一年越しのネタバラシ

ハズミネメグル

第1話

「源氏物語の若紫って知っている?」

 俺の目の前で林檎を剥きながら兄は言う。俺が首を横に振ると兄はそっかと、思い出したように言う。

「記憶喪失だったもんな。忘れていても仕方ないか」

「有名な話なのか?」

「真面目に勉強をしている奴なら大概は知っている話さ」

「聞かせてくれないか」

 俺の言葉に笑う兄。まるで、母親が夜に昔話を聞かせるように語りだす。

「昔々あるところに、光源氏という顔だけが妙に良いクズがいた」

「何だ。その語弊が入った登場人物紹介は」

「現代にいたら、複数人に殺されてもおかしくないような奴だよ。で、この光源氏。あろうことか自分の継母に禁じられた恋心を抱いていた」

 この時点で泥沼な気がする。こんな話を教えるなんて日本の教育は大丈夫なのか?

「ある日、光源氏が歩いていると可愛い少女に出会ったんだ。可愛いだけじゃない。初恋の継母と瓜二つだったんだ」

「で、どうしたんだ。その光源氏とやらは」

「かいつまんで言うと、その少女を誘拐して自分好みに育て上げた」

「最低じゃねぇか」

 そう呟く俺に対して、だよなと何処か悲しげな顔で兄は皿に林檎を乗せて俺へ差し出す。ふと、不思議に思って、俺は兄に聞いた。

「何で急にそんな話を?」

「俺は、散々光源氏をクズと罵ったけどさ、彼がクズだとしたら、俺も大概クズだと思ってね」

 兄はぼうっと窓の外を見る。

 三月も終わりを告げようとしており、例年に比べて暖かい春になるという。桜は盛りを過ぎて、若葉が枝にチラチラと見える。

「誘拐でもしたか?」

「刑法に触れるようなことはしていないよ。ただ」

「ただ?」

「記憶喪失の弟と、年端も行かない少女。無垢さはそう、変わりはないよなって」

 思わず、食いかけの林檎を俺は落としてしまう。いやいやいやいや。それはないだろ。性別も違うし、俺は十八歳過ぎてんだぞ。

「お、俺のことを好みに育て直してるってんの?」

 明らかに挙動不審の俺の声を聞いたからか、兄が苦笑して、冗談めいたように言い直す。

「冗談だって。記憶喪失になって、やっと関係性を再構築できるようになって良かったってだけの話だ。俺自身はお前のこと割と気に入っていたんだよ。母さんと違ってな」

 そう、兄が言ったところで夕飯を告げる母さんの声がする。兄が俺の部屋から出た後で俺はふと考えた。

 今日は三月三十一日。明日で、『俺が記憶喪失になった日』から一年だ。



 俺は、母が妻のいる男性を寝取った結果生まれた子供。いわゆる不義の子という奴だった。

 兄とは腹違い。だが両方とも父親に物凄く似たらしく、兄弟と言われても何ら違和感は抱かなかった。

 俺の母は事故で死んで、不憫に思った俺の父が正妻を説き伏せたのか謝り倒したのか知らないがこの家に引き取られてきた。

 兄の母は俺を見ると俺の母を思い出すらしく、俺に冷たかった。そんな母の意思を飲んだのか、兄も俺を見ることなんてなかった。

 俺のことを決して見ない兄は、綺麗だった。

 聡明で、運動神経も抜群。いつもきらきらと輝いているように見えた。俺は憧れながら、決して俺を見ない兄に対して何処か諦念を抱いていた。できれば、同じ腹の中から這い出てきたかったものだと何度、神に恨みを吐いたことだろう。

 そんなある日だった。不運にも、俺は事故に遭った。

 頭を強打したが、母親譲りの石頭のおかげで全治三ヶ月の傷を負っただけで全く障害が残らなかった。

 ただ、悪戯心だったのだ。

 奇しくもその日がエイプリルフールだったのだ。

 血相を変えて病院にやってきた兄に「お前は、誰だ?」と言い放ってしまったのだ。最初は、エイプリルフールの慣例に従い、午後にはネタばらしをする予定だったんだ。

 

 兄がその嘘を真に受けて、俺のことを甘やかし始めさえしなければ――。

 

 いや、マジで心地よかったんだ。今まで俺のことを見向きもしなかった兄がじーっと俺を見て、とても優しい声で自己紹介をした。

 前述したドロドロとした俺たちの関係には一切触れずに、尚且全く違和感を抱かせないように「父が俺をものすごく気に入って母親の反対を押し切って孤児院から俺をもらってきた」だの説明をする。更にニッコリと笑って、「大丈夫だよ。血がつながっていようがいまいが、俺はお前の兄だからね」と微笑む。間違いなく女子だったら兄に対して禁断の恋心を抱いていただろう。ってか、俺が抱き書けたわ。

 それから、入院中は一日も欠かさずにお見舞いに来てくれるだろ。

 毎日そこそこな値段がするお菓子を持ってきてくれるだろ。

 面会時間ギリギリまで勉強を見てくれたりニコニコしながらだべってくれるだろ。

 え、最高の兄かよ。

 

 最高の兄と過ごす日々が心地よすぎた。ネタばらしをするには惜しいくらい心地よかったんだ。

 若紫と光源氏の話は多分、俺が記憶喪失前の得意教科が古文だったからピックアップしてきたんだろうな。

 ってか、この二人って生涯に渡って愛し愛されの仲だろう?

 

 明日になったら清水の舞台から飛び降りる勢いで聞いてみようか。

 

 俺、一年前から記憶喪失じゃなかったとしたらどうします? って。

 大丈夫。どうせ本当に清水の舞台から飛び降りたって死にやしないんだから。

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