時のもので数年も経てば同窓会の酒の席で僕に謝る筈だ。そう言い聞かせてもざわざわとした胸騒ぎは治まらなかった。


「なあなあ、六田知ってるか。あの加島に彼女できたって。」

坂道が教室で軽口を叩く。前にいた杉本さんの肩が一瞬びくつく。

「それがあの前崎先輩だって。留年してるあのリスカの。俺らが中等部の頃からずっと女子高生の。」

「俺も欲しいなあ、彼女。」

彼女欲しいなあ、というのは僕と坂道の合言葉のようなものだ。

「杉本、お前何か聞いてる?加島と仲良いだろ。」

 何も知らないであう坂道は杉本さんに残酷な質問をする。杉本さんが加島に中学の修学旅行の晩に振られたことを知ってるのは多分あの時鉢合わせた僕とせいぜい彼女の友達くらいの筈だ。

 杉本さんは坂道にえー、知らない、と答えてからにっこり笑って僕の肩に手を置いて六田、委員会のことで話があるのと言って僕を教室の外に連れ出した。彼女はずんずん、と踏みつけるような足音を立てて階段を上る。

「おい、杉本。どこ行くんだよ。」

 いいから来て、という彼女の声はあまりにもか細かった。屋上に続く扉のドアノブを握って杉本さんはガチャガチャと回した。

「鍵、壊れるよ。」

 杉本さんは人気の無い五階の踊り場でへなへなと座り込んで事もあろうか僕の腰に抱きついてわんわん泣き出した。僕はしゃがんで彼女を宥めると顔を埋めてさらに大声で泣き出す。

「あのとき見てたから知ってるでしょ六田。私、加島君のこと好きだった。初等部の頃からずーっと。」

「知ってるよ。女子は一回は加島のこと好きになるだろ。だけど葵ちゃんは違うだろ。すっとだった。」

 僕は久しぶりに杉本さんの名前を読んだ。初等部の頃は皆お互いに下の名前で呼びあっていたのにいつの間にかよそよそしく名字で呼び合うようになっっていた。

「そう。だけど私美人じゃないしスタイルも良くないしおまけに性格も悪いから加島君に釣り合わないなんて分かってる。」

「かわいいよ。」

気の聞かない返事を返す。かわいいという毒にも薬にもならない誉め言葉。

「六田、本当にあんたって昔から優しいよね。とにかく、いくら美人でも洗濯板みたいな腕の女なんてどうしても嫌なの!!とにかく嫌なの!」

 杉本さんはそう言って泣き崩れた。性格が悪いというか彼女は口が悪い。こういう時はとにかく宥めるしかない。

「嫌っていっても加島は好きなんだろうからしょうがないよ。そのうち別れるかもしれないし。加島が向こうに振られるかもしれないぜ。そしたら…」

 そこまで言葉にして僕はあの晩に杉本さんの真剣な告白を嘲笑った加島の顔を思い出した。

「とにかく、杉本さんにはもっといい奴が似合うよ。例えば、俺とか。」

僕の冗談に杉本さんは癖に僕の制服がガビガビになるまで胸を借りて泣いたくせに

「それはちょっと…」

と我に帰って苦笑いを浮かべた。


 そうして加島と前崎先輩が付き合っている噂はたちまち学校中に広がった。道路の向こうのバス停で二人を見かけた時の光景を僕は今でも覚えている。細長いベンチで加島の肩に凭れる前崎先輩の姿を。

 彼女の目は相変わらず虚ろだった。季節はもう秋で無遠慮に植えられた校内の庭木から色づいた葉が風にもぎ取られていく。息が白くなる程張り詰めた空気の中前崎先輩と道路一本隔てて目が合う。

 彼女の黒い瞳は僕の目を射抜く。バスが走り去って二人は消えた。あの目が何に似ていたのか考えると中等部の時に解剖したヒヨコだった。

 生物の授業と銘打って悪趣味な理科教師は僕たちに鶏卵を孵卵器に入れて温めさせて経過日数が違う卵を割るように指示した。卵を割るとあちらこちらから悲鳴が上がった。見慣れた生卵ではなくそこからでてきたのは生まれ損なったピンク色の雛だった。杉本さんは気絶して坂道もげえ、と声を上げた。

 僕の卵から落ちたのは生まれる直前のヒナだった。僕はその目蓋をピンセットで捲った。卵の外の世界を見ることのなかった黒い瞳。感光する間もなかった虹彩。


 忘れもしない一年生の十二月。我らが救世主の誕生の月。明日は期末試験だというのに世界史の教科書を学校に置き忘れて急いで夜の校舎に戻った。

 この地域は太平洋側に出っ張っているせいか冬至の前後は夕方の5時頃にはすっかり日が落ちる。

 クリスマスも近く校舎にはイルミネーションが掛かり巨大なクリスマスツリーが昇降口を少しいったところの吹き抜けに置かれていた。

 ミッションスクールのはしゃぎ時と言わんばかりに校内は生誕祭一色だった。マーカーだらけの教科書を持って早く家に帰って一夜漬けの暗記に勤しもうと早足で聖堂の前を通った時に

普段固く閉ざされているその扉が少し開いていることに気づいた僕は立ち止まった。

 誰もいない夜の聖堂。そのまま扉を開いて息を潜めて中に入る。

 電気も付いていないそこは薄暗く並んだ長椅子の右手にはパイプオルガン。そして中央には聖壇。

 そこが司祭様以外は立ち入れない聖域だというのは不信心な僕でも知っている。もう少し近づいて見てみたい。好奇心が疼く。その時カタン、と何かが落ちる物音がした。耳を澄ますと人の息遣いが聞こえる。それも、聖壇の方から。息を殺して忍び足で進む。

 泥棒かもしれないぞ、帰るなら今だ、と頭の中で警報が鳴っているのに僕はそれを止められなかった。あの時と同じだ。オオミズオアに惹かれて旅館の生け垣に迷い込んだ時と。

 嵌め殺しのステンドグラスから降り注ぐ月光は聖壇、そして磔刑像に伸びていた。聖壇の後ろに居た人物を見た僕は凍りつく。聖壇の後ろで屈みこんだ加島は前崎先輩の手首に口づけをしていた。奴の唇は血が滴り床にはカッターナイフが落ちていた。前崎先輩の口が動く。ほっといて、と。

 駆け寄って加島を殴り飛ばして加島の体に馬乗りになって押さえつけた。

「何やってんだよお前。」

僕は加島が何をしているか見て分かっている筈なのに何をしているんだ、とて問い続けた。

「献血。」

「ふざけんな。」

「貰ったんだ。前崎先輩から。」

「自分の彼女にそんなことするかよ!前崎先輩、あんたも間違って死んだらどうする?」

「痛みが無いと…」

前崎先輩はふらふらと立ち上がり声を絞り出す。

「痛みが無いと生きていると思えないから?私はずっと死んだまま。二年前?もっと前から死んだまま。死んだまま、死んだまま。」

 彼女の口から出る同じ言葉は冷たい石床に落ちていつまでもその場に残っているような気がした。加島は起き上がって前崎先輩の背中を支えた。

「あなたは生きてる。死んでなんかない。」

 加島がそう言うと前崎先輩は一際大きくきゃはは、と笑って走り去った。加島は彼女を追わずに長椅子に座ってため息を吐いて腕を組んだ。

「あの人は壊れている。君は信じないだろうけど始めに腕を差し出したのは彼女だった。トイレから出てきたあの人の手には付けたばっかりの傷があってそれを眺めていた僕が物欲しそうに見えたんだろうね。なあ、六田。僕は血を見ると舐め取らずにはいられないんだ。」

「舐めるで済むか。噛みつきも首絞めもうんざりだ。いいか、前崎先輩をこれ以上傷付ける真似は止めろ。本当におかしくなっちまう。」

「それは英語教師の長岡に言ってくれ。」

「何で。」

「長岡だよ。彼女を妊娠させて今も慰み物にしてるのは。僕は彼女の恋人じゃない。」

「嘘だろ。だってあいつは」

「結婚してるよね。学園長の甥なんだってさ。もっと云えば前崎先輩は長岡のはとこにあたる。彼女が小学生の頃から…」

「止めろ、止めてくれ。」


 両耳を覆った。目の前の磔刑像を剥ぎ取ってステンドグラスを割って校舎に叩きつけてやりたい気分だった。クリスマスツリーも蹴り飛ばして学校中の聖書を引き裂いてやりたい。そんな連中から受けるキリスト教精神の教育も無償の愛も糞喰らえだ。

「彼女は救えないよ。狂いながらも自ら蟻地獄に落ちていく。なあ六田、彼女の顔、似てないか。」

「誰に」

「中学の時に美術館で見た彫刻家が一生掛けて彫った少女。」

「ああ、似てるよ。目元なんてそっくりだ。」

「君ならどうする?生涯を掛けて彼女の塑像を彫り続けることなんてできるかい。」

加島は僕の左指の中指を迷わずに取って薄明かに晒した。

「まだ、あるんだ。この傷。」

「痕になってるんだ。消えないだろうな。」


 加島との思い出も僕が死ぬまで消えることはなく頭の片隅に刻まれる。教室の机に引っ掻いて付けられた落書きのように。

 加島はそろそろ帰ろうと立ち上がり僕は磔刑像の前で跪いて祈った。貧しい中南米で、救世主と縁の深い荘厳な礼拝所で、或いは死刑囚が教誨師に導かれて口にする無数の祈りの中に僕は加わった。

 前崎先輩が蟻地獄から抜け出して加島はいつか変われますように。朝に夕にお仕着せの空々しい祈りをずっと唱えていたのだから彼女を赦して欲しい。そして救って欲しい。

「なあ、できるよな。あんたは奇蹟を起こす救世主なんだろう…」



 僕の目の前で六田は熱心に版木を削る。バラバラにした菊の花びらに似た屑が剥ける。

 平刀で削れば良いような場所に丸刀を使い、三角刀で剃ってしまえば良い場所に平刀を斜めに入れているようなデタラメな彫り方で下書きの稜線を崩さない。器用なのか不器用なのか分からなくなる。

 

 六田は覚えているだろうか。2年生の時に転校してきた僕と初めて口を利いてくれたことを。その時僕は公立小学校での不適応に対するストレスで顔中アトピーだらけだった。膿の臭いがする赤い凹凸は人から遠ざけられる理由としては十分だった。

 体質の変化とましな治療薬のおかげで去年あたりから肌が治った。クラスでも浮くことが減った。それでも僕は六田とつるんでいた。特に何をする訳じゃない。シジミチョウを摘まんで離したり名前もわからない花を毟る。六田の工作を眺める。六田が僕の胸に触れる。何、と尋ねると六田はごめん、解けていたからと答える。

 蝶々結びがまだ上手くできない僕のリボンタイを六田は結んだ。触れた感触を忘れられなかった。きっと僕は六田が好きなんだと気づいた。


 あ、と六田が悲鳴を上げる。彼の指からは血が滲んでいた。

「痛ってえ、やっちまった。」

心臓が高鳴る。彼の血、指。僕は反射的に彼の指を咥えた。鉄の味。生温かく温い六田の指。口を離した時の六田の顔を一生忘れることはない。

 怯えきった表情。一本の彫刻刀が僕の頭に描いていた稜線を壊した。僕は六田に口づけする筈だったのに血を啜ってしまった。

 僕の中で何かが変りゆく。六田を愛そうとすれば歯を立て首を締めて彼が恋慕する女を奪った。もう彼と仲直りはできない。それが放課後の教室かバスの中か生け垣の芝生の上か聖壇の上で飲んだ前崎先輩の薬物と男の精を孕んだ血の雫を舐めた時なのか分からないまま僕はいつだって六田を自分の領域に引きずり込む瞬間を狙ってあの時狼狽する六田から盗んだ錆びた彫刻刀を鞄に忍ばせている。

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