妖人往時譚

朝殻眠衣

妖人往時譚

 まず彼、丁怪ていかいが断っておきたかったのは、彼が地位や名声のために大会に参加を表明したわけではないということだ。

 そもそも彼は争いを嫌ったし、取り決まったルールや、明確な理由があるにしても、やはり自らの内側で暴力を正当化するには、理由付けとしていささか弱いような気がしていた。

 その大会、『万状古格闘乱』は格式高いものだった。歴史を見ても、規模を見ても、比肩するものはない。そして優勝の商品や、賞金だって他の追随を許さなほど凄まじい。何よりその大会を制したという名誉は、たとえいくら金を積んでも買うことのできないような価値を持っている。一生安泰と言う言葉だけでは収まりきらない。末代まで称えられるほどの輝きがそこにはある。

 それを求めて、多種多様な種族の強者たちが集う。

 ただ彼も別に無欲というわけではなかった。腹は旨い食べ物を欲しているし、一日の終わりにはまとまった時間の睡眠が必要である。出来れば美しい女がいればいいのにとも思うし、金などとはいくらあったとしても困らない。人並みの欲求は、彼の中でしっかりと幅を持たせていた。

 ただ此度の大会に先立って、優勝商品のひとつが発表された。それは山の奥で籠もっている彼の耳にも届くほど、世間を賑わせていた。

 名刀『赫洩かくろう』そして鞘の『涅籠くりかご』がその商品だった。

 それらは世間にも名が通っていたし、やはり五年に一度行われるこの大会の名にも相応しいと誰もが思う物である。

 ただ彼には、単純な高価さや歴史では測れない心持ちがあった。それらは自分の先祖、いったいどれほどまで遡るのか、随分と前に死んだ父に聞いたような気がするが、どうも覚えていない。しかしそれをまた我々が持つということに意味があると、父は言っていた。

 とはいえ、その頃には『赫洩』と『涅籠』は自分からははるか遠いところにあった。手に入れるには骨が折れそうだった。不可能かもしれなかった。

 そんなときだった。これは間違いない好機であった。何者か高位な存在による、粋な計らいかもしれない。彼はそんなことさえ思った。

 そして彼は久々に森を降りて、その大会にエントリーした。同時に多くの者が何か巨大なものを求めてエントリーしていた。そのなかには正気なものもいたが、半ば狂気に飲まれてしまっている者もいた。そんな光景が彼には物珍しく、どこか新鮮で可笑しかった。

 それから森に戻って、その日までの間、久方ぶりの鍛錬に勤しんだ。心を正常に保って、いつにも増して公明正大に日々を送った。畑作業も中断したし、読みかけの小説も一旦本棚に仕舞った。そしてあらゆる不善なことを控えた。意味があるないにかかわらず、都合の良い願掛けのようなものだった。

 その日は半年後であった。その日まで彼は鈍った腕を磨き続けた。それは確かな価値のある行為であった。

 その日は朝露が葉の上で、奇妙なバランスで留まっていた。いつしか落ちるかと思われたが、いつになっても落ちなかったために、彼はわざわざ指で葉を弾いた。すると水が飛んだ。そんな朝肌寒い朝であった。

 あれから半月も経ったのかと思い返しながら、彼は支度を始めた。と言っても昨晩に大方のことは済ましてえあるため、残りは点検くらいなものだったし、なくて困る物などそうはない。

 シャツを着てジーンズを履いて、父から譲り受けたえんじ色のコートを着て、荷を詰めたリュックを背負って、刀をまるで傘のように手に下げて家を出た。まだ霧が深く、先が見渡せなかった。

 霧が晴れた後も、その灰色を吸ったような厚い雲が、次から次へと彼の頭上を通って行った。この様子だと一雨来そうだと思ったが、しかし傘を持ってはいない。嵩張るものは極力省いたのだ。最悪あめに打たれればいい。

 律儀に登山道を下っているにもかかわらず、誰一人としてすれ違うことはなかった。天候のせいもあるだろうが、この山には昔から悪い妖怪が出ると噂があった。かなり洪大な山だ。偶然迷い込んだということもあるだろうが、現状住み着いているという事実はないことを彼は知っていた。

 観光客がよく来てうるさくなるのも癪だが、しかしここまで物静かで人気がないと、まるで自分が自然のつくり出した檻に閉じ込められているようで気が滅入ってしまう。

 普段ならこんなことは思わないのであろうが、半月前に街に降りたときに目にした活気がそうさせるのだ。孤独などとは無縁であると思っていた彼には、かなり意外な発見であった。


 山間にひっそりと存在する村を横目に登山道を降りる最中も晴空は顔を隠していた。そのひっそりと村では、ひとっこ一人いないような状態であった。木枯らしが吹くばかりで、色気の感じられない村である。

 屋根の色は雲を映したように灰色だし、道路もそうだ。田畑も影が落ちて生の息吹きが感じられない。そして青さが感じられない。やはり冬というのは生を奪うのだと、彼は思った。

 山道の出口(あるいは入口)には鳥居がある。かつては華麗な真紅を誇っていたのだろうが、今では全体を薄い黒が覆って燻んでしまっている。

 そこを潜れば、街に出る。湊町『縷縷海るるかい』という。全国津々浦々の街から大会の会場である島への船が出ている。街はお祭り騒ぎで浮き足立っていた。人々は皆外へ出て、港の方に集まっている。

 名の通った者が通れば、やはり湧き立つし、そうでなくともある程度は熱がこみ上げていた。

 彼は無名であったが、それなりに雰囲気を感じ取ったのか、人々は揃って声をあげた。地に降りた者や店の軒先で物を売る者、家の窓から声を上げる者もいた。街がひとつの情緒となっているようだった。

 港には一人乗りの木の船がいくつも停泊していた。その上で駄弁る男たちがいた。彼はそのひとつを呼んで、エントリーの際に貰った札を見せて乗り込んだ。すると男はゆったりと船を漕ぎはじめた。

 海上はさらに冷えた。波は若干荒れているが、航海にはさして影響はないようだった。

「わざわざ漕ぐ必要はあるのかね?」彼は訪ねた。

「ええ、習わしでしてね。ずっと昔から参加者を運ぶ際は、このように人力で運ぶことになっているのです。大変疲れるのですがねえ」

 そういう男の声に、全く息切れが含まれていなかった。彼もそこまで詳しく観察したわけではないが、船上で待機していた男たちは、どれも並大抵でないことは知っている。

「して、今大会は誰が優勝するでしょうねえ?」男は続け様に言った。

「私だろうな」彼は言い切った。

「はは、それは頼もしい。しかし油断はなさらないように。皆あなた様のような腕に自負のある者ばかりです。その中には根拠のある者と、根拠のない者がいます。強者か、無鉄砲か。あるいは武士は食わねど高楊枝といった具合の者もいるやもしれません。とはいえあなた様はかなりの手練であるようだ。私の目に狂いはありません。いいところまで行きましょう。私の経験が保証しましょう」

「それはありがたい。実のところ、この大会に参加するのは初めてでね。いったいどのような具合か知りたいんだ。もう少し詳しく教えてくれないか」

「いいですとも。ここで巡り合ったのも何かのご縁。仏の導きに他ならない。なんなりと答えましょう」

「まず参加者はどのくらいだ?」

「だいたい百人程度といったところでしょうか。毎年ばらつきはありますが、おおよそはそれくらいです。なんて言ったって、危険ですからね」

「ああよく死人が出ると聞くな」

「ええ。毎年百人のうち大多数は身体に大きな怪我を受けます。そのうち三十人は取り返しのつかないような惨事に見舞われ、いずれ死に至る者が半数といったところでしょうか」と残酷なまでの口調だった。 

「前回はどうなったんだ?」

「前は仙人と名乗る老人が優勝して、相当量の賞金と名のある武具を得たのですが、しかしその後の消息を経ったのです。おそらくはそういった俗世の一切に関心がなかったのでしょうな」

「それは人間か?」

「ええおそらくはそうかと」

 彼はただの人間というのは脆いものだという認識だ他種族の血が混ざっているならばあるいは勝つ可能性はあるが。しかし男は人間と言った。何かそこに絡繰りがあるのだと彼は推測した。

「さて、見えてきましたね。あれが今回の決戦の地、名も無き無人の島でございます」

 遠目に緑亀かあるいはワニのような島が現れた。まだ遠く全貌は伺えない。しかしかなり洪大な島であることは間違いなかった。

 海岸の先、あるところから丁寧に石畳が敷かれ、枝垂柳がアーチを作る道途があった。それに沿って進むと、蓮の浮かぶ池の奥、橋を渡った先に豪勢な外観を呈した宿がそびえ建っていた。

 窓がいくつもこちらを向いてついている。歴史薫る木造の建物と瓦屋根が、厳かな雰囲気を醸し出している。入ることに抵抗を覚えるほど、そこに染み付いた匂いは独特なものだった。

 受付には女性が着物に身を包んだ女性がひとり、何かを勘定していたが、彼の姿を見るとそれをやめた。

 

「お名前は?」女は見上げてそう言った。

「丁怪」あまりの静けさに声が響いたため、彼の声は尻下がりに声が小さくなった。

「はい。確認できました。今回が初めてのご参加ですね?」

「ええ」

「では右手の廊下を進んで一番奥の部屋をお使いください」そう言って女は鍵を手渡した。

「ありがとう」

 

 部屋は至って普通に見えた。六畳ほどの主室があって床の間がある。向こうには広縁があり、机とふたつの椅子が置かれている。

 彼はそこにリュックと刀を置いて、主室の座椅子に腰を下ろした。

 まさかここまで丁重に扱われるとは思っても見なかった。さすが伝統や歴史というものはそれなりに敬うべきものだと彼は再認識した。

 そうして何をするでもなく、掛け軸の何かしらの花を見ながら過ごしていると、扉の向こう廊下が軋む音がして、隣の部屋の扉がどだん、と閉められた。随分せっかちな者だと穏健な心のまま思った。

 その晩に風呂に行った。偶然誰も入っていなかったために貸し切りだった。それから出された飯(魚を主としたものだった)を食べ、早々と明かりを消して、布団に潜り込んで眠った。窓の外に月は見えないままその日は終わりを告げた。


 明くる日、目が覚めてもまだ窓の外は暗いままであった。布団を出ると、ひんやりとした空気が露出した部分を冷やした。

 窓を開けて天候をうかがうが、雨の気配は見られなかったが、晴わたる気配も感じられない。昨日から地続きの曇り空が、今日も続くのだと丁怪は思った。

 それから朝食と同時に女中が木の箱を持ってきた。一枚引けと言われ、丸口の穴に手を入れいると紙があって、八十二と記されてあった。

「はい。ではトーナメント表に記入させていただきますね。大会は明日から始まりますが、おそらく八十番台ですと一週間はかかるでしょうから、観戦いただくのもいいですし、ここでゆったりとしていただいてもいいです」

「わかった」

 それだけ言うと女中は出て行った。朝は舌に優しい薄味の献立であった。それをゆっくり食べて、窓を開けて外を見た。若干陽光が池の水面を照らしていた。静寂に満ちた朝だ。

 その背後で勢いよく扉を開き、木の廊下を乱暴に踏み締める音がした。またもやせっかちな者だと彼は思った。

 直後、池にかかる橋を忙しなく渡る女の姿を見た。結った長髪を揺らしながら枝垂柳の方へと消えて行った。まだ寒いというのにかなりの薄手であった。丁怪は訝しんだ。不思議な隣人だ。

 それからしばらくは悠々自適な暮らしであった。従来の癖で早朝早くに起き、朝食をとって散歩に出掛けた。島はかなり広く、自然も充分に残存しているだめ、景色に飽きることはなかった。

 この旅館と同じ様相の建物がもうひとつ対岸の近くにあった。全く精巧なつくりで、いつの間に帰ったのかと驚いたが、辺りの景色が若干変容を見せていたため、別であると判断することができた。

 おそらく島の中心にはすり鉢の形をしたスタジアムがあった。そこで試合をしているときもあれば、そうでないときもあった。彼は度々立ち寄ろうかと思ったが、寸前でやめた。なんとなく公平でない気がしたから。

 そこでは日々轟音が静けさを顧みず響いている。鳥が飛び立って、虫が逃げているところを幾度も目にした。

 しかし逐一張り出されるトーナメント表には目を通していた。誰が勝って、誰が負けたではなく、自分の番を確認するためだった。女中は一週間と言っていたが、予想以上に早く進行しているのか、四日目にして六十番台の試合が催されていた。出番は時期であった。

 翌朝、目を開けてまもない頃に扉が叩かれた。

「丁怪さま。本日一回戦が行われます。準備が出来次第、武具だけを持って島中央にありますスタジアムまでお越しください」

 それだけを伝えると、音もなく消えて行った。

 ちらりと時計に目をやる。朝の六時前だ。空は暗いまま。まだ天気のほどは見えない。ただ窓を開けても、雨の香りはしない。晴れていればいいと彼は思う。

 今朝の朝食は肉を中心とした味付けの濃い献立であった。試合の日だらか特別なのだろうか。あるいは偶然かもしれないが、彼自身肉を好んでいたため都合が良かった。

 それから用意していた正装に着替えた。それは祖父が軍に所属していた際の軍服だ。それが巡り巡って彼の手にある。袴という選択肢もあったが、しかし先祖の忘れ物を取り返しにいくのだからこちらの方が一貫性がある。そう思って、わざわざ家中を探し回って、持参したのだ。

 統一された黒の上下と羽織る外套。割と簡素なつくりであると、まじまじと見て思う。遠い昔に作られたものだからだろうか。

 胸ポケットが二つと腰ポケットが二つ。下にもポケットが二つと尻ポケットが一つある。

 外套は灰色であった。これは軍服とは関係ないのだが、祖父は極度の寒がりであったため、おおよその場合これを羽織っていたのだ。

 その他装飾品の類が同じ箪笥に入っていたが、それは破損する可能性を考慮してよしておいた。

 それを着込んで、姿見で全体を見回すと、意外と様になっている。祖父の顔は遺影でいか見たことないが、しかし今では鏡を通してその幻影を見ることができる。

 それから刀を手に下げて宿を出た。

 晴渡った空が澄んでいた。良い塩梅の気温で、ちょうど小春くらいの肌触りであった。ちょうどスタジアムが眼前に迫ったとき、その内部から轟音が鳴った。同時に地面が身震いを起こして、それが体に伝播した。

 今までに聞いたことのない音であった。力を抑制できない愚か者か、あるいは優勝候補であるのか、今では判別できない。

 スタジアムの近くまで行くと、先ほど終えた試合の結果が記されているところだった。八十番井玲という者が勝ったようだ。この者があの音の主だと丁怪は記憶に留めておくことにした。

 それから相手を確認した。八十三番云々とある。一体どのような身なりをしているのか。彼はスタジアムに足を踏み入れた。

 音の割にスタジアムの土は平であった。何か事前に細工されているのだろう。彼は円形のフィールドを見回した。観客席にはちらほら姿が見られる。皆まばらに座って、今立つ両者を観察している。あるいは観覧している。

 丁怪の視線の先は直線状にいるずんぐりとした体躯の男だった。人か、妖怪か、あるいは他の種族である可能性も捨てきれない。が、如何なる相手であれども彼のやることは変わらない。

「兄ちゃん! 頑張れええ!」

 両者が体をほぐしている最中観客が叫んだ。丁怪に弟はいない。ゆえに相手である云々の弟(あるいはそれに似た関係性の者)が声を上げたのだ。そちらをちらりと窺うと、一際小さな体を反らせて、

「兄ちゃん頑張ってええ!」

 ともうひとつ叫んでいた。

 そのあまりのバランスの悪さに思わず吹き出しそうになった。

 しばらくして云々が丸太のような体毛の生えた短い腕を突き上げた。それは応援を口にした弟への意思表示である。

「では『万状古格闘乱』第一回戦、四十一試合、丁怪対云々の試合を開始致します!」

 そう言って銅鑼が鳴らされた。それと同じくして鳩が数羽スタジアム上空を飛び始めた。

 そんなことを観察しながら彼は刀を抜いた。鏡のような刀身が、スタジアムのあらゆる場所を我が身に映した。

 対して云々は得物の類を使わないようだった。

 彼はそれをあまりよくは思わなかった。武器を持っていれば、戦い方や戦術がおおよそ想像がつくが、素手だった場合はそうとはいかない。そして浮かび上がるあらゆる攻撃の可能性は脳を混雑させ、結果的にそれが後手に回ることに繋がる。

 銅鑼の音がまだ鳴り止まないまでに、両者がそれぞれ最も現状において適切だと導いた行動を起こす。

 丁怪は叫んだ。

咎祟狐きゅうすいぎつね!」

 銅鑼の音を飲み込んで彼の声がスタジアムに響く。それに呼応するように、彼の左手の鞘、刀が抜かれ残った暗闇の中から甲高い鳴き声がした。そして黒い魂が鞘から吹き出すと、地上で狐の形をとった。

 七つの尻尾を持つ、真黒な狐がスタジアムに現れた。

 それは彼が懐柔した妖怪であった。

 

 対して云々は両手を力強く合わせた。乾いた音が鳴った。丁怪の想像。何か想像だにしない力を秘めているのではないか。その答えは間違いであった。

 云々の唯一の長所はその力である。大抵のことはその力で片付いた。常人であれば彼に叩かれただけで絶命する。そうして多くの人々を虐げてきたが、彼としてもそれは本意ではなかった。

 その多くは正当防衛であったし、彼から望んで手を上げたことはない。かえって実弟であるかんぬんの方がすぐ頭に血が上って、喧嘩っ早い。彼はあくまでかんぬんの右腕に過ぎなかったのだ。

 今回もそうである。あくまで参加したわけはかんぬんに付き合わされたからというもの。

 つまり両者気が進まない形での一回戦となる。


 しかしここは真剣勝負の場。云々は狐の出現に驚きつつも、今までの経験則から自らの力は最も破壊に適していると知っている。

 故に臆することなく、自分の半分ほどしかない、狐に向かいちゃぶ台ほどの手のひらで張り手をくらわす。

 実態を模した咎祟狐は、云々の張り手を受け吹き飛んで、スタジアムの壁に激闘し、呻き声を漏らした。

 しかし着地した後は、平然と云々を(目はないが)睨み付けている。彼は混乱した。確かな手応えが手のひらに伝わっている。これを感じる時、相手は大抵ビクビクとののたうちまわるばかりだ。ただ今、狐は何事もなかったかのように平然としている。

 どういうことか。一瞬そちらに気が取られた。

 すると、直後に云々の体が同じように吹き飛んだ。それはあまりに突拍子もないことで、観客も首を捻った。

 云々は壁に激突し、地面に伏せた。

 今までに感じたことのない痛みと驚きが鬩ぎ合い、立ち上がることができない。

 丁怪は銅鑼を叩いた審判の方を窺ったが、試合終了を告げる様子は見られない。船の男は言っていた。この大会では多くの怪我人を出す。

 つまり決定的な決着がなければ審判は試合を止めないということだ。この程度では彼は試合を終わらせない。

 何か勝利を決定付けるものが必要で、多くの場合は取り返しのつかない怪我であるということだ。

 それを理解し、

 「淵宗匠えんそうしょう!」

 すぐに丁怪は咎祟狐の体状を崩し、新たに鞘から矮性な人形の男を創り出した。ちょうど云々が、からがら立ち上がるところだった。

「兄ちゃん負けるなああ!」

 かんぬんから一際大きな声援が飛ぶ。それに云々は

「ウォォォォォォ」と、言葉にならない咆哮で答える。

 その目は黒き男を見据える。いったいあれの正体とは、そして反応することさえできなかった攻撃の真相とは、彼は思考を巡らせる。

「うぉ、ほぉ、ほぉ」

 しかしその思考を遮る形で、男が笑う。しゃがれた、会場が無音であるからこそ云々の耳にも届いたほど、小さな声だ。

 警戒した云々は身構える。

 ただ丁怪はそれすら考慮していた。

 云々の握った拳が、見る見るうちに解けていく。そして腕も垂れ、ついには膝が折れて膝をついてしまった。無論彼の思考より伝令された行動ではない。無意識のうち、というよりも自然と入っていた力が抜けた故の事態だ。

 またも何が起こったのか。理解するより先に体が攻撃にあっている。彼の体が震える。怒りと悲しさに、思考が途切れた。それがかえって良い結果をもたらす。

 今一度の咆哮の後、云々は立ちあがった。

 それは丁怪からすれば驚愕のことだった。幾分かいつもより目を見開いた。そして思う。奴は怪物だと。

 呑気なことをしていては、万が一ということがあり得る。もう布石は打った。後は相手を行動不能に追い込むのみである。

 云々の思考を放棄した突進。それは予想していた。そして淵宗匠は咎祟狐と違って用途から実態を持たせていない。つまり実を防ぐ手段になり得ないということだ。

 その通りに淵宗匠に繰り出した云々の拳は空振り、結果地面を殴る。実態がないことに先ほどまでの彼ならば、また困惑していただろうが、今ではそれもない。攻撃できないとわかるや否や、対象が丁怪に変わるだけだ。

 すぐさま振り下ろした拳を元に戻し、駆ける云々。もはや新たな妖怪を創り出す間もない。

 彼はすぐに思考のレバーを引いて切り替える。もはや行動不能とは言っていられない。そんな甘い相手ではなかった。

  頭上から振り下ろされる岩石のような拳、彼は刀で弧を描く。その洗練された動きを阻む物はない。

 結果として拳は届かない。振り下ろされたはずの腕は、今となっては地面に転がって土を赤く染めている。

「グギャァァァァァァァ」

 丁怪は刀身の血を振り落とし、納刀する。

 地面に蹲った云々はただ叫び声を上げるだけ。

「一回戦、第四十一試合。結果、丁怪の勝利!」

 ここぞと言わんばかりに審判が告げる。それから形式的な拍手がいくつか聞こえた。それを背に彼はスタジアムを後にする。背後でかんぬんの甲高い声がしたが、手前の云々の雄叫びにかき消され、丁怪の耳には届かなかった。

 スタジアムを出たところで、女とすれ違った。ちょうど彼と入れ違いでスタジアムに入っていった。

「彼女が次なのか」

 丁怪は女の遠く成瀬に向けてそう呟いた。あの背中は何度か目にした。 

 彼が勝手にせっかちな女と名付けた。隣人だ。毎朝早くから身軽な格好でどこかへと消えていく。もはやそれを見ることが日課となりつつあった。

 トーナメント表を確認すると、八十四番かんぬん八十五番牡丹と記されている。彼は数奇だと思わず口端をあげた。

 まさか自分の知る人物が、これから相対するとは。これから部屋に帰って体を休めるつもりが、踵を返して観客席に向かっていた。


 観客席は依然がらんとしていた。皆品定めをするようにフィールドに立つ二人を眺めている。彼も同じように視線を送る。

「では『万状古格闘乱』一回戦、第四十二試合、かんぬん対牡丹の試合を開始致します!」

 牡丹は余裕綽々といった様子で、かんぬんは完全に頭に血が上りきった状態で構える。両者ともに得物はない。

 そして開始の銅鑼が鳴る。波のように鳴り響くと同時にかんぬんが飛び出した。丁怪の目には、それが策略や戦略の末の行動のようには思えない。ただ肥大する感情を相手にぶつけるため、いのいちばんに飛び出した、というふうに見える。

 ただ速度は確かなようで、瞬きの合間にその距離は縮まる。

 握られた拳、云々とは比較にならない枝のような腕。あれで殴ったところで、そう思った矢先のことだった。彼が枝だと形容した腕が、いつの間にやら大木ほどにまで巨大化している。もはや自身の体よりも腕の方が大きいという、不可思議な光景を目の当たりにしている。

 観客席の皆があんぐりとしているなか、牡丹はひょいっと飛び上がって巨大化した腕の上に立った。

「退けえええ!」

 その行動はかんぬんの怒りに油を注ぐ形となり、力の限り腕を振り回すが。

 その不格好な姿に牡丹は呆れたような声で首を振った。

「ああん?」そう威嚇するかんぬん。

 しかしそう時間がかからない間に牡丹が呆れ帰ったわけを知ることとなる。

  

「ギヤアアアアアア」次の瞬間にはかんぬんは金切り声をあげた。

 あまりに巨大化した腕を振り回し過ぎた結果、肩のところから千切れてしまったのだ。観客席からは失笑とため息が漏れる。

「けっ、結果牡丹の勝利!」

 思わず審判さえも吹き出しそうに告げる。牡丹は拍子抜けした様子でスタジアムを後する。

 収穫はなかった。と、丁怪も腰を上げると、未だに喚くかんぬんに目もくれずにスタジアムを後にした。


 丁怪の試合が終わって二日後、部屋に食事を運びにきた女中が言うに、今回の参加者はちょうど百人だったそうだ。つまり一回戦で半数の五十人になる予定だったのだが、両者致命傷を負う引き分けなどが多々あって、すでに四十人ほどしか残っていないらしく、彼女が言うに毎年恒例の棄権者が出たことによって、ちょうど四十人となったようだと彼は夕食に舌鼓しながら聞いた。

 出番はすぐ回ってきますよ。女中はそう言って出て行った。

 これから云々のような扱い易い相手ばかりではないと、彼は肩を落とした。

 明くる日にまた朝食を運ぶ者が木の箱を持ってやってきた。そしてまた一枚引いてくださいと言う。

 それに従うと、

「十四番だ」

 紙にでかでかと十四と書かれている。

「はい。ではトーナメント表に記入しておきますね」

 そうって出て行ってしまった。

 昨晩の女中のいう通り、出番は早く回ってきそうだった。早ければ明日、遅くとも明後日には試合がある。気が重い朝のことだった。

 その日は宿の近くの池の周りを散歩していたのだが、ここまで戦いの響きが聞こえてくる。やはり一回戦よりも激化しているのだ。

 彼は気が滅入って部屋に戻った。窓も閉め切って、持参した本を読んだ。もう何度も何度も読み返して、半壊しているが、あまりの愛着に買い換えることができていない。ただこれが気を慰む。

 そして一日が経ち、二日が経ち、三日目の朝に扉が叩かれた。

 「丁怪さま。本日二回戦が行われます。準備が出来次第、武具だけを持って島中央にありますスタジアムまでお越しください」

 定形文だと彼は布団の中で思った。それから音もなく消えるところまでが、一連の決まりなのだろう。

 電灯の淡い光に照らされた天井を徐々に視界が捉え始める。外で鳥が鳴いて、飛び立つ羽音がする。そのどれもが朝の訪れを告げている。もうかなり外が冷えて布団から出るのが億劫だが、体を震わせながら起き上がって広縁のカーテンを開いた。冬の空はまだ黒く染まっていた。

 徐々に広がる光が部屋に差し込む。また姿見の前で服装を点検する。やはり様になっていると、鏡に写る自分を見て思う。

 そしてわざと口角を上げてみる。引きつった笑顔を見て、さらに引きつる。いったい何をしているのだろうか。

 彼は観念して部屋を出た。さらに外は冷えた。地に咲く葉に霜が降りていた。踏むたびに音がした。

 今日の試合は彼が初めてだった。トーナメント表も新調されていて、紙が以前より小さくなっていた。相手は十三番九頭恋慕と記されている。またもや形態が想像しづらい名前だ。

 名前から察するに、頭が九つある恋する何か。と、全く意味のなさない考察をしながらスタジアムに入ると、一回戦の云々の時よりも観客が多かった。とは言っても断然空席の方が多い。

 相手は対面ですでに待っていた。

 美しい女だった。真っ赤な着物に実を包んで、畳んだ扇子を手にしている。頭が九つだなんてもってのほかだった。

 その女を見て、丁怪はときめくどころか鼻白んだ。ならば云々のような大男の方がやり易い。後腐れがなくていいのだが、眼前の美女を傷つけては、きっと一週間は心に靄がかかることだろう。

 一週間の間に、おそらく三回戦があるだろうし、そんな状態では気が入らずに負けることだろう。なんだかそんな予感がする。嫌な予感だ。

 そんなことを考える丁怪の目をじっと見つめて、九頭恋慕は扇子を口許にやりながら、にやりと笑った。心を撫でるような笑みであった。

 それがまた、彼の心を戦いから遠ざけた。気が入らなくなっていった。

 「では『万状古格闘乱』第二回戦、第七試合、九頭恋慕対丁怪の試合を開始致します!」

 そうして銅鑼が鳴る。

 ぼやけた頭に銅鑼の音が混ざり合う。すると若干正気に戻ったような気がした。そこで気がつく。何かすでに仕掛けられていたのか。

 銅鑼が鳴る最中、丁怪は抜刀し、九頭恋慕の背後に九つの魂が浮かぶ。くるくると風車のように回っている。

 妖怪だと彼は勘付いた。しかしそこに確かな確証はない。

 ならばあの火の玉は何かしら厄介なことを起こす。云々のように真正面から突っ込んではこない。

 以前のように筋骨隆々の相手であれば、彼はまず咎祟狐を出す。これは他者から受けた行為を、そのまま相手に返すというもの。しかし欠点としては咎祟狐に対してのみ発動するということと、思いの外耐久性がないことだった。云々の攻撃程度では消滅はしないものの、あれ以上ならば容易く壊れてしまう。

 そして次の淵宗匠は実態がないため耐久値は無限と言って差し支えない。そして効力が相手の力を奪うというもので、最も依存度の高いものを奪う。云々の場合であれば完全に筋力に頼り切っていたために、淵宗匠はそれを奪った。

 ただ弱点も存在する。

 まずは出現から効力の発動までのラグ。そして二つ目が黒気の多量な消費が挙げられる。

 黒気とは、咎祟狐や淵宗匠を形作る元になるもので、丁怪の鞘はそれで埋まっている。黒気には容量があり、懐柔した妖怪を呼び出すたびにそれが減っていき、破壊されれば元に戻る。

 淵宗匠の場合はそれをかなりの量必要なため、考えなしに出してしまうと、後々大変なことになる。そして実態を持たないがために、他者によって破壊されないことが、ここで裏目となる。

 自壊するためには一度刀を鞘に戻さなければならないのだが、そうすると隙が生まれてしまい、それに全体が一気に鞘に戻ってしまう。つまり戦闘中に丸裸になるようなものだ。

 ゆえに時分を見極めねばならない。そしてそれは今ではない。

  

「ふうん。いい男ね。その短髪はわざとかしら? 背も高いし、何より邪気が感じられない。きっと潔白な人生を歩んできたのでしょうね」九頭恋慕はそう笑う。一向に向かってくる様子はない。

「でもひとつ気に食わないわ。その服よ。辛気臭い気持ちを思い出してムシャクシャするの!」

 丁怪は肩を震わせた。急に語気を強めたこともそうだし、顔にシワを寄せて、しかめたこともそうだ。女に怒られるというのは慣れない。

「まあいいわ。あなたも力次第ではこのうちに加えてあげてもいいわ」

 そう言って手を広げる。ここに加える? 

 彼が今最も憂いているのは、九頭恋慕の背後の魂が、火の玉なのか人魂なのかということだ。

 火の玉ならば性質上、あくまでも火であるために対処法はあるのだが、人魂である場合、話が拗れてくる。

 ただ口振り的に後者だる可能性が高いと彼は判断する。

 互いに睨み合いが続く。初めに動いたのは九頭恋慕であった。すでに表情を元に戻し、背後の魂をひとつ掴んで、大口を開けてそれを食った。

 その光景はあまりに衝撃が強く、彼は身構え、

「咎祟狐!」

 鞘から飛び出した墨汁のような黒が、宙で狐の形を形創った。

「はははっ! 同じようなことするのね? いいわ行きなさい『蓮亜』」

 そう言って九頭恋慕は冬の吐息のように白い息を吹いた。そしてそれがいつしか人をつくり出した。

 生み出された男、名を蓮亜という。袴を着て、刀を帯びている。髪を後ろで結って、丁怪に鋭い眼光をむけている。その視線にあてられて背筋が一際冷たくなるようだった。

 あれは歴戦の猛者だ。立ち振る舞いから、所作から、雰囲気までも間違いないと、彼の脳が叫んでいる。

 果たして正面から打ち合って勝てるだろうか。単純な剣術では、まだ自分はあの域には達していないという確信がある。

 ならば他の要素で勝る必要がある。

 彼はいわゆる八相の構えをとる。蓮亜もゆっくりと抜刀し、正眼の構えをとる。

 一撃でも受ければ勝ち筋は途絶える。例え命辛々蓮亜を退けたところで、残る九頭恋慕は無傷で残っているわけだ。そうなれば棄権するほかない。

「参る」

「来い!」

 あくまで受けるつもりだ。と彼は心を震わせた。もともとそういう姿勢なのか、あるいはあまりに見限られているか。どちらにしても彼の腹づもりは固まった。

 駆けるため実を乗り出す丁怪と仁王立ちの蓮亜。

佩纏はいてん・瞳無」

 それがどのような効果をもたらすのか、丁怪自体は知らない。ただ祖父の書斎にある『佩纏』の心得という本にて、これは相手の視界を数秒奪うという。

 その瞬間を彼は見逃さなかった。それまで静観に徹していた蓮亜が若干たじろいだ。確かに効力は相手を蝕んだのだ。しかし数秒、あくまで奪えるのはわずかな時間のみ、それを過ぎれば、振り出しに戻る。

 しかし丁怪の予想よりも、そして刃が届くよりも先に蓮亜の視界は若干右に逸れながら突進する黒い影をまだ掠れきった瞳に写した。

「御免!」

 袈裟斬り。それは彼の最も得意とするところ。しかしそれが仇となる。

「キャン!」甲高い声が鳴いた。

「ぬっ!」と、蓮亜はしまった、と刃を止めようとしたが、鍛錬されたその速さが仇となり、もはや囮りであった咎祟狐を斬り裂いた後のことだった。もうすでに狐の呪いは彼に取り憑いてしまった。

 それは歴戦の猛者である彼だからこそ、瞬時に理解することができた。今し方斬り伏せたのは人ではない。この感触は、明らかに妖怪のものに酷似している。

 しかし真実を知るまもなく、あやかしが彼の身体を肩から斜に斬り裂いた。

 血はでない。しかしそれは疑いようのない敗北だ。かろうじて形を保った状態で地面に伏せた。

「すまないな。私は侍ではないのでな」丁怪はそれだけを告げた。もはや彼の耳に届いているかは不明であるが。


 そもそもが賭けであった。どれほどまで視界を奪えるのか、どれくらいの時間続くのか、そして囮りとして突っ込ませる咎祟狐の存在に気づかないか。二度は通じない手であろうが、彼は賭けに勝った。偶然にも伸び切った狐の尻尾が、蓮亜の目には黒い軍服の丁怪に見えたのだ。

 実際彼はその場から一歩たりとも動いていない。

「面白い戦いをするのね。でもまだ一体。残りは八体、さてどう?」涼しい顔で笑う九頭恋慕。

「出し惜しみせずに全部出せばいい。それとも一体ずつしか出せないのか?」しかし対する丁怪もまだ余力は充分である。

「ふふふ。いいわじゃあ次はこの子」

 そうしてまた背後から魂をひとつもぎ取って、口に入れた。そして今度は血のような赤い息を出した。吐血と疑うことの真紅がまたも像をつくる。

 今度は明らかに異様な様だった。宙に浮いており、辺りがパチパチと音をたてて燃え盛っている。

 先の蓮亜は人であるが、これは明らかに妖怪だ。

「火車か?」彼はそう言った。

「おう! オレは火車のイズナだ!」

 まだ子供のような声だが、妖怪にゆえにそれもどうだか真理のほどはわからない。もしかすれば百を超えているなんてこともある。

「お前に恨みはないが、しかし呼び出されたからにはお前をぶっ倒さないといけないな!」

 そうして拳を合わせる。すると背後の火を纏った車輪が回転する。すると彼の体を纏う炎の温度が上がる。

 冬だというのに、もはや夏と変わらないほどの温度がある。このままでは熱中症になる。

鈍雲にびぐも!」

 すでに相手の腹を探るために会話を嗜むような温度で無くなっている。そしてこれを打開する策を、彼は手にしていた。

 鞘から噴き出した黒が十メートルほど上空で形づくられる。それらは鈍色の雲となり、灰色の雨を降らせる。

「え! あっ、ちょ! 反則だろー!」

 叫ぶ火車であったが、徐々にその声に覇気が薄れていく。

 本来であれば、この雨水に当たったものの思考を鈍らせるところが真髄なのだが、今回の場合もはや相手が智略に優れていないことは自明だ。そしてあくまで形でしかない水が、火車の炎を次々と消していく。

 ものの三十秒で火は沈下した。無論彼の好戦的な性格も、なりを潜めてしまった。こうなっては手にかけることすら憚られるほど、火車はなにもなすことができない。

 しかし彼が何かするわけでもなく、火車は消えてしまった。それを訝しんでいると、その向こうで額から汗を流す九頭恋慕がいた。

「さあ、あと七体。ん? どうしたんだ? 息が上がってるぞ?」

「五月蝿い! 役立たずがあ!」怒りに震え、扇子を地面に叩きつけた。そしてそれを踏みつける姿は、初めて目にしたときの優美さはすでに没落していた。

「こうなったら」

 その目に決意、というより無謀を体現するかのような焦りを顔に浮かべている。何をやろうとしているのか、彼には大方の予想がついた。

 そしてその予想通りに、九頭恋慕は背後全ての魂を取った。

「やめろ、そんなことをしては身が持たない!」

「五月蝿い! こうなったらこれしかないのよ!」

 彼はため息を吐いた。吸う息にはまだ熱が含まれているようだ。一刻も早くここを退散したほうが良さそうだと丁怪は思う。

葵鎌鼬あおいかまいたち!」

 九頭恋慕は丁寧にも魂を横一線に並べ端から口にしようとしていた。そこを彼が見逃さなかった。

 凄まじい速度で飛行しつつ細長い実体をつくっていく。彼が持つ他の妖怪に比べ、若干青味がかって、紫に近い色をしている。

 その特異性といえば、やはり鋭く素早い鎌の如き尻尾だ。ただ蓮亜であれば弾くだろうし、火車には近づくだけで燃えてしまう。

 ただ一転、九頭恋慕自体の戦闘能力は常人以下と彼は見た。葵鎌鼬の攻撃を防ぐ手立てはない。

 一閃、鎌がちょうど綺麗に魂で半月を作り出した。その奥で大口を開ける彼女は、あんぐりとしたまま崩れ落ち、

「負け⋯⋯ました」

 葵鎌鼬の鎌を首筋に当てられた状態で、目の端に真弥陀を浮かべながらそう呟いた。

「二回戦、第七試合。結果、丁怪の勝利!」

 そう審判が告げても拍手はなく、皆鋭い眼光でこちらを窺っている。おそらくこれ以上先は形式的であれ、拍手などない世界なのだろう。

 それから彼は真っ直ぐ部屋へと帰り、そして服を脱ぐと全身が汗で濡れていた。しかし浴場が開くのは夕方からであり、今はまだ昼前だ。

 かなりの気持ち悪さも押し込んで、広縁の椅子に座り、そういえば九頭恋慕は一体何者だったのだろうと、考えた。

 明らかに人間ではなかった。ただあのような妖怪を彼は知らない。そうしてしばらく考えていると、ひとつ思い当たった。

 「まさか魔女か」

 無音の室内に彼の声だけが音として伝わる。

 ただ直後に首を振る。魔女はかなり前に滅びたはずだ。少なくとも彼の読んだ歴史書にはそう書かれていたはずである。

「直接聞けばよかったな」

 完全に背もたれにもたれ、ほぼ無意識のうちに声にしていた。


 女中が言うには、極端に長い試合と短い試合があるらしい。そこで、

「私のはどうか?」

 そう尋ねると、

「早い方ではないですか? まあただおしゃべりが過ぎると言われていましたけれどもね」

 そう言われて彼は思わず笑った。確かに振り返ってみれば無駄口が多いような気がした。

 しかし何もかもをひた隠しにされるより、直接は関係なくとも言葉の端からでも相手の力の一端を知れればという訳がある。

 そう言うと、女中も笑っていた。

「そこまで必死になられるということは、何かお目当てがあるんですか?」

 ようやく布団を敷き終えたらしく、立ち上がって、彼が示す通りに対面の椅子に座った。

「ああ、『赫洩』と『涅籠』があるだろう? 私はあれが欲しいんだよ」

 彼は勝利の美酒に酔いしれ、少し滑舌に危うさが見受けられた。

「少しなら聞いたことがあります。なんでも血を吸う刀と、妖怪を閉じ込める鞘なんですよね?」

「ああ。私の鞘も同じような力を持っているが、所詮は模造された劣化品だ。本家には遠く及ばない」

「丁怪さまならきっと優勝できますよ」

「本当か?」

「ええ。本当ですとも」

 それから女中は用事を思い出したと席を立って、そそくさと出て行った。ひとりになった彼は窓の外に目をやった。

 池の水面に月と枝垂柳が写っている。そして彼の持つお猪口の中にも月が浮かんでいる。

「久しぶりに飲んだが。悪くないな」

 そう言って、彼は月に向かって乾杯した。その目線の端で、息を切らしながら宿に戻る牡丹の姿を見た。

 今日の試合の帰り、トーナメント表を見たが、彼女の試合はおそらく明日だか明後日だろう。

 だから追い込んでいるのか、と思った。せっかちだから、いても立ってもいられなくなって夜遅くに走りでも行ったのだろうと、彼は推察した。

 そんな牡丹の姿を思い浮かべているとき、ちょうど隣の扉が閉まる音がした。勝手ながら武運を祈ることにした。普段ならばそんなことはしないが、今日はいつもより気分が良かったから。

 今朝は深く眠ったようで、目が覚めたときにはすでにカーテンの隙間から陽光が差していたし、布団がいつもよりも乱れていた。

 やはり戦いとは魔を秘めていると彼は思った。云々の腕を斬り落とした時の感触が、蓮亜を謀った時の快感が、火車はともかく、九頭恋慕の絶望に満ちた顔が、今でのありありと思い返すことができる。

 やはり早々に切り上げるべきだ。彼は立ち上がって伸びをした。それからカーテンを開けて陽光を全身に浴びた。

 それから朝食をとって、少し散歩へ行った。ゆったりとした足取りで、昨日の疲れをとるために自然を身で感じた。

 その帰りにトーナメント表へと寄ってみたが、確かにかなりの速度で試合が進行しているらしかった。

 ちょうど彼が立ち去る頃にスタジアム内から男の悲鳴が聞こえた。おそらく勝負ありとったところだろうか。

 この様子では次の出番も近いのではと、彼は内心冷や冷やするばかりであった。


 ちょうど夜の闇に夕日が呑まれた頃、牡丹が橋を渡って帰ってきた。電灯の明かりだけではその顔は細部までは窺えないが、しかし肩が落ちていないところを見ると、勝ったのだと彼は推測した。

 ただこのまま勝ち続ければ、いずれ相対する可能性もある。それは彼としては非常に気分が乗らない。どうかそうならないよう願うばかりである。 

 もう女と戦うのは懲り懲りだ。


 明くる日も同じように平穏に過ごした。その日のうちに二回戦のトーナメントが終了したのだと、夜夕食を持ってきた女中が言っていた。

「今回はひどいもんですよ。四十人が戦って二十人が残ると思うでしょう? それがどうでしょう。皆さま無茶ばかりするから、相次いで相打ちして」

「で、何人残ったんだ?」

「十二人です。たったの十二人。これじゃあどこかでずれてしまうわ」

「まあ大丈夫さ。次でもきっと引き分けが出る」

「そうね。でも丁怪さまは分けるなんて格好の悪いことしないでくださいね?」

「もう自信がないな」

 次の相手は誰であろうか。そんなことを考えながら布団に入れば、きっと明日はひどいことになるという一抹の不安はあれども、案外すぐに眠れ、ぐっすり眠れた。


 やはり朝食と木箱が同じくやってきて、それを引いた三番と書かれていた。

 言われずとも今日が三回戦であることは自明だったし、心の準備はできている。

 清掃も最早板についてきたように感じる。この刀も手に馴染むし、妖怪たちもうまく扱えている。不安なのは出たとこ勝負である佩纏だけだが、これはあくまでも奥手であると考えれば、自らの中で幅が持てたような気がしていい。

 

 気温はどんどんと下がっている。初めのうちはこれでは決勝の頃には雪が降るのではないかと心配していたが、このペースならばおそらくは間に合うことだろう。そんなことを思いながら、朝食を終えて、部屋を出た。

 実に足取りも軽く、空気も澄んでいて気持ちがいい。ありとあらゆることが良く感じる。

 スタジアムではまだ試合が行われていた。それを観客席で見ているのは、丁怪ともうひとり、筋骨隆々の坊主男だけだった。その男は顔に似合わぬ背広を着こなしている。

 フィールドに目をやると、実に一方的であった。片方の巨漢は頭を覆う笠を被っていて顔は見えないが、相手の男が繰り出す、五行を用いた攻撃も、意に介せず立ち続けている。

 いったいいつまでこれが続くのだろうか。そう疑ったところで、笠の男の手が相手の男の頬に直撃した。丁怪には軽く見えたが、しかし相手の男は首が異様な方向に曲がって、ぴくりとも動かなくなってしまった。

 それを確認すると、審判が告げた。

「三回戦、第一試合、勝者臺貫!」

 それだけを聞くと、男はフィールドを去った。いったい何者であるのか。大事な試合前だというのに、考え事が増えてしまった。ただいまは向き直した。

「では『万状古格闘乱』三回戦、第二試合。丁怪対無為徒食の試合を開始致します!」

 無為徒食? ろくでなしなのかと、思っているとフィールドを挟んだ先で試合を観戦していた男が、その場から飛んだ。そしてちょうどフィールドの真ん中に着地した。

「来い! 丁怪!」

 そして彼は指差して、そう叫ぶ。大変恥ずかしいのだが、幸運なことに彼ら二人と審判以外に誰もいない。そろそろ相手を研究すればいいのではと思うが、やはりここまで残る強者ならば、自己的で誰にも理解できないなこだわりがあるのだろうと彼は思った。

 それから飛んで、同じようにフィールドに着地した。

 同じ高さに立つと、敵の巨軀のが際立った。ただ丁怪からすれば、云々の方が若干で大きいように感じる。

 互いに互いを観察し、そして、銅鑼が鳴る。この間、まず明らかなのは相手の力が自分よりも優っているという点。それを見誤って、正面から斬りかかれば、おそらく五分としない間に負ける。

 つまり戦いの基準は、やはり妖怪である。咎祟狐でのカウンター、淵宗匠での弱体化を経て、初めて対等といったところだろう。

 ゆえに初めから妖怪を──といったところで、右足で地面を踏み込んだ無為徒食が丁怪の抜刀と同じか、それを上回る速度で距離を詰め、単純明快な正拳突きを彼の鳩尾に放った。

 辛うじて、というか偶然に鞘がカードの役割を担ったのだが、次の瞬間には彼の体は背中から壁に激突していた。何が起こったのか、ようやく地面に伏せてから気がついた。

「おいおいこんなものじゃないだろう?」

 近づいてくる無為徒食の足音に、体を動かそうとするが、それ以前に息が出来ず、のたうちまわるくらいしかできない。

 そんな彼を片腕で持ち上げると、二つ往復で頬を叩いた。

「つまらんぞ。このまま終わっては、つまらんぞ!」

 そうして彼を遠くに放り投げる。

「ほら、これがお前の得物だろう!」

 そう言って無為徒食は刀を倒れる丁怪の方へ投げる。

 丁怪は辛々それを掴むが、事前に予定していたプランからだいぶ逸脱している。そして今思い知った。自らの刀よりも、相手の拳の方が強く、速いのだと。

 しかし立ち上がらないわけにはいかなかった。これではこの試合は終わらない。それにまだ勝ち筋が完全に消えたわけでもない。

「お前、妖人だろう?」

 刀を地面に突き刺して、杖のようにしてなんとか立ち上がる。

「ああ実にその通りだ。俺は人間の血と妖怪の血が流れている」

「だろうな。同じ匂いがする」

「ん? お前もか。ただその割には、人間っぽいなあ」そう言いながら、ようやく立ち上がった丁怪を無為徒食は見下げた。

「同じというならば力を見せてみろ。今のままでは同族と言われることが恥ずかしいぞ!」

 その勢いのまま腕を振り下ろす、ただそれはひらりと交わし、無為徒食の背後から斬りかかる。

 しかし鋼鉄とでも打ち合ったような、大木と打ち合ったような、全く手応えを感じない。その絶望感のあまり後ろによろける丁怪に振り返った無為徒食は言う。

「妖人と言っても何を継いでいるか、それが最も重要だ。俺は父からこの鬼の体を継いだ。そして素質は人間だ。人間の素晴らしいところを知っているか? それは可能性だ。妖怪が他の種族の力を会得することはできにない。ただ人は突き詰めればあらゆる技を会得することができる。さて、お前は何を継いで、何を得たのだ!」と体の芯から震える雄叫びだ。

 彼は今一度自分を見つめ直した。いったいこれまでに何を得たのか。彼が父から得たこと、母から得たこと。覚えがない。父は常に外へ出ていたし、母は小さい頃にどこかへいなくなった。

 何を継いで、何を得たのか。

 妖怪の仲間たち、祖父の書斎で見つけた書物から得た剣術。そして──

「佩纏」

 彼の奥底で何かが煌めいた。ずっと陰っていた部分が、あることをきっかけに天に照らされるようになった。それは彼に大きな変化を与えるはずだが、しかしそれはいったい。

 それは息吹きだと彼は勘付いた。自らの中に眠っていた、今までは使われていなかった機関が息吹をあげたのだ。

「んんん? なんだお前それ」無為徒食は目を丸くし、眼前の丁怪の顔をまじまじと見た。

 それから高らかに笑う。

「妖怪ねえ。よく言ったもんだよ。ものはいいもんってか」

 丁怪のなか、想像上の井戸から何か赤黒いものが湧き上がり、彼を内側から支配し、そしてそれは──

「がっ!」

 概念となって体外に放出される。それは液体でも個体でも気体でもない。形などないのだ。手で触れることはできない。しかしそれは目に見える変化だ。

「そう。それがお前が継いだものだ」

 ──そうか、私は彼にあてられたのか。と思う。無為徒食は意図していなかっただろうが、偶然にも歯車がかち合って、息吹に耳を済ませることができたのだ。

「佩纏とは妖怪の力を纏うものだ。あの本にはそう書いていた。私はてっきり得物や体の外殻のみに適応されると思っていたが、それは違ったのか」俯いて、ぶつぶつと呟く丁怪。

「おい、御託はいい。早く続きだやるぞ!」

 無為徒食の目には彼が赤黒い気配を纏っているように見える。実際にそれが何を生み出し、何をもたらしたのか。久方ぶりに拳が疼いている。この男ならあるいは。そう期待する気持ちが膨れ上がる。

 二人は一度、視線を合わせた。それが再開の合図だ。

「行くぞ!」

「佩纏・朱天子しゅてんし

 形は違えど、ふたつの力が正面からぶつかり合う。一度、二度、三度と打ち合う。もはや互いに傷ついていることなどは眼中にない。お互いの気が尽きるまで、明くる日も明くる日も、こうしている腹づもりであるのだ。 

 丁怪の刀は刃こぼれを見せ始め、無為徒食の体は至る所が斬り傷だらけ、所々は深いものもあるのだが、彼は止まらない。

 互いに意識が尽きようとするなか、決着が訪れる。

 パキン、と言う音とともに丁怪の刀がついに限界を迎えた。しかし無為徒食の拳は止まらない。大きく振りあげられた鬼の拳が、丁怪を押しつぶした。

「三回戦、第二試合、勝者無為徒食!」

 審判が告げた頃、二人ともすでに倒れ、意識は混濁のなかにあった。


 

 目を開けると知らない天井があった。

「起きましたか」横から聞こえる声に、悲鳴を上げる首を少しずらすと、あの毎夜、夕食を運んできた女中がいた。見慣れた赤茶の着物で、彼の様子を窺っていた。

「すみません。私絶対あなたが勝つと思ったんですけど」

「いやいや、私の実力が及ばなかっただけですよ」

「でも、審判さんが珍しく興奮していましたよ」

 そんな会話をして、ようやくことの顛末を思い出した。

「なぜ私はここに?」彼が問うた。

「はい。あなたがひどい怪我をしたと聞いたので、いてもたってもいられなくなって。勝手に緊急用の船を漕いでこの町まで戻ってきたんです。あのまま迎えの船を待ってたらあなたきっと死んでたから」

「それは命を助けられた」

「いえいえ。とんでもない」

「そんな時にこんなことを聞くのはあれですが、いったい大会を制したのは誰なんでしょう?」

「すみません。私もあの日ずっとここで付きっきりでしたので。よければ新聞を買ってきましょう。もう乗っている頃でしょうから」

「ありがとうございます」

 そう言うと女中は部屋を出て行った。

 ──そういえばあの人の名はなんというのだろうか。命まで助けていただいたのに、名前も知らないとは。

 彼はそんなことを思って、ふと窓の外を見た。外では静かな牡丹雪が地上を白く染めていた。

 

 頬と鼻を赤くして帰ってきた女中の手には新聞が提げられていた。それを受け取ると、一面に『万状古格闘乱』優勝は天武聖という青年らしい。その他上から

天武聖、胡乱翠月、無為徒食。と三名の名が記されてあった。

 牡丹、彼女もまた負けたのか、と彼は遠い目をした。

「それで、もう諦めるのですか?」と、女中はストーブに手を近づけて言った。

「うーん」彼は新聞を畳んで、とぼけた。

「そんな譫言のようなこと言わないでください。はっきりとしていただきたいのです。行くなら行く。行かないなら行かないと」女中はまだ赤い顔をこちらに向ける。

「何れはと思っているが。しかしその口ぶりだと、共に来てくれるのかい?」不意に視線があった。

 女中はふいっと逸らして、

「それはわかりませんわ」と薄く微笑みながら言った。

「参ったな。だが私はまだ君の名さえ知らない」

「そうでした。私は葉子と申します」

「そうですか。いい名前だ」

「それで、あなたさまは? まさか丁怪が真の名だとはいいませよね?」

 確かにその通りだと彼は体が痛まない程度に笑った。この大会に出ている者のほとんどは偽名だ。

「正也というんだ」と、自分で声にしてみて、久しぶりにその響きを聞いた気がした。もう随分と名前を呼ばれることもなかった。

「そうですか。では正也さま。昼食を作ってきますね」そう言って葉子は部屋を出た。彼女の口から発せられた、正也という音が、妙に心地良くて、彼は今一度目を閉じ、その感触をたしかめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖人往時譚 朝殻眠衣 @ASAKARANEMU

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ