第24夜 黙想

「ひとつの宗教に属することは、自分にとって生きるために必要であり、それ自体が特段の矜持になっているわけではありません。


 むしろ、損得勘定で動いているわたしは、どちらかといえば、無神論者の俗物にすぎないのです。


 奉仕をするときも、それが共同体の役目として必要であり、自分の心身に見返りがあるからこそやっている。


 それは、内心を知らない他人が見たら美しく、喜ばしいものに映るかもしれません。


 ですが、結局のところ、わたしのうちにあるのは自分可愛さなのです」




 告解室で、懺悔を聴きながら、神父は目をつむり、深く深く瞑想するように腰を据えて動かなかった。


 黒い漆塗りの狭い部屋で、もう小一時間ほど、この男の懺悔を聞いている。


 そろそろ潮時かと思い、話が途切れるタイミングで、声をかけようと見計らっていた。




「では、お祈りします。


 あなたの胸に手を置いて、語りかけてください。


 神は、いついかなるときでも、共におられ、わたしたちの苦悩を聴き取ってくださいます。


 この聖霊の導きに従い、様々なご苦労があるとは思いますが、再び御前(みまえ)に歩んでまいりましょう」




 主の祈りを唱え、祝福の言葉を探しながら、神父は心の中で思った。


 ずっと、こんなことの繰り返しだ。この男が、たとえいっとき悔い改めて、信仰に立ち返ったとしても、世の荒波に揉まれれば、またすぐに自分を見失うだろう。


 信仰とは、洗礼を受けたその日から始まる、悪しきこの世との戦いなのである。


 キリストを信じ、ともに、死から救っていただいた友と歩むことは、決して楽な道ではない。


 今までにも、たくさんの落伍者たちを見てきたからだ。


 また、彼らと再び相見(あいまみ)える日を願って、祈り続けるのみではあるが。


 この振り子のような、不確かな信仰というものは、常に転ぶ危険があり、いつ落伍してしまうとも限らない。


 とはいえ、一度、洗礼を受けた身ならば、もう一度、初めの愛に立ち返ることも、できる。


 それは、我ら、キリストの体の一部として、一つの欠けも神はお見捨てにならないという真実なのである。




 男と別れたあと、ミサの後片付けをしながら、神父は会堂に掲げられた十字架を仰いだ。


 それは痛ましく、悲しみに満ちてはいたけれど、キリストの打たれた体は今日(こんにち)も血を流して、わたしたち人類のため、失われた魂の救いのために、自らを神の生贄として捧げていた。


 この愛に報いなければ、と、神父は拳をかたく握りしめて、もう一度、御前に十字架を切り、祈りを捧げた。

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