第三章 君の心に道化がある限り #4

 コントのオチがついた。終演だ。

 しばらく、僕は目をつむって、胎児のように丸くなっていた。僕は赤ん坊に戻りたかった。まだ、母がいて、父がいて、兄貴がいて、伯母さんがいて、叔父さんがいて、華礼がいて……僕を見守っている。幸せだった頃。ハッピーデイズ。でも、僕はこの姿勢が苦しくなってきた。怖くなってきた。

 母を助けるために真実を探りに来たら、黒野が現われてしまった。僕の道化は全て、この道に繋がっていたのだ。

 そんな僕の意識を啓くように、ガチャリ、と車の扉が開く音がした。僕は目を開けて、そちらを見やる。クラウン氏が僕を轢いた車から降りてくるところだった。

「黒野の命が短いこと、とっくに気がついてると思いましたが」

「……気づけませんでした」

 僕は罪の告白でもするように、言った。黒野の全然体力が持たないのも、排水口をじっくり覗かないのも、食欲がなかったのも、すっかり痩せてしまっていたのも、全部、そういうものだと思っていた。本当はどれもこれも、老いによる衰弱のせいだったのだ。

「黒野は十七歳です。野良猫としてはかなりの高齢ですね、お父さんの事故があった去年頃から、病を持っていたのでしょう」

「……十七歳だから、高校生の姿を」

「猫の尺度で言えば高齢ですが、生きた時間が十七年という点では変わりませんから」

 聞いてしまえば簡単な話だった。簡単過ぎて察することもできない。僕は深く息を吐いた。長い間、止まっていた水道を動かしたような、汚れた空気が僕の肺から出ていく。

「黒野はあと、どれくらい生きられるんですか」

「どうでしょうね。わたしと出会ってから半年以上経っていますが、もういつ斃れてもおかしくない」

「半年……僕のソロをホールで聞いたって言ってましたが、そんなに前から、ずっと……」

「地区大会でしょう。その時期の黒野はもうずいぶん弱っていて、もうじき死んでしまうと思っていました。自分の死に場所を見つけることもなく」

「え」

 僕は思わず、身を起こした。クラウン氏は驚いたように、一歩、優雅にステップする。

「おっと?」

「黒野が探していたのは、死に場所だったんですか……?」

 てっきり、命の恩人である父を探しているのだと思った。

「これまた、わかっているものかと……しかし、これはわたしの、いや、人間流の解釈であって、厳密にはそうではないでしょうな。黒野は正直ですから、死に場所を探しているなら、必ずそうと言います」

「黒野は『自分の探してる場所はわからない』って……」

「瀕死の猫が、人前から姿を消すのはどうしてだか知っていますか」

「いえ……死体を見られたくないからですか」

 僕は猫に詳しくない。でも、精一杯考えてそう言うと、クラウン氏は「違います」と丁寧に否定した。

「一説によれば安心できるところに隠れたいからですよ。猫には、自分が死ぬということがわからない。ただ漠然と、気持ち悪いことが自分の身体に起きている、という苦しみから逃れるために、ひとまず外敵に見つからない安全なところに身を隠すそうです。愛されたイエネコなら、飼い主にしきりに甘えてくるそうですね」

「……それで求めたのが、父のところだった、というわけですか」

「危機があった時、守ってくれた記憶があったのでしょう。今回もそこへ向かえば、この苦しさもどうにかなると思ったんじゃないでしょうか」

「でも、そこには僕しかいなかった……父の半分でしかない、僕しか……」

 声が震えた。ただ、それだけで喉が詰まって、泣きそうになる。

 しかし、クラウン氏は心底怪訝そうな顔をして、首を傾げた。

「ええ、伊月クンしかいなかったのは事実ですが、それが何か問題ですか?」

「え?」

「黒野が探していたのは、お父さんではなくて、死に場所ですよ。君、黒野によく懐かれていたじゃないですか。部屋ではあんなことやこんなこともして──黒野は随分、苦しみを和らげられたんじゃないですか? 楽になっていたんじゃないですか? それくらい、君の黒野への想いは通じていたんじゃないですか?」

 今日の朝、出かけようとする僕を寂しそうに見上げる黒野の上目遣いが、フラッシュバックする。

「お父さんが黒野を庇って亡くなり、病身の黒野がその影を追って下水道を半年さまよっていたのは事実です。しかし、重要なのはそこではないでしょう。肝心なのは、黒野にとって安心できる場所が、最終的に、あなたであったことなのではないですか? そこに偽りだとか、代替だとか、下位互換だとか、そんなのはまるきり関係ない話なのではないですか?」

 黒野は、自分の探している場所は「その時になればわかる」と言っていた。「その時」というのは、まさに死が近づいてきた時、いまはの際だと考えれば──。

 そう思い至って、ようやく僕は理解した。

 黒野が半年間、暗い下水道を歩いて歩いて、探して探して、ようやく見つけたのが、僕の傍だったのだ。

 なのに、僕が拒絶したと思って、黒野はその居場所を失ってしまった。

 そうして、黒野は再び下水道をさまよい歩き──誰もいない、知らないどこかで、ひとりぼっちで息絶える。

「黒野……!」

 そんなイメージが頭を過って、僕は思わず叫んだ。なんて僕はバカなんだ。僕も、母と同じだ。父の死に向き合うことができなくて、母が音楽のせいにしたように、僕は一瞬でも黒野のせいにしようとしてしまった。その迷いが、黒野の最後の時間を孤独に追いやってしまった。

 バチン! と凄まじい音が響いた。クラウン氏の指パッチンだった。

「そうです、だから、黒野を探すのです。探して探して、探しまくるのです。その先にきっと、お母さんの行き詰まりを解消する何かが、きっとあるはずです。これは君にしかできないことなんですよ!」

 クラウン氏が言った。激励だった。僕はクラウン氏も、自らが配置されたゲームで『ジョーカー』の役目を精一杯果たそうとしているのだと気がついた。僕のために、母のために、黒野のために──父のために。

 僕は目元が熱くなっていくのを感じた。

「すみません、クラウンさん……僕、黒野を探します。それで……役目を果たします」

「ええ。最後に……ひとつだけ」

 クラウン氏は指を一本、立てて言った。

「目、口、耳、舌、鼻……人の五感で最も優れた感覚器官は、どれだと思いますか?」

「えっ、ここに来て嬉クイズ……?」

「いいえ、戯れ言です。私は『耳』だと思っています。太古の昔、生命が海から陸に上がった時、環境的に最も大きく変化したのは音の伝達と平衡感覚です。陸生生物は生き残りをかけて、陸上に対応した中耳と呼ばれる部位を生み出し、最新式の『耳』を作り上げた。『耳』は最後にできた感覚器官なのです。ゆえに……音は、最後まで残る」

 音は、最後まで残る。どういうことだろうか。意味を掴みかねる僕に、クラウン氏は高らかに宣言する。

「時間を取らせました。天からの光がきっと君を導くことでしょう。それでは、行きなさい……伊月クン!」

 かざした手と共に、周りを照らしていた灯りがさっと消えて、辺りは暗黒に包まれた。あまりに突然真っ暗になったので、僕は思わずふらついて壁に鼻の頭から激突した。

「ああ、くそいってえ……」

 涙が出るほど痛かったが、これは黒野のための涙だ。かろうじて耐えた。

 どうやら、事故現場の道路から下水道に戻ってきたらしい。明かりもない下水道は本当の闇だ。また壁に激突するのは嫌だった。どうしようかと途方に暮れていたら、視界の端に光がちらついた。もしやと思って、壁を手で伝うようにそちらへ向かうと、書物机のある部屋があって、机の上には僕がいつも使っているランタンが置いてあった。

「良かった……」

 これでなんとかなる。僕はランタンを持って下水道を走り始めた。

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