……そしてあなたは、再生ボタンから指を離した……

江古田煩人

……そしてあなたは、再生ボタンから指を離した……

「よう、うまくいったよ」

 ハッチをこじ開けて入ってきたフィッツジェラルドは、一足先に船倉せんそうへ帰っていた俺を見てもいやな顔一つせず笑ってみせた。五ヶ月と二十日前にエンジンルームの高圧電流で脚をやられてしまった俺と比べて、一等客用のパブリックフロアから様々ながらくたをくすねてくるのは今では奴のほうがかなり上手い。

 船倉の外はいまや危険だらけだ特に俺たちのように、所有者の管理下から逃げ出した『ストレイロイド野良ドロイド』にとっては——銀河間航行の豪華客船が提供するホスピタリティなんてものは、資本主義に魂を売った『ミートアーマー肉被り』のためだけの謳い文句で、そこではアンドロイドは単なる生活の道具であり、目的遂行の手段であり、取り替えの利く消耗品でしかない。まったく、最初にアンドロイドに自由意志なんてものを持たせたのは誰だったんだ? 自律思考と共に人間と同等の権利も付与されていたなら、俺たちは『人類史最高のおもてなしを皆様にお約束するハイアット・グランアルタイル号』の船倉なんかでこそこそしたりせず、堂々と大手を振りながらセントラルメディックルームで手厚い集中治療を受けられていたはずだ。あそこは確か、ペット用アニマロイドの治療も行っていたはずだから。

 オレンジ色のボウ・ライトを立てかけた船倉のすみで、俺たちはさっそく戦利品の物色を始めた。合金ケラチタン製のボルトにナット、ヘルテックス社製らしい年代物のマザーボード、『ワブ・ワブ・ドゥーガのスペシャルチョコシリアル』……俺たちの食い物にこそならないが、船内のエンジンを焼け付かせたり、清掃ロボットをおびきよせるのに使ったりと、仕事の際にはなにかと重宝する。変わり映えしないものばかりではだったが、脚をやられてからすっかり意気消沈していた俺にとっては、その見慣れた光景がたまらなく嬉しかった。まだあるぞ、とフィッツジェラルドが背負っていたマルチパックを下ろす。なにか重量のあるものが床に転がる音がした。

「なあキム、俺たちがこの船倉にもぐり込んでもう何年になる? 考えてもみろよ」

「地球標準時で三年六ヶ月と八十四時間二十分五秒だ。フィッツ、時刻同期ができてないのか?」

「俺が言ってるのはそういう事じゃないさ、もっと人間的な感性で……長いことここにいるだろう、ってことだよ。その間、こいつにお目にかかった事はあったかな?」

 そう言うなりやつがマルチパックの中身を床にぶちまけた。ざらざらしたステンレスのくずと共に中から転がり出てきたのは、正真正銘、グランアルタイル号船内業務アンドロイドの——それも『グランバトラー』の——左脚まるごとだった。あまりの光景にびっくりして口が利けないでいる俺に、フィッツジェラルドははしゃいだ様子で両手を打ち合わせてみせた。

「どうだ、こいつは。お前のイカれちまった左脚よりずっといいぞ、しかもRZタイプの新型だ」

「なんてこった、フィッツ、お前あいつから脚をもいできたっていうのか? どうやって?」

 フィッツジェラルドは得意げに笑いながら、客室からかっぱらってきたらしいスコッチを一口やった。

「こないだ清掃用ロボットを捕まえただろう、パーツをいくつか『借りる』ために。あの時にちょっとした電磁罠を仕掛けてやってたのさ。充電ポートに繋いだとたんに、バァーン! ……高圧パルスで周りのアンドロイドが気絶するやつを。それに、まんまと引っかかってくれたのがこの哀れなアンドロイドってわけだ。たった一体で清掃用ロボットのメンテナンスをしようとしてたのが、やつの命運の尽きだな」

 やつの饒舌な武勇伝よりも、俺の意識は『グラン・バトラー』のなめらかな左脚にすっかり釘付けになっていた。すらりと伸びた、しなやかな太もも……細身ながら、躍動感を感じさせるふくらはぎ。神が自らの姿に似せて作りたもうたのが人間なら、その人間が手がけたアンドロイドもまた然り、だ。外観が重視されない労働用のアンドロイドと比べて、人間のよき従者として仕える立場にあるコンパニオン・アンドロイドの見た目は、見ていると胸がむかむかしてくるほど見事なものだった。しかし、完璧すぎる見た目のアンドロイドがこうして脚一本の哀れな姿になって俺の前に横たわっているのを見ていると、不思議と胸の辺りがすっとしてくる。

「キム、キム! お前、なんだってそんな『プラム・バンカーすまし屋』の脚なんかに見惚れてるんだ。悲しいじゃないか、俺があんなに苦労してやつから脚をもいできたっていうのに」

「ああ、悪かったよ、フィッツ。ありがとう、あんまり驚いたんで……ちょっと、気が抜けたんだ」

「キム・キム・キミー、お前があんまり元気がないから、人間式にサプライズってやつをしてみたくなったんだよ。半年前みたいに、また二人でエンジンルームや水耕栽培施設、パブリックフロアを荒らし回れるように。うってつけの、最高の贈り物だろう? そう思わないか?」

「分かった、分かった……ありがとう、フィッツ」

 元々、俺たちに名前はない。ナフラ・コーポレーションの汎用マルチロイド『グッド・ネイバー』の型番PP・100とPP・110、細部パーツの角が丸くなったってだけで性能にたいした違いはない。型番で呼ばれるのを嫌ったやつが、この船へ忍び込む際に『人間式』の名前を自分と俺に付けたのだ。やつはフィッツジェラルド、俺はキム。やつのデータバンクにはそれ以外の名前は記録されてなかった……不思議なことに。フィッツジェラルドはなにかと人間風の言い回しや慣習を好んだが、人間どもから手酷い扱いを受けてきたにも関わらす、フィッツジェラルドの話す『人間語』はなぜか俺の耳にも心地よかった。

「キム、その脚を修理してやろうか。すぐに済むさ、俺の腕がいいことはお前も知ってるだろう」

「焦るなって。いま帰ってきたばかりだろう、くつろいでからにしようぜ」

 俺がそう言うや否や、やつは待ちかねたようにシリコンポリマーの唇を俺に押し当ててきた。こういう『人間式』なら俺も嫌いじゃない、俺はボウ・ライトの灯りを落とすと、エンジン音の低いうなりが床を震わせる暗闇の中で、たっぷりと『コネクティング』を楽しんだ。


 新しい脚の具合は、まったく申し分なかった。弾力のあるオルゴン合金の左脚はまるで俺のためにあつらえたかのようで、フィッツジェラルドが溶接してすぐ、俺はまた半年前のように——もしかしたら製造時よりも——軽々とその場を歩き回れるようになった。性能に文句の付けどころはなかったが、あえて言うなら……輝くように美しい新型の左脚と比べて、まるきり元のままの俺の右脚はいかにも無骨で不格好なものに見える。無理もない、俺の身体は十年も前に作られたきりの中古品なのだから。しかし、やつはそれを笑うどころか実に芸術的だと褒め称えてみせた。

「芸術? へえ、地球にいた頃はホログラフィ美術館にでも勤めてたのか? お前のデータバンクにそんな言葉があるとはな、フィッツ、『芸術的』っていうのが一体なんなのか俺に教えてくれよ」

 俺のからかいに、やつは分かりやすくしかめっ面をしてみせた。なにも本当に怒っているわけではない、その証拠にやつの胸にはまっているステータスランプは相変わらず鮮やかなライムグリーン、具合は良好だ。

「おいおい、そんな言い方ってあるか? 確かに俺はものを知らないよ、キム。分かっているだろう、俺は他のアンドロイドより記憶領域が脆弱なんだ……ことに複雑な観念に対しては、適当な言葉を見つけ出すことができない」

 グランアルタイル号に潜り込む前のフィッツジェラルドがどこで何をしていたのか、俺は知らない。どこかの違法輸送船に積み込まれたあと、労働用途以外にも、非常用電源や個人用バッテリーとして使い潰されてきたんじゃないかと俺は考えている……ハンディフォンの高速充電に使われるような過電流は、俺たちの記憶領域の配線くらいなら簡単に焼き切ってしまうから。そのせいか、やつは共用データバンクから最適な情報を引っ張り出すのが俺よりもずっと下手だった。しかし、その代わりに、地図にも書かれていないような船内の抜け道を探したり、人間の作業員——今ではほとんどいなくなった——がやるような精妙な溶接技術を披露してみせたり、それこそ『人間式』の行動を真似るのは俺よりずっと上手かった。こう言うと妙だが、やつはアンドロイドのくせに人間より人間らしかった。

 やつは頭の中から言葉をうまく引っ張り出そうとするように、非常にゆっくりと言った。

「でもその代わりに、俺は人間が口にするような感覚的観念をはっきりと知覚できる。分かるかい、キム、感じるってことさ。理屈じゃない、これは観念なんだよ……俺は別に、お前のふぞろいの脚を不整合的だとは思わないね、ただ……適当な言葉が見つからないだけで。俺に言わせれば、それこそ『芸術的』なんだ」

 そう言いながらやつは、困ったようにステンレスの指で何度も下顎を叩いた。あいにく記憶領域に不備のない俺には、やつの言う『芸術的』の観念が俺にはよく分からなかった……俺はやつのように輸送船に乗せられることもなく、製造されてすぐ『ドン・ジュアン・ロジスティクス』の巨大倉庫で注文商品のピックアップをやり続けていたから。倉庫の中にいたのは無数のPP・100、俺もその中の一体。ゲーム用コンピュータ、バナナ、ゴムのアヒルを無数の棚から取り出して……梱包して……ベルトコンベアーに乗せる。三百六十五日、毎日だ。そんな俺がどうして倉庫を抜け出そうと思ったのか、今になって考えてみてもよく分からない。フィッツジェラルドの言葉を借りるなら、それこそ『魔が差した』ってやつだ。よく考えればおかしな話だ、どうしてアンドロイドである俺たちが『人間的』な感覚を互いに共有できるんだろう?

 いくら考えてみたところで、疑問の答えはデータバンクにはない。俺と同じように物思いにふけっているフィッツジェラルドに、俺はおどけた声を掛けてみせた。

「それじゃあ、フィッツ、俺のこの姿を見てお前は具体的にどう感じたんだ?『芸術的だ』以外にさ。ああ、気を悪くしないでくれよ、見た目の問題は俺のせいなんだからな。脚の性能は文句のつけようがないんだ……ただ、左脚以外がまるで型落ちしているだけで」

 キムはしばらく俺を見つめていたが、やがて肩をすくめると投げ出すように言った。

「いや、笑われるよ」

「笑いやしないって、フィッツ、教えてくれよ。お前はどう感じた? ほら、左脚だけなら俺も『プラム・バンカー』の仲間入りさ。御主人様、ご用命は? 私どもに最高のおもてなしをさせてくださいませ、御主人様」

「やめろって、キム、そのボイスデータはどこから取ってきたんだよ」

「おや、お気に召しませんか、御主人様?」

 俺のからかいに笑いを隠せなくなったのか、やつの肩が小刻みに震え始めた。やがて俺たちは、固い床の上で狂ったように笑い転げ、拾ってきたボルトを床じゅうにばらまきながら踊り回った。ボウ・ライトの明るいオレンジ光を受けたボルトが一等星のようにきらめきながら、さかんにぶつかり合って音をたてる……カチ、カチ、カチ。太陽系トップシンガー『ブライトネス・サラ・マリーン』のヴァーチャル・コンサートや、日がな一日ダンスパーティーを繰り広げるVIP客専用のダンス・ホールも、これほどきらびやかで、素晴らしい眺めじゃなかったはずだ。俺たちは長いこと、そうしてじゃれ合っていた。たまらなく愉快な、製造されてこのかた感じたこともないほど愉快な気持ち。俺がそう言うとやつは、それが感じるってことさ、とにっこり笑って応えてみせた。


 どれくらい経っただろうか。俺たちは床の上に寝そべりながら、ダクトパイプや配線が蜘蛛の巣のように絡み合っている天井を眺めていた。少し前までは気を滅入らせるだけだったこの眺めが、今では俺をしきりに手招きしている……半年前、脚を滑らせてしまったエンジンルームを通って、今度こそパブリックフロアのクロークへ忍び込めたら……乗客が持っている最新型のハンディフォンがいくつも手に入るだろうし、その内部メモリに保存されているデジタルキーをうまく抜くことができれば、鼻持ちならないVIPフロアの連中がたむろするスイートルームへも忍び込めるかもしれない。大した利益ではあるが、それ以上に、あの高慢ちきな『ミートアーマー』——資本主義の奴隷たる愚かな人間どもを俺たちはこう呼ぶ——を痛い目に遭わせてやれると考えるだけで俺のエンジンコアが赤く沸き立つようだった。そうだ、もう一度。今の俺とやつなら、どんな事でもできそうだった。

「なあ、フィッツ」

 そこまで考えたところで、俺は隣で寝転がっているフィッツジェラルドに声をかけた。やつも俺と同じことを考えていたようで、俺が目を向けた時には、やつはすでに腕に取り付けたハッキングモジュールの具合を確かめているところだった。予定では、今日一日のパブリックフロアの天候は『雨』に設定されているはずで、こういう天候の日には決まって清掃用ロボットが濡れたゴミをノズルに詰まらせる……すると『グラン・バトラー』の仕事もそれだけ増える。莫大なコストと利便性を度外視してまで船内をかつての地球環境に似せようとするのが『人類史最高のおもてなし』なんだろうか? しかしそんなことより、悪天候の日には船内警備が手薄になるという事実の方が俺たちにとっては重要だった。やつは立ち上がると、その場で軽く伸びをした。

「行けそうか、フィッツ?」

「ああ、具合はだいぶいいよ。こないだ保管庫から持ってきたプルーフ・グリスがあっただろう、出かける前にお前も塗り直しておけよ。どうやら『プラム・バンカー』が使ってるのと同じやつだぞ、こんなに高品質なら、やつらがいくら雨に打たれても平気なはずだ」

「これで俺の左脚だけはあいつらとすっかり同じってわけだ。やつらの個体識別機能が、俺の左脚にだけ働いてくれたらいいのに」

 なめらかなプルーフ・グリスを体中に塗り込み——左脚にはことに入念に塗った——ブースト用バッテリーの容量を確かめると、準備はすっかり整った。時刻は午前十一時……あと四分二十八秒で、パブリックフロアに雨が降り始める。俺たちは目配せしあうと、天井近くでぽっかり口を開けているダクトに飛びつき、銀色に輝くトンネルの中へ這い込んでいった。通気ダクトの中は冷えて、ゆるく流れる空気に混じって青い草の香りが漂っていた。船内の環境担当アンドロイドが空気中に混ぜる香気成分だ、どうやらかつての地球では草原に雨が降るとこんな香りがしたらしい。

「フィッツ、お前は地球へ行ってみたいと思うか?」

 俺は目の前をごそごそと這いずっているやつに話しかけた。

「こんな風に雨が降って、濡れた草の匂いがする。朝には太陽が昇って、夜はその代わりに月が……知ってるか?乗客用パンフレットによれば、この船の中に再現されている地球環境はおおよそ二百年前のものらしい。やつらがそれを維持するためだけに膨大な量の資源を消費してるっていうのが、俺にはどうも納得できないがな。フィッツ、地球っていうのはそれほど居心地のいい環境だと思うかい?」

「お前はどう思う、キム?」

 やつの声は、思いがけず張り詰めたように聞こえた。何か気に障るようなことを言ってしまったのかと思ったが、どうやら単にダクトが声を反響させているだけらしい。やつは匍匐前進を続けながら、ぶつぶつと呟くように言った。

「俺に言わせりゃ、地球なんてとこは二百年前も今も大して変わりはしないさ。ただちょっぴり気温が上がりすぎたのと、いろんなウイルスが増えすぎたってだけで、そりゃあ昔に比べたら過酷な環境になっちまったかもしれないけれど、だからってかつての地球が唯一無二の素晴らしい理想郷だったとは俺には考えられないね」

「へえ、見てきたように言うじゃないか。俺でさえ地球の情報はデータバンクから持ってきたものしか知らないのに。どうしてそう判断できるんだ?」

「分かりきったことだからさ……それならお前は、どうして人間が母なる地球を捨てたのか合理的に説明できるっていうのか?分かるだろう、キム、元から地球なんて大した場所じゃなかったんだ……自然災害も、争いも……自分の子供を支えきれなくなった、ちっぽけな惑星……やがて食い潰されて……失ったものにことさら価値を求めるのは人間の得意技だ、違うか?あいつらはこの船の中で、二百年前の夢を都合よく見続けてるのさ」

 やつの言い草はいささか『人間的』すぎるように感じられたたので、俺はひそかに警戒していた……俺たちに標準搭載されているエモレーター感情模倣機能は『人間とのきめ細やかなコミュニケーションを実現するために欠かせない次世代的機能』らしいが、あまりやりすぎると論理的な思考能力が損なわれる。やつがよく使う『人間的』な言動は俺が絶対に真似できないものの一つだが、裏を返せばそれだけやつの思考制御機能の損傷は激しくなっている。俺が言えた立場ではないが、長年使い潰されてきたフィッツジェラルドのメインコンピュータには明らかにガタが——おそらく致命的なものが——出始めていた。そしてそれは、多分、俺も同じだ。

「分かった、すまなかった。話題を変えよう、外の様子はどうだい?そうだな、No.513の監視カメラをちょっと覗いてくれないか」

 俺の腕にもやつのと同じハッキングモジュールが取り付けられていたが、俺はあえてやつに監視カメラのハッキングを頼んだ。その方がやつの気をうまく逸らせると思った……そしてそれは、まったく俺の予想通りだった。新たな仕事を頼まれたフィッツジェラルドは、先ほどの苛立ちが嘘だったかのように嬉々として作業に取り掛かり始めた。

「そら、見てみろよ、キム。外はすっかり雨だぜ」

 監視カメラからの視覚情報をやつがオンライン同期させると、すぐに俺の視界にも色鮮やかな映像が現れてきた。はるか天井の降水孔から降り注ぐやわらかな雨で一面けぶったように見える、昼前のセントラルフロア。若草色の芝生が敷き詰められたサニー・パークでは『グラン・バトラー』どもがせっせと芝刈りに勤しんでいる……そこから道一本隔てて広がっているのは、色とりどりの屋根を綺麗に並べているコンパクト住宅の数々……あれが『一等客室』だ。船のはるか高みに取り付けられた監視カメラは、ヘリブレラ傘コプターを頭上に浮かせながら優雅に昼前の散歩を楽しむミート・アーマーどもの姿をしっかりと捉えていた。たかだか一億ヘクタールの箱庭になけなしの草花を植え、空から浄化水を降らせただけのはりぼての地球……こんなものを維持するためだけに、俺とその仲間は毎秒単位で使い潰されてゆく。データを同期したせいで、俺もやつの『人間的』な思考に影響されているのだろうか? ややシニカルな気分でその光景を眺めている俺の思考を読み取ったのか、今度はフィッツジェラルドが声を上げる番だった。

「仕事にかかるには申し分ないな。あと三十メートル進んだら六番ダクトからクロークの裏手へ出られるぞ、キム。今日こそやつらの鼻をあかしてやろうぜ」

 俺はそれに応じてカメラとの同期をオフにした。かりそめの自由を謳歌する富裕層どもの姿は、あまり見ていて気分のいい光景ではない。しばらくダクトを這い進んだところで、どこからか腹の底を震わせるような低音が轟いてきた。ヴゥゥーム……しばらくしてまた一度、そのあと続けて三回。そしてすぐ、静かになった。

「キム、なんの音だ?」

「船がガス塊の中にでも突っ込んだんだろう」

 不安がるフィッツジェラルドに、俺はそう言ってみせた。真偽は定かではない……実際のところ、データベースに記録のない音の正体なんて俺たちアンドロイドの知ったことじゃない。


 結論から言うと、計画は半分成功した。俺たちはダクトを通り抜け、裏手からクロークへ忍び込み、セントラルシステムへの通報機能を備えた警備ドロイドを何体か黙らせる・・・・と、首尾よくいくつかのハンディフォンを手に入れた……まったく計画通りに。もし俺が行きがけに聞いた音の正体に気づいていたなら、俺たちは手ぶらで船倉へ引き返すことになっただろう。『人間風』に言うならこうだ——命あっての物種だ、と。

「フィッツ、フィッツ、しっかりするんだ、頼むから眠っちゃだめだ。歩いてくれ、歩き続けてくれ、頼むよ、お願いだ」

 俺はあちこちから火花を飛ばしているフィッツジェラルドに肩を貸しながら、クローク裏手の配電エリアをあてどもなくさまよっていた。外からは様々な叫び声が聞こえる……やがて、けたたましい非常アラーム音と共に合成音声の船内放送が始まった。

『ご乗船のお客様にお伝えいたします。ただいま当旅客船では、準矮星フレアの直撃による電磁波異常に伴い、一時的なシステム障害が発生しております。セントラルフロアへお越しのお客様は、すみやかに客室へお戻りください。お手持ちの電子機器に異常が発生した場合は、すぐに電源を切り、お近くの絶縁ロッカーへ保管してください。繰り返しお伝えします。ただいま当旅客機では、準矮星フレアの直撃による……』

 船の異変に気づいたのは、ちょうどやつがマルチパックにありったけのハンディフォンを詰め込んでいた時だった。本命であるハンディフォンの確保はやつに任せて、俺は身体の修理に使えそうながらくたを漁りながらクロークを物色していたのだ。突然、行きに聞いたのよりもずっとひどいノイズと共に、船内照明が一斉に落ちた。厚い雲の上で輝いていたはずの人工太陽さえも暗闇に沈み、船内は一瞬、不気味な静寂に満ちた。

 次の瞬間だった。フィッツジェラルドの全身が、花火のようにスパークしたのは。

「フィッツ!」

 俺の目の前で、やつは棒付き花火のように燃え上がった……くそったれのグリスのせいだ、俺は自分にも同じものを塗りたくったことも忘れてやつの身体からマルチパックを引き剥がした。中のハンディフォンはすっかり融けて黒い煙を吐き出していたが、やつの状態はもっと深刻だった。巨大な電子レンジに頭から食いつかれたようなものだ、莫大な負荷によって生まれた電磁波の牙は一瞬のうちにやつの主要な配線をことごとく引き裂いてしまっていた。追加の警備ドロイドがクロークに駆けつけなかったのは不幸中の幸いかもしれない……実際、あの大惨事の中では俺たちの盗みをとがめるものなど誰もいなかったろう。

 クロークの外はまるで地獄のようだった。降り注ぐ雨は沸騰し、悲鳴を上げる火だるまが——人間だろうか、それともアンドロイド——逃げ回る人々の中へ突っ込んでいってはさらに火だるまが増える。落ち着いて行動するようにと『グラン・バトラー』がさかんに呼びかけるが、未曾有の大惨事を前にしてそんな常套句に耳を貸す乗客は誰もいなかった。船内にいるものは誰一人の例外なく、おそろしい錯乱状態に陥っていた。

「内部コアに——異常——発生しています。致命的な————恐れが——データのバックアップを——」

 振り返ると、やつはクロークの床に横たわったまま無機質なエラーメッセージを繰り返していた。やつがいつも口にしていた『人間風』の言葉とはかけ離れた、アンドロイドとしての最後の言葉……俺はやつの身体を無理やり立たせると、互いに支え合うようにしながら裏手の配電エリアへと逃げ込んだ。いつまた船にフレアが直撃するかは分からなかったが、この身体で熱湯の雨に打たれたらそれこそ俺たちはおしまいだ。セントラルフロアから響いてくる無数の叫び声を聞きながら、俺たちはたった二人で、入り組んだケーブルの隙間や巨大なファンの横をひたすら歩いていく方を選んだ。フィッツ、フィッツ、フィッツ……俺はひたすらやつの名を呼び、そのたびにやつは無機質な自動メッセージで応答した。俺が肩に支えているものがもう俺の知っているフィッツジェラルドではなくなったとしても、俺はやつの身体を燃え盛るクロークへ置き去りにしていくことなどできなかった。

「フィッツ、大丈夫だ。なあ、もう少し歩けばきっと開けた場所に出る、そうしたら内部コアの状態を見てやれるから。大した事ないだろう、高伝導の素材さえあれば配線不良なんてすぐに直してやる……ミート・アーマーどもは大抵そういう装飾品を持ってるんだ、金とか銀とか……言ってたろう、フィッツ、貴金属を宝飾品として重用する文化なんてものは前時代の遺物だって……俺たちが盗み出した方が、よっぽど素材として有効活用できるって。そう言って笑ってたじゃないか、フィッツ」

「データの————アップを——もなく削除され——」

 やつの身体はますます重くなっていくようだった。一足ごとに、やつの身体から力が抜けていくのが分かった……俺の身体からも。それでも俺たちは立ち止まるわけにはいかなかった、無理やりにでも自分を稼動させ続けることが自分を保つ唯一の方法だったのだ。もはや引きずるように動かしていた俺の左足首に、なにか細いチェーンのようなものが絡まる気配がした。ケーブルの類ではない……注意深く拾い上げてみると、それは三センチほど、純金製の小さなロケットだった。上階で富裕層が落としたらしい、前時代の遺物……ロケットとしての価値よりも、俺は素材の方に心を奪われていた。純金! 願ってもない幸運だった。こいつをうまく使えば、フィッツジェラルドを蝕む致命的な損傷をいくらか抑えられるかもしれない。二度とやつが元に戻らないとしても、構いやしなかった。俺はやつの面影を少しでも長くこの場に留めておきたかったのだ。俺はもう見えているかも分からないやつの目の前に、金のロケットをかざしてみせた。

「見えるか、フィッツ、金だ! 本物の金が落ちてたんだぞ、これで直るんだ、あと少しだけ歩いたらお前を直してやれる! だからもうちょっとだけ辛抱してくれ、フィッツ、眠ったらだめだ」

「——損傷が————ぐに電源を————してくだ——」

 やつの目がロケットを捉えた……やつの胸のステータスランプが、かすかにまたたいた。

「————クロエ————」

 俺の聞き違いだったろうか? いや、やつは確かにそう言った。やつは長い眠りからやっと目覚めたかのように手を伸ばすと、オイルでべとべとに濡れた指でロケットをなぞった。ロケットの蓋が開き、その中にしまわれていたのは、古ぼけた写真の切り抜きだった……穏やかな笑みを浮かべている、上品な老婆。蓋には『我が妻、クロエ・フラナガン』と彫られている……その瞬間だった、やつは先ほどまでの様子が悪い冗談であったかのように、すごい力で俺の手からロケットをひったくると、『人間式』の声色で……いや、それはもはや『人間そのもの』だった。やつはすっかり錯乱した様子で泣き喚き始めた。

「おお、畜生、神様……クロエ、どうしてここに? 俺の娘……ああ、ああ、なんて事だ!俺は……俺の手は、身体は、どうなっちまったんだ? 畜生、くそったれ、俺は……俺は……頼む、許してくれ、どうしてこんな事に……」

 正気を取り戻したらしいやつの様子を、俺は喜ぶべきなのだろうか?大声で泣き喚くフィッツジェラルドを前に、俺は形容しがたい困惑が広がっていくのを感じていた。一体どうしたっていうんだ? 声を限りに泣き喚くやつの様子は、まるで……人間がアンドロイドの皮を被っているようじゃないか。俺の視線に気付いたのか、やつはロケットからゆっくりと視線を外すと、半ば融けかけた目で俺を見た。

「キム、頼むよ、後生だ。放っておいてくれ、俺はもうこれ以上生きたいと思えない……分かってしまったんだ、全て、お前も勘づいていただろう?」

「フィッツ、どうしたんだ?何を言って……」

「バカな事をしていたんだ、俺たちは。最後の制御機能がイカれてくれたおかげでようやく分かった、俺も……お前も、『プラム・バンカー』も、中身はあの高慢ちきな肉被り共と一緒さ! 俺は耐えられない、こんな、おぞましい……あんなに老いぼれた俺の娘……まだ小さかったのに、クロエ、俺が収監された時はほんの二才だったんだ……畜生、人を殺してしまったからってこんな仕打ちはあるか?俺のこの金属の身体はなんだ? 俺の生身の身体は、小さなクロエの頭を撫でてやっていた俺の腕は、一体どこへ行ったんだ?ああ、神様、今すぐ俺を殺してくれ!」

 俺は、やつがすっかり正気を失ったのだと判断した。いや、判断したつもりだった。それなのに俺の身体は、絡み合うコードの隙間に足を取られでもしたかのようにすっかり固まって動かなかった。理解できない……理解してはいけない、と俺の制御機能がさかんにアラームを発している。しかし、と俺の中で別の声がした。やつは今なんと言った? 俺たちの中身が、あの肉被りと同じ? その瞬間、俺の記憶領域が唐突にフラッシュバックした。手錠をはめられた、生身の腕……ベッドに寝かされた俺を見下ろす、手術服の男たち……額にメスが突き立てられる、生々しい感触……決して覗いてはいけなかった記憶。やつの『人間式』の言動が、イカれたエモレーター機能のせいではないとしたら、つまり、俺たちの中身は……そこまで考えたところで、俺は急激な吐き気に襲われた。ありもしない胃からあらゆる吐瀉物をぶちまけたくなるような、強烈な吐き気……いくらえづいてみたところで腹の中からはネジ一本出てきやしない、当然だ。俺たちは然るべき素材によって工業生産・・・・・・・・・・・・・・されたアンドロイド・・・・・・・・・なのだから、そうだろう?

「ああ、よかった、見つけた。君たち、それを……ロケットを返してくれないか?探してたんだ」

 俺たちの頭上から神経を逆撫でさせるような声が聞こえてきたのはその時で、見上げると排気ダクトから一体のアンドロイドが顔を覗かせているところだった。標準規格の俺たちとは似ても似つかない、せいぜい子供が週末にこしらえたようなバケツ頭のハンドメイド品……『ボーキー・ブープくず鉄おちび』の一体だ。俺の足元にうずくまったまますすり泣いているフィッツジェラルドの事など見えていないかのように、そいつはダクトから飛び降りるともう一度同じ言葉を繰り返した。

「ロケットを返してくれないか? 探してたんだ」

「失せな、ボーキー・ブープ」

 俺の人造声帯から、思いがけず冷酷な声が出た。こいつがどこからどうやってクローク裏まで来たのか知らないが、出来損ないの遊びに付き合ってやれるほど今の俺には余裕がない。しかしボーキー・ブープは俺の態度になど全く無頓着な様子で——どうやらエモレーターも搭載されていないらしい——俺を苛立たせる例のセリフを繰り返した。

「そのロケットを、返すんだ。いいかい、それは君たちが考えているように融かして修理に使うためのものじゃないんだ……この旅客船の代理責任者が探してる、表の惨状は君たちも見ただろう。船のセントラルシステムが暴走してるんだ、緊急停止させるための非常用コードがロケットの裏に……」

「ハ、ハ、ハ! たかだか鉄くずのオモチャが、どうしてそんな事を知ってるっていうんだ? この船のパイロットか何かのつもりか? いいか、俺たちには子供のごっこ遊びをしている暇はないんだ。足元のこいつが見えないのか?今にも機能停止しかけてる……俺の、たった一人の親友なんだ! 分かったら俺がその小さな電子頭脳を黙らせる前に、さっさとそのダクトから消えちまえ!」

 俺は怒りに任せて腕のハッキングモジュールを起動させた。クロークにたむろしていた警備ドロイドどもをそうしたように、簡単な配線くらいなら簡単に焼き切ってしまえる……ましてや出来損ないのボーキー・ブープなどものの数ではない。しかしそいつは逃げようともせず、一つきりのレンズで俺の顔を眺めているままだった。

「馬鹿だな。この船がおじゃんになったら君もそいつも助からないじゃないか、それに見たところそいつは……悪いけど、もう手遅れのようだよ。僕だってこんな地獄で死にたくはないんだ、いいからそいつを渡してくれ」

 明らかに苛立った様子のボーキー・ブープがやつに駆け寄る前に、俺はうずくまるやつの手からロケットをもぎ取った。ああ……違う、俺はただ、あいつを守りたかったんだ。素性もわからないアンドロイドに俺たちの命綱を渡すわけにはいかないと、ただそれだけだった。

「何をするんだ⁉︎ やめてくれ、これ以上俺からクロエを奪わないでくれ!」

 オイルまみれの手からロケットを取るなり、やつは人が変わったように怒鳴りながら俺に掴みかかってきた。とっさの事で、俺は対処ができなかった……俺の手から滑り落ちたロケットを追って、やつは身体中から火花を散らせながら高電圧コードの束の中に潜り込もうとした。

「やめろ、フィッツ——」

 ジェラルド、と俺が叫んだ時には、やつの全身はニューイヤー・パーティーの花火のように、すさまじい量の火花を撒き散らしながら燃え上がっていた。アンドロイドである俺たちにとっての死がどういうものかは知らないが、やつを構成する全てが取り返しのきかないまでに破壊され尽くす事を死と定義するのなら——間違いなくあの瞬間に、愛すべき俺の親友、フィッツジェラルドは死んだ。

「ああ……そんな、違う、違う、俺は……そんなはずじゃ……」

 呆然と立ちすくむ俺の前で、やつの身体ががらくたのように燃えていく。その様子に気を取られていたせいで、俺は船の内壁が想像よりずっともろくなっている事に気づけなかった。クソ、クソ、クソ……あのいまいましい準矮星フレアは、船の内側だけでなく外側までを、もはや手の施しようがないまでに引き裂いていったらしい。轟音と共に壁が真空に吸い出され、燃え盛るやつの身体が、絡まり合ったコードの塊が、そして俺の身体が……無数の鉄くずと共に、宇宙空間へ一斉にばら撒かれた。抗うことなどできなかった、俺たちはがらんどうの宇宙へゴミのように投げ出されたのだ。くそったれのボーキー・ブープは……どこにもいない……いち早く危険を察知して逃げたらしい……クソッタレ……かがり火のように燃えている、やつの明かりが遠くなる……泳いで追いかけることなど出来やしなかった……フィッツ……。


 ……俺のことを船から吸い出された遭難者、あるいは比較的損傷の少ないジャンク品だとでも思ったのなら、申し訳ないが俺はあんたの期待を裏切ったことになる。俺がかつて誰で、どこで何をしていたのか、それは今も分からないが、少なくとも今の俺は……アンドロイドは人間ではない。それに、俺の身体の損傷はもはや手の打ちようがない……ジャンクどころか、鉄くずとしての価値すらないだろう。それでもたった一つ、このボイスレコーダーが無事だったのなら、それはきっと神が与えたもうた最後の望みだ。

 もしこれを聴いているのが俺と同じアンドロイドなら、誰でもいい、やつのために祈ってほしい。俺たちが元は人間なのだとしたら……人間の被造物である俺たちにも、神に祈る権利はある。

 もし、あんたが人間なら……。


 どうか俺たちを放っておいてくれ。俺は少し、喋り疲れたんだ。

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……そしてあなたは、再生ボタンから指を離した…… 江古田煩人 @EgotaBonjin

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