燈火のアルスマグナ：黄金の王と鉄学者

第七話 闇の戦線 後編

　オケアノス基地もまた、コキュートス基地と同じように高台の上に建てられている。この高台はポリスと呼ばれ、シオン修道会の人間によって神聖視されているものだ。通常ポリスの上には行政機関と神殿が建てられ、神殿騎士団はこの神殿を守る為に結成されたものとされている。

　本来は天上にいるとされる神を祀るために作られたものだが、それが軍事施設の土台として使われた際には地の利として機能した。高台の斜面を登って少し顔を出せば、上の駐車場には騎士達の一個小隊（約五〇人）と思われる規模の監視が巡回している。

　キザイアの空間跳躍が使えれば楽なのだが、能力の起点となるネズミは自（・）分（・）の（・）脚（・）だ（・）と（・）、キザイアが一度訪問した事のある場所にしかいけないようになっている。尤も何処へだって行けるのならば、世界の最果て（エルシオン）にだってとっくに向かっているだろう。『自分の眼で見る』というのは、錬金術に於いてとても重要な要素だ。

　というのも、個人の意思の力が及ぶのは、その人間が感覚で認識した事象に対してのみなのである。術師は人間の間隔が本来及ばないミクロの世界：物質の粒子構造やエネルギーの上空へとれなどを、燈による第六感で観測する。燈をソナーのように放射し、それで物質の構造を解析して術式（アルス）で構築するのだ。

　要は錬金術は、術師の観測できる事象にしか効果を及ぼせないという事である。

「ここは儂等に任せろ。アサシン教団の暗殺術を見せてやる」傍にいるシナンが囁く。

　気が付けば、数十人の暗殺者達は高台の四方に展開していた。彼等は死で印を結び、高台の斜面に両手を着く。

「“影響術（パルス）：輪桶暗殺手（リンツトルテ）”」

　燈が地面を伝い、足元から見張りの兵士達に浴びせられる。すると彼等は姿勢を崩し、そのまま地面に崩れ落ちて眠り始めた。

「精鋭部隊全員で練り上げた燈を用い、遠隔で発動する“暗殺手（トルテ）”じゃ。射程距離はそう長くはないが、数十人分の燈を合わせる事で“暗殺手（トルテ）”の発動条件を克服しておる」

　五〇人もいた見張りは、瞬く間に全滅してしまった。彼等の本領は正面切ってのぶつかり合いではなく、こうした死角からの一方的な戦闘なのだろう。

「よし。此処からは各自散開し、敵に気取られないように暗殺を目指すぞ。……気を付けてな」

　暗殺者達は散開し、夜の闇に紛れていった。ここからはボクとベルの二人だ。

「ベル、屋根の上まで行けますか？　ボク達は上から侵入しましょう」

「よし、背中に掴まれ。飛んで行くぞ」

　屈んでくれたベルの大きな背中によじ登ると、ベルは印を結んでいく。

「“哲学の卵（フラスコ）：天駆ける簒奪の翼（イムドウグド）”！」

　足元から上昇気流が立ち上り、ボク達を上空へと運ぶ。上空から基地を見下ろせば、最上階に出っ張った露台（ベランダ）が見えた。

「あそこから入りましょう！」

「任せろ。振り落とされるなよ」ベルは気流に乗り、驚く程軽やかに露台（ベランダ）へと着地した。

「よく来ましたね。……待ちわびましたよ」露台（ベランダ）に続く部屋の中からくぐもった声がする。

　外に出てきたのは、老人の面を着けた黒装束だった。体格は細くしなやかで、シナンの言っていたラシイドの特徴とは程遠い。

「お前が……。バルタザール子爵ですか」

「ご存知のようで何より。ですが、そんな名前は只の仮面に過ぎません」バルタザールは翁面に手をやり、おもむろに外す。「お久し振りですね。僕（・）の（・）王（・）」

　仮面の下から現れたのは、薄紫の長い髪を持つ、美しい青年だった。中性的な声も相まって性別の判断に困る。

「貴様……。ネブカドネザルか……！」ベルが何かを悟った声で呟く。

「その通りです。憶えてくれていたのですね」

「全て、貴様の謀りだったという事か。己の計画に乃公を利用したのだな」

　ベルの顔がみるみる怒りに染まっていく。だが、ボクには何のことだかさっぱりだ。

「ベル、こいつと知り合いなんですか？　ネブカドネザルって……。バビロニアの古い王の名前ですよね」

「前に夢の中でイスカンダルの大灯明やアクア初体の話をした者がいたと話しただろう。それが此奴だ」

「なら、アクア初体でイスカンダルの大灯明を復活させられるっていうのは嘘なんですか……？」

　今までボクの方を見向きもしなかったネブカドネザルは、邪悪な笑みを浮かべてボクに視線を向ける。

「嘘じゃありませんよ。……ただし、イスカンダルの大灯明は生まれ変わるのです。新たな世界を創る聖杯の炎としてね。キミはアクア初体が、何の為にあるのか知っていますか？」

　アクア初体の正体。正にボク達が欲していた情報だ。

「アクア初体。別名を生命の水。燃える水。滴る胎児、第五精髄。これらは各地の伝説における様々な霊薬の名称ですが、その全てがある一つの存在を示唆しています。それは、聖杯を満たす神秘の液体。そして再び世界に原初の火（ビッグ・バーン）を灯す為の神器こそが、聖杯なのです」

　聖杯。鉄学者の伝説に伝わるそれは、悪魔の王ギルガメシュが天から盗んだ原初の火（ビッグ・バーン）の欠片を、人間へと与える為に注いだ器である。聖杯を拝領した人間は絶対王権（レガリア）を得て王となり、世界に戦火を広げたのだという。

　逆説的に考えれば、聖杯を用意する事で人間の手に原初の火（ビッグ・バーン）を召喚する事ができるというのは、確かに辻褄が合う。

「ではそもそも原初の火（ビッグ・バーン）とは何なのか？　答えは単純明快。世界を創造する力ですよ。王が持つ絶対王権（レガリア）とは限定された空間内に自分だけの世界を創造し、その世界の法則を適用する力なのです。故にこの世界の法則に縛られる事がない。原初の火（ビッグ・バーン）を手にした者は、自分が望む完全な世界を創造する事が可能なのですよ」

　ネブカドネザルは露台（ベランダ）の景色に見える天上羅針（ヘヴンコンパス）へ両手を掲げる。

「イスカンダルの燈とは、か（・）つ（・）て（・）こ（・）の（・）世（・）界（・）を（・）創（・）り（・）直（・）す（・）為（・）に（・）双角の王（ズルカルナイン）イスカンダルが生み出した、原初の火（ビッグ・バーン）の欠片なのです。彼は世界を創り変え、人間の手に錬金術をもたらした。彼の作り上げた原初の火（ビッグ・バーン）は小さかった為に、完全な世界を創る事はできませんでした。故にその夢を鉄学者へと託したのです」

　ネブカドネザルの語る知識は、現存するどの歴史書にも記されていないものだ。それを彼はさも自（・）分（・）の（・）目（・）で（・）見（・）て（・）き（・）た（・）かのように語る。

「シオン修道会がイスカンダルの大灯明を天上羅針（ヘヴンコンパス）に閉じ込めたのは、人間が聖杯を使って世界を変えられないようにする為なんですよ。イスカンダルの創り上げた素晴らしい世界を守る為、イスカンダルの願いを否定する存在。それがシオン修道会です。彼等もまた、歪んではいてもイスカンダルを崇める人間である事に変わりはなかったという事です」

　そしてネブカドネザルはゆっくりと腕を開く。話は終わりだと告げるように。

「さあ、あの天上羅針（ヘヴンコンパス）を破壊するとしましょう。悲しい死で包まれたこの世界に、永遠の命をもたらす時が来たのです。その為に……。ギルガメシュ、死をもたらす存在であるキミには此処で滅んでもらいますよ」

　ネブカドネザルは胸の前で印を結び、両手を突き出す。

「“神秘の炉（バーンマ）：フワワの大竜炎（キュババ）”！」

　彼の背後に滞留する巨大な炎は無限を表す『8』の字を模り、内臓を集めたような怪物の顔となって、白熱する熱線を吐き出す。その熱量はシナンの“神秘の炉（バーンマ）”と比べても桁違いで、ベルの全身をも包み込める程の炎が視界を包む。

「“流転の杯（アルカフ）：山海狂わす大洪水（スラトハニス）”！」

　露台（ベランダ）から溢れる程の水をベルが錬り上げ、炎に焼かれるのを防ぐ。ボクはそれに、黄金の円環を重ねた。

「“召喚術（ネクロ）：アルキメデスの螺旋（ウンディーネ）”！」

　同心円状に広がっていた水流は束ねられ、乙女の姿となって立ち上がる。巨大な拳は螺旋を描いて回転し、眼下のネブカドネザルへと叩きつけられる。

　彼の背後に滞留する炎へと直接水をぶつけて消火すれば、この手の術は攻略できると踏んだのだ。だが炎は消えるどころか、呑み込んできた水を瞬く間に沸騰させていく。

　このままだと煮殺されると感じたボクはアルキメデスの螺旋（ウンディーネ）の腕を引かせ、一先ずは敵の炎が尽きるまで防戦に持ち込む事に決めた。ベルの錬った水が階下へと流出するのを防ぎつつ、水が吸った熱を適宜に排出する事で、ベルの大規模な術式（アルス）を使いつつも燈を節約していく。

「……アルカ、妙だぞ。あの炎、さっきから全く衰えておらん」

「え……？　そんな馬鹿な。無限のエネルギーなんてあり得ません！」

「正確に言えば、弱まった傍から勢いを足されている感じだ。……まるで術師の側に、無限の燈があるかのようにな」

　確かに、シナンが使っていた“フワワの竜炎（フンババ）”と違って、背後の炎に全く減衰が見られない。既に数分間は炎を放射し続けているのにだ。このままでは、いずれ此方の燈が尽きて焼き殺されてしまうだろう。

「あの術のタネを解明している時間はありません。一刻も早く、攻撃の主導権を取り戻しましょう！」

　ベルは水を錬るのを止め、虚空から王笏（セプター）を引き抜く。斧を回して“人界拓く星炎の剣（リットゥ）”を錬り、数多の斬撃として前方へと撃ち放つった。

　シナンの“第五元素（エウレカ）”さえ打ち破った概念殺しの力。黄金の光輝は炎さえも切り裂き、ネブカドネザルへと迫る。

　だが彼がふっと微笑んだ次の瞬間、斬撃はその身体をすり抜けて背後の炎を飲み込み壁を切り裂いた。

「なっ……！」

　決して回避したのではない。目の前に立つネブカドネザルが最初から立体映像（ホログラム）だったのではないかと錯覚する程に、不自然な『すり抜け』だった。十中八九、彼の術式（アルス）だろう。

　“フワワの大竜炎（キュババ）”を消されたネブカドネザルは更に印を結び、黄金の円環を宙に刻む。それは実体化し、直径四キュビット（約二メートル）もある巨大な鏡となった。

「“召喚術（ネクロ）：ニトクリスの鏡（アンシャバ）”」

　鏡の奥には真っ黒な空間が映し出され、そこから黒い靄に包まれた人型の影がずるずると這い出てくる。

「雑兵を呼ぶか……。厄介だな」ベルは水の壁から前に出て、ネブカドネザルの召喚獣（エイドロン）へと切りかかる。

　“人界拓く星炎の剣（リットゥ）”を纏わせた斧を回転させて片っ端から雑魚を切り掃おうとするベルだが、先程のネブカドネザルと同じように攻撃は敵の身体をすり抜けて空を切る。

　逆に召喚獣（エイドロン）達の鋭い爪はベルの肉体に食い込み、肉を切り裂いた。触れられない為に引き剥がす事もできず、ベルはじわじわと削られていく。

　ここはボクが敵の術式（アルス）を解明し、ベルを救う他にない。

「ベル、五分だけ時間をください！　ボクがそいつらを何とかしてみせます！」

　後ろから声を投げかけると、ベルはにっと牙を剥く。

「五分でよいのか。夜明けまで待ってやっても構わんのだぞ？」

　ベルは身体を小鳥に変えて絡みつく敵の群れから抜け出すと、上空に舞って変身を解き、印を結ぶ。

「“哲学の卵（フラスコ）：悪風渦巻く大神殿（ムシュフシュ）”！」

　七つの台風が床石へと殺到し、足場を粉々に粉砕する。ネブカドネザルと彼の召喚獣（エイドロン）は瓦礫と共に階下へと落ちていき、ベルも大穴へと飛び込んでいった。

　残されたボクは、独り夜空の下で思考を巡らせる。

　解明すべきは、敵が行う物質透過の原理だ。そして、物質の透過現象の中で最も著名なのが『トンネル現象』である。

　物質同士が接触する際に、ある程度の確率で物質同士がトンネルを潜るように通り抜ける現象を指す言葉。その骨子は、『波動』にある。

　波動とは、読んで字の如く波の動きだ。波は一本の軸を中心に、その上下へと揺れ動く。水に立つ波が水面を軸とし、その上下へと水面の高さを変化させるように。つまりは真逆の二方向への動きを一つに内包する運動こそが、波動である。

　これを概念として捉えると、『普遍（0）』と『奇跡（1）』という真逆の二つの側面を一つに内包する状態こそが、波動の本質であると言える。そしてこの波動という性質は、この宇宙に遍在するのだ。

　分かり易い例が、『シュレーディンガーの猫』と呼ばれる思考実験である。中（・）身（・）の（・）様（・）子（・）が（・）一（・）切（・）観（・）測（・）で（・）き（・）な（・）い（・）箱の中に猫を入れ、放射線を照射したと仮定する。その後箱を開封して内部の様子を確認するまで、中にいる猫が生きているのか否かを確認する事は誰にもできない。何しろ、中身の様子が一切観測できない箱なのだから。つまり、箱を開けるまでは『猫が死んでいる普遍（0）』と『猫が生きている奇跡（1）』が同時に存在するという訳だ。

　そして箱を開けた時、誰かに観測されて初めて猫の生死が決定される、という理論である。(実際には猫自身が猫の生死を観測している為、同じ実験を行っても箱を開ける前に既に猫の生死は決定されているのだが)

　これを物質の透過に当て嵌めれば、接触せんと近付く物質同士には、実際に接触するまで『ぶつかるという普遍（0）』と『透過するという奇跡（1）』の二つが同時に存在するという訳だ。そして接触した際に『透過するという奇跡（1）』の方が発現すれば、物質は透過するという理屈である。

　要するに波動とは、『普遍（0）と奇跡（1）の潜在性』という概念なのである。

　重要なのは、この波動を意図的に奇跡（1）の方に傾ける事は、錬金術でも不（・）可（・）能（・）だという事だ。

　波動の操作は既存のあらゆる錬金術理論でも実現に至っておらず、錬金術の世界では『神の働き』であると位置づけられている。それは人間に干渉できる領分ではなく、真理を手に入れて初めて実現する行為なのである。

　もし仮にネブカドネザルの物質透過がこのトンネル現象を利用したものである場合、物質を透過できる可能性は毎回運任せとなる。それも、極めて低い確率だ。適当に身体を動かして、運良くベルの攻撃を躱せる可能性に賭けた方がずっとましなレベルだろう。

　ベルはボクが思考を巡らせている間にも、眼下で幾百にも及ぶ剣戟を繰り広げている。その全てが尽く空を切っているのを、『運が良い』で片付けてしまうのは極めて非論理的だ。故に、ネブカドネザルの術式（アルス）はトンネル論理ではありえない。

　だとしたら、他にどんな理論が該当するのだろう。人の目で観測が可能なのに、物体として存在していないなんて矛盾が起こり得るのだろうか。

　ボクはふと、ボラードハウスの広場でのベルとの会話を思い出した。天の上に広がる神の世界に物質やエネルギーは存在しない。だが、ベルは宴の席でこうも言っていた。神の世界に景色は存在する。その全ては、概念で構成されているのだと。その概念が世界の設計図となり、物質やエネルギーが配置されて世界が作られている。

　世界の設計図とは何だ？　その答えは、現代錬金術が既に示している。それは情報だ。世界は物質とエネルギー、そして情報によって構築されている。

「天と地を隔つはデデキント切断。最小の無限（アレフ・ゼロ）を根源とし、アルキメデスの螺旋が世界を回す。遍く理よ、今我等が拝むハノイの塔に集いて、再び天と地を結び留めよ！」気が付けば、ボクの両手は黄金の円環を紡いでいた。

「第五元素（エウレカ）：人界創りし王の誉（メロダーク）！」

　黄金の円環が世界に刻まれ、黄金の燈が周囲を照らす。

　そして、ベルの刃が召喚獣（エイドロン）の身体を切り裂いた。その瞬間ベルの目が見開かれ、両手が力強く印を結ぶ。巻き起こる嵐は影達を切り裂き、天へと巻き上げて夜空の闇に消滅させた。

「……まさか。この術式（アルス）は……！」ネブカドネザルが息を飲む。

「――証明完了（クオド・エラト・デモン）」ボクの髪と眼は黄金に染まり、黄金の燈の粉を闇に噴き上げた。