第23夜 三味線と老人

 トヨコは、ケータに愛想をつかした。


 パチンコにタバコまでは許していたのだが、どうやら女を作ったらしい。


 堪忍袋の緒もこれまでだ。




「頼む! 別れるから、もう一度よりを戻そう!」




 夕焼けに染まる道。足に追いすがるケータを突っぱねた彼女は、吹っ切れた顔をして家に向かった。


 後ろからおいおいとすすり泣く声が聞こえようとも、知らんぷりだ。


 河川敷をアパートへ向かって歩いていると、堀の上で三味線を弾いている老人を見かけた。


 沖縄のハブで作られたような革製の三味線は音がよく、聞けば聞くほどに、目元が潤んできた。




(あんな奴のために泣いてるんじゃない。


 この人が弾いている曲が素晴らしくて、美しい。

 ただそれだけよ)




 最初は、無視してその場を去るつもりだったが、だんだんと湧き上がる感情に、一言礼を言いたくなった。


 三味線を弾く老人は目が見えないらしく、黒いサングラスをつけている。


 古風な着物を着て、どこか異界から現代に迷いこんだ過去の人間のような、そんな違和感を覚えた。




「あのう、それ、なんていう曲なんですか?

 とっても良かったです」


「ああ、ありがとうよ。

 昔、お坊さんから習った曲でね。


 名前はもう忘れてしまったが、わしの心にいつまでも残って"弾いてくれ”と呼んでるんじゃよ」




 くたびれたシワだらけの手を止めて、老人は黒メガネ越しに笑った。


 その笑みが、また粋(いき)というか、歳月を経て、ここまで歩んできた芸人だけが見せる、余裕のようなものをトヨコは感じた。




「トヨコ! 待ってくれよ!」


「もう、しつこいんだから……

 男が終わった恋にいつまでも、ウジウジしてんじゃないわよ!」




 諦めきれずにケータがトヨコを追ってきた。


 トヨコは、履いていた靴を脱ぐと、ケータの方にぶん投げた。


「ぎゃあ」という悲鳴。投げた靴が、ケータの顔に当たって、大きくのけぞる。


 そのまま彼は、堀の上から川にどぶんと音を立てて落ちた。




「……あれ? もういなくなってる」




 前を見たトヨコは、さっきまでの老人が三味線ごと、どこかへ消えてしまったことに気づいた。


 下ではケータが必死になって、手をバタバタさせながら、藁(わら)をもつかむ勢いで泳いでいる。


 どうやら泳ぎは苦手らしく、周りからも「何事か」と人が集まってきた。


 トヨコは素知らぬ風を装って、その場を離れた。


 ただ、老人が奏でる曲をもう一度聴きたかった、その想いだけが、彼女の胸に去来した。


 それから何度か、トヨコはあの河川敷の老人を探しに、同じ道を通ってみたが、あれから二度と現れることはなかった。


 ケータの命日から数ヶ月もたたぬうちに、彼女は新しい彼氏を見つけた。

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