第三章 君の心に道化がある限り #5

 僕は、走って、走って、走りまくった。黒野も見つける。それから、母も説得する。これを明日のコンクールの出番までにしなくてはならない。時間との戦いだった。

 僕は必死で下水道の中を駆ける。といっても、構造なんかわかりっこないので、「行きたいところへたどり着ける」ということを信じて、がむしゃらに走るしかない。僕は一心に、黒野のことを考え、想い、祈り、願いながら走った。僕は全く持久走は得意ではない。走れば走るだけ、疲れの蓄積に比例して、暗澹とした気持ちが折り重なっていき、この世の全てが嫌になってくる。一生このままなんだ、とか、永遠に救われないんだ、とか、そういう気持ちで押しつぶされそうになる。

 でも、黒野のことを考えている限り、僕はそんなネガティブな思考に邪魔されることはなかった。心の中が澄み渡っているようだった。思えば、僕は誰かのためにこんな素直な気持ちになれたことはない。僕は、自分にこんなまっすぐな感情があるとは知らなかった。

 そんな気持ちに支えられて、僕は下水道の中を賢明に走った。走った。走り回った。どれだけ時間が経ったかはわからない。でも、黒野がこの下水道で過ごした半年間には及ばないだろう。その思いが、僕をより一層、駆り立てる。

 が、どれだけ気持ちが上振れていようが、肉体の限界は必ずどこかで訪れる。

 僕は立ち止まり、壁に手をついて呼吸をした。黒野は見つからない。どんなに多くの角を期待を込めて曲がっても、黒野は現れない。次こそは、次こそは──と駆け、そして、闇。そんな裏切りが何十回と繰り返される。

 しかし、それは当然の帰結かも知れない。この下水道は、行きたいところへ辿り着くための場所だ。行きたくない場所へは行かないようになっている。

 僕がいつまで経っても黒野のもとへ辿り着けないということは、きっと、黒野は僕のところへ来たくないと思っているに違いない。

 いや、ダメだ。そんな後ろ向きの考えを吹き飛ばすように、僕は走る。今まで摂取してきた、父の分のカロリーも全て回すんだ。僕は心の中で必死に呼びかける。お父さん、僕に、黒野を見つけるまで走り続けるだけのエネルギーを下さい。力を下さい──。

 無理な話だ。エネルギーは脂肪によって蓄えられる。その脂肪をそぎ落とすために、僕は無駄なトレーニングをこなしてきたのだ。そのことに思い当たって、僕は気が遠くなった。そして、立ち止まり、そのままうずくまってしまった。全身の筋肉が限界を迎えていた。

 ひとまず、休もう。僕はそう思って、いつかの黒野がしていたように、その場に寝転がった。普通なら病気になるレベルで汚い下水道で横になるのは、スリリングだった。黒野はこうしてお腹を撫でろ、と言ってきたのか。奔放だな。僕は思い出す。あの、病的な身体の薄さも、小さな温もりも。まあ、セーラー服越しだけど、あれはきっと毛皮の手触りなんだろうな──。

 毛皮? 何を言ってる、まるで、黒野が猫みたいに。まだ猫と決まったわけじゃない。人の姿をしているじゃないか……にわかにドキドキしてきた。顔がじんと熱くなる。人じゃん。人だ。黒野って人ですよねと、僕は頭の中のクラウン氏に語りかける。

『君はどうして、頑なに黒野は人だって決めつけるんですか?』

 脳内クラウン氏はそう問うてきた。僕は面食らった。

『何でって、そりゃ。クラウンさんが猫って決めつけるからですよ』

『ふむ。なるほど、つまり、私が黒野が人だと言えば、猫だと言い張るつもりですね』

『そうですね。だって、そうすれば』

 黒野のことをずっと考えていられるから──と答える意識は、瞼の裏、昏いところに吸い込まれて、消えた。


 目が覚めた時、刺すような悪寒が僕の全身を駆け巡った。

 眠ってしまっていた。疲れが出たのだ。今、何時だ? 僕は急いでスマホを見た。

 五時四一分だった。

「やってしまった……」

 学校の集合時刻は六時だった。残り十九分では、黒野を見つけて、母にコンクールへ来てもらい、部活に顔を出すことは不可能だ。ひとつだってできっこない。でも、僕がソロをやり遂げるには、その全てが必要だった。

 僕は必死で頭を働かせる。少なくとも、部活への遅刻は確定だった。もう、これはどうしようもない。今まで積み重ねてきた練習を信じて、会場集合時間の九時到着を本当のデッドラインとする。そうすると、三時間程度の猶予ができる。

「……まだ間に合う」

 僕はメッセージアプリを開くと、安藤に通話をかけた。心配そうな声が聞こえてくる。

「もしもし、伊庭……どうしたの」

「ごめん、集合時間に間に合いそうにない。現地集合になるかも知れない。先輩に伝えてもらってもいい……?」

「え、それって……お母さんのことで?」

「うん。ちょっと説得に失敗しちゃって。でも、大丈夫。必ず行くから」

「……わかった。絶対に来てよ」

「……ああ」

 通話を切って、僕はほっと息を吐く。ありがたさに涙が出そうになる。事前に安藤に事情を打ち明けておいて、本当に良かった。

 ふと、川辺で安藤が僕のソロパートをそらで吹いていたことを思い出す。黒野があの日、「聞こえたから」と言って外に出たがったのは、その旋律を耳にしたからかも知れない。黒野の敏い耳がメロディを聞きつけて、僕を安藤に導いてくれた。

「黒野……」

 そんな彼女が、今、孤独に終わりを迎えようとしている。駄目だ。そんなの絶対に駄目だ。

 僕は決意を込めて立ち上がると、また、足を進め始めた。

 僕は一生懸命に走った。走れば走るほど、時間が経てば経つほど、疲れと共に不安が降り積もった。僕は間違えているんじゃないのか? 別の道があったんじゃないのか? もう諦めてしまった方がいいんじゃないのか?

 嫌だ。僕は黒野にも、母にも、僕のトランペットを聴いて欲しい。

 父さんの遺してくれたものに報いるために。

 そんな強い意志も、やがて意固地に変わっていく時間の無常さに、僕は打ちひしがれそうになる。やがて、ついに走れなくなってしまった。僕は壁に手をついて歩きながら腹を抑える。

「お腹……空いたな……」

 僕は昨日の昼から飲まず食わずで動き続けていた。着ている制服はこびりついた汗でべっちょべちょだった。着替えて、シャワーが浴びたかった。今の状態で、黒野に会っても「や!」って拒絶されるかもな。そうしたら、死んでしまうかも知れない。冗談でなく。

 ふと、微かな光が視界にちらついた。手にもったランタンとは、違う種類の明かりだ。

 排水口だった。

 僕の足は自然と走り出した。ようやく見つけたのかも知れない。黒野がそこにいるかも知れない。僕は、ろくに向こう側を確認せず、排水口のフタを押す。

 何の抵抗もなく開かれたその先は──僕の家の居間だった。

「……そんな」

 僕は半日前に飛び出していってからそのままになっている居間を見て唖然とした。そんなオチがあっていいのか? ここまでやって灯台下暗しエンドなんて、とんでもない駄作になってしまう。

 いや、駄作でいい。僕の物語なんか、駄作でいいから、ただ黒野に会わせて欲しかった。

 僕は靴を居間に投げ入れて、排水口をまたいだ。高ぶる心臓を抑えながら自分の部屋へと向かう。

 頼む、頼む、頼む、いてくれ、いてくれ、いてくれ、何事も無かったように、平然とした顔で僕のマンガを勝手に読んでいてくれ。僕に突っ込みをさせてくれ。それで笑ってくれ。ふふって、無口のキャラが、物語の終盤でようやく見せるエモい感じで──。

 祈りながら、僕は自分の部屋の戸を開いた。

 そしてなんと、そこには、ベッドに横たわってマンガを読む黒野の姿がなかった。

 黒野の姿はなかった。

「そりゃそうだよな……」

 僕が確実に来るような場所にいるわけないか。火星の地表みたいに乾いた笑いが出た。喩えのスケールも、随分遠いところまで行ってしまったようだ。喪失感が加わった分、空腹がギリギリとした痛みを伴ってきた。

「……黒野、僕、お腹空いたよ」

 僕はぼやいて、居間へと引き返した。涙が出てきた。

「お母さん……お腹、空いた……」

 母はまだ眠っているようだった。いずれ起こして、コンクールに来てくれるよう説得しなくてはいけない。そんな勇気が出るだろうか。いや、やらないと──。

 僕はガタガタの気分で台所へ行った。そこへ行きたかった。何故なら、そこにはいつも、要らないほどの量の料理が用意してあるから。

 そう、こんな最悪な時だって。

「あ──」

 僕は息を呑んだ。そこには、僕が大好きな二つのピラフの皿がぽつんと置いてあった。

 僕はすぐさまスプーンを出して、二つとも居間のテーブルに持っていって、一目散に食べ始めた。おいしい。おいしかった。母のピラフは、世界で一番、おいしかった。空腹で仕方が無かった身体に、絶対的な幸福がみるみるうちに注ぎ込まれていった。そして、無性に泣けた。

「えぐ……ぐ……お母さん……」

 突然、湧いて出た米粒に押し出されるように、目から涙がボタボタとこぼれ落ちた。僕は泣きながら自分の分を完食し、続けざまに父の皿まで手を伸ばした。

 その瞬間、前触れもなく、居間の扉が開いて、母が入ってきた。

「えっ……」

「あっ、都月、こんな朝早くに珍しい──って、どうしたの……そんなに、泣いて……」

 母は驚いたように言った。昨日のことなんて、すっかり忘れたような様子だった。僕がコンクールを見に来て欲しい、と言ったことも夢の中に置いてきてしまったのだろう。

 でも、そんなことはどうでも良かった。僕は母の顔から目を外せなくなった。

「いや……その……これが、おいしすぎて……それより──」

 僕は涙が流れるままに、母を見て、言った。

「どうして、お母さんも、泣いてるの……」

「え? あ、やだ……」

 母は自分の目元を拭って、細い声を漏らした。慌てたように、家電の傍らのティッシュを取って鼻を噛む。

「悪夢を見て……まあ、いつもそうなんだけどね……今日は、パパが死んじゃう夢で──それが、あんまりにもリアルで、どうしてもね……」

 ──それは、夢じゃないんだ。

 喉から出かかった言葉を、僕はピラフを嚥下して妨害した。違う。今、言うべきはそんなことじゃない。僕なら、わかるだろ。今の、母に何を言うべきか。

『けど、そこにどれほど真実がある?』

 僕は、父が死んだのは音楽のせいではないと知った。けど母にとって、そんな真実が何になる? 父が死んだという現実は覆せない。

 だとすれば、本当に必要なのは真実じゃない。

 母は、僕と同じだ。周りの大切な人が失われていく悲しみに、身を窶しているたったひとりの道化なのだ。母が僕と同じなら、僕が言うべきことは……たったひとつ。

 それは、黒野が教えてくれたことだった。

「お母さんは……つらくないの?」

 母は「え?」と言って、赤くなった目で僕を見た。

「なに、突然……」

「その……毎日、怖い夢見るとか、いうの」

「そんな、大袈裟なことじゃないよ。大体、起きて少ししたらさっぱり忘れちゃうし、平気。都月が心配するようなことじゃないの」

「そんなことは置いといて」

 僕は手元の空気を両手で挟んで、ぽいっとどこかへ放り投げた。誰かに似て、下手っぴなパントマイム。母は呆気にとられた様子で、ぽいっと投げられたそれを目で追う。

「放り投げちゃった……」

「お母さんはつらくないの」

「つらくないのってそんなの──」

「僕になら……言って良いんだよ」

 僕は後押しするように、そっと言った。

 すると、母は突然、自分の居場所がわからなくなったように家の中を見渡すと、いてもたってもいられないという風に僕の方に歩み寄って、僕の身体を抱き寄せた。長らく感じていなかった母の温もりが、顔に広がった。

「ごめんね、本当はつらいの……お姉ちゃんが死んでから、いつか、突然、あなたや、パパや、陽平が、いなくなるんじゃないかって、いつも、怯えてて……どうしようもなく、怖くてしょうがなくて……眠れない夜もあるの。そうなった時は、たまらなくつらい……」

「それは……僕も同じだよ。僕もお母さんがいなくなるのが怖いんだ。だから、僕はいつも不安で──」

 僕は、子供みたいに言った。母はそんな僕の頭を、慈しむように撫でる。

「そう、だよね……ごめんね……こんな、弱いお母さんで……」

「ううん、聞けて、良かった。お母さんが、自分の気持ちを隠さないでいてくれて。僕のこともいなくならないで欲しいって、思ってくれてるってわかって、良かった」

「……都月」

 母は僕の名を呟くと、もう一度強く抱いた。

 母が苦しんでいたのは、お姉さんや父の喪失ばかりではない。僕や兄貴までも、いなくなる可能性を恐れていた。だから、僕は母が安心するまで、肌を通して、僕がそこにいることをちゃんと伝えてあげた。僕はその熱に触れながら、赤ん坊のように目を閉じて身体を癒やした。

 ──天からの光がきっと君を導くことでしょう。

 その時、クラウン氏の声が天啓のように脳裏に響いた。

 僕は目を見開く。窓の外は既に明るく、カーテンの隙間から朝の光が差し込み、空気を温め始めている。

「天からの光……」

 時計を見ると、もう少しで八時半に差し掛かるところだった。もう、会場に向かわないと決定的に間に合わなくなる時間──なのに、僕はその瞬間になってようやく黒野の居場所がわかった。

 行かなくちゃ。もう、僕は赤ん坊じゃない。もうとっくに自分の脚で立てるくらい成長したのだ。僕には僕の、やるべきことがある。

「お母さん」

 僕は母から身を離すと、改めて向き直って言った。

「実は今日はコンクールの本番なんだ。僕たちは、お父さんが好きだったあの曲をやる。僕がソロをやるんだ。今日のために華礼と一緒に、めちゃくちゃ練習してきた。お母さんには……絶対に聴きに来て欲しい」

 僕は敢えて、父が好きだった、と過去形を使った。途端に、強い「終わってしまった」感じが漂う。それでも、今なら届く気がした。

「えっ、今日本番? そうなの、大変……時間大丈夫なの?」

 すると、母は慌てたように僕の顔を覗き込んだ。突然の母親らしい言動に、僕は呆気にとられてしまった。

「えっと……聴きに来てくれる?」

「もちろん。都月がソロやるなら、聴きに行くに決まってるじゃない。それに、パパの好きな曲ってあれでしょ? ──♪ ってやつ」

 母が鼻歌で歌ったのは、まさに僕がやる予定のソロ部分だった。僕は背中にぶわっと鳥肌が立つのを感じた。通じている。母の中で、吹奏楽を受け入れる心が戻ってきている。

「それ! そうだよ!」

「そうでしょ。あの人、あの作曲家の曲の中でも、あれが一番好きだから。……というか、都月、時間は大丈夫なの? もし、大変そうなら車出すけど」

 今の時間なら、車を出してもらえば現地集合に余裕を持って間に合うはずだ。

 でも──僕にはもうひとり、招待しなければいけない子がいる。僕は迷わず答えた。

「大丈夫。チャリでぶっ飛ばして行くから」

「ええ? 元気ねえ……事故には気をつけてよ。それで、都月の高校は何番目の演奏なの?」

「一番! 出番、十時十五分!」

「えっ──」

 絶句する母を尻目に、僕は玄関まですっ飛んでいくと、チャリキーを取って家を出た。

 普段、全く使わず放置していた自転車に乗り込み、全力でペダルを踏んづける。タイヤの空気が抜けているのか、フィットネスバイクの最大設定並に重たかった。上等だ。僕は歯を食いしばり、朝の町を駆けた。

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