一息

あいうら

いつまでも

体調はいかがですか。


手紙を書くのは何年ぶりでしょうか。


というより、恥ずかしがり屋の私は、あなたへ書いたことなんてなかったかもしれません。


幼少期の頃、あなたはとにかく頼もしかったです。


早くにお母さんを亡くした私は、夜泣きが多かったと聞きました。


あなたもきっと寂しかったはずですが、私に暗い顔は一度も見せませんでした。


夜中に泣き喚く私を、ずっとあやしてくれたそうですね。


朧気ながら、あなたのごつごつとした身体の中が、どこよりも安心できる場所だったのを覚えています。


日中はおばあちゃんにお世話をしてもらっていましたが、お風呂と寝かしつけは、必ず仕事から帰ってきたあなたがしてくれていましたよね。


いつだって明るく前向きなあなたは、私にとってヒーローでした。


十代の頃は、よく反抗してしまいました。


まだ不登校が珍しい時代に学校へ行かなくなった私に、行きたくなければ家にいていいと、居場所をくれました。


お風呂上がりのあなたに、生意気にも「臭いから近づかないで」と言うと、おどけた顔をして「お前と同じシャンプーだよ」と一言。


部屋で膝を抱える私を「服買ってあげるから買い物行こうよ」と、外に連れ出してもくれましたね。


あなたのサポートのおかげで、何とか学校に復帰した私は、順調に大学まで進学し、無事社会人になりました。


憧れの保育士として働き始めましたが、大変な仕事に当初は打ちのめされていました。


学校すら毎日通えなかった私に働けるわけがないと、弱気になっていたのです。


そんなときもあなたは、夜遅くまで愚痴を聞いては「よく分かるよ」と共感してくれました。


「あと少しだけ一緒に頑張ってみよう」という励ましを支えに、何とか働き続けていると、辛いだけだった仕事に楽しみを見出せるようになりました。


長い間、娘のために働き続けてくれたあなたの偉大さを、本当の意味で理解できるようになったのは、きっと最近になってからです。


あなたがアルツハイマー型認知症を発症したのは、私が仕事に慣れ始めた頃でした。


私は思い出したかのように親孝行に励みました。


でも、病気は想像以上に早く進行し、今では私が誰なのかさえ分かっていないでしょう。


時間の経過というものは残酷ですね。


今のあなたは、とても小さく見えます。


あんなに頼もしかったのに、その細い腕は、私が少し力を入れただけで簡単に折れてしまいそうです。


あのときのヒーローはもういません。


本当のあなたはどこか遠くへ行ってしまって、代わりに知らない人が勝手にあなたの身体を使っているような、そんな感覚です。


実は明日、私は四十歳になります。


もう若くはありません。


老いを感じることも増えてきました。


もう大人にならないといけないのはわかっているのです。


でも、正直に言います。


また、あの頃のお父さんに会いたいです。


一晩中身体を包み込んで、寂しさを紛らわせてくれたお父さん。


どんなに反抗しても、無償の愛で受け止めてくれたお父さん。


私のため、愚痴もこぼさずに働き続けてくれたお父さん。


まだ、あなたの子どもでいさせてください。甘えさせてください。


あなたに育ててもらった時間が、今でも心の拠り所なのです。


お医者さんから、そろそろお父さんとはお別れだと言われました。


お父さんが、一人で天国までいけるのか心配でなりません。


昔から方向音痴なお父さんは、同じ道を行ったり来たりしてしまうのではないか。


病気の影響で頭が真っ白になって、何をしていたか忘れてしまうのではないか。


焦りながら小走りでさまようお父さんを想像すると、私が付き添ってあげたくなります。


でも、そんなことは望んでいないでしょう。


私にその時が来るまで、どうかお元気で。


私はいつまでも、あなたの子どもです。


***


ふいに彼女から渡された古い手紙を読んでみて驚いた。


「もしかして、吉原さんが書いたんですか?」


僕は大きな声でゆっくりと尋ねたが、彼女は返事をしなかった。


僕のことをお父さんだと勘違いしているのかもしれない。


少し恥ずかしがっているように見える。


お父さんもアルツハイマー型認知症を患っていたとは。


訪問介護で多くの患者を見てきたが、親子で罹患するケースはそう多くない。


吉原さんは縁側まで歩くと、今度は居間に戻ってきた。


かれこれ三十分以上そうやって家の中を動き回っている。


「お父さん、きっと喜んだでしょ」


向かいに置いてあった彼の遺影と目が合った。


吉原さんは、それが誰なのかもう思い出すことができない。


「うふふ」


でも、お父さんの話になると、なぜだか彼女は、子どものように笑うのだ。

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一息 あいうら @Aiura30

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