優等生の着地点

三鹿ショート

優等生の着地点

 学生時代の彼女に勝利することができる人間は、皆無だった。

 学業成績は学校内のみならず、全国的に見ても屈指のもので、難関の大学も易々と合格することが可能だと言われていた。

 運動能力もまた他の追随を許さず、部活動の主将が加入を懇願するほどだったが、彼女は特定の集団に属することはなかった。

 だが、彼女は自身の優れた能力を自慢するような言動をすることはなく、目上の人間には敬意を払い、同年代の生徒には笑顔を振りまき、後輩には頼ることができる存在として振る舞っていた。

 学校を卒業した後の動向は不明だが、私のような底辺の人間とは異なり、順風満帆の日常を過ごしていることだろう。

 だからこそ、昼間から公園で酒を呷っている彼女を目にしたとき、現実を受け入れることができなかった。

 強風が吹いているわけではないが髪の毛は乱れに乱れ、何時洗濯したのか分からないような異臭を放つ衣服を着用した彼女の足下には、大量の空き缶が転がっている。

 通りかかった人間が彼女に対して漏れなく嫌悪の視線を向けているが、彼女は何処吹く風とばかりに、飲酒を続けていた。

 かつての栄光など微塵も感じさせないその姿を見て立ち尽くしていると、不意に彼女は身体を折り曲げ、嘔吐を開始した。

 そのまま地面に倒れ込んでしまったため、私は思わず駆け寄り、彼女の背中を摩りながら声をかけた。

 名前を呼んだことで知り合いなのだと気が付いたのか、彼女は私の名前を問うた。

 私が名乗ると、彼女は口の端に黄色い液体を付着させながら、笑みを浮かべた。


***


「ありがとう、綺麗になりました」

 浴室から出てきた彼女は、美しさを取り戻していた。

 あまりにも汚らしかったため、私は彼女を自宅に誘い、風呂に入らせたのである。

 蘇った美貌と風呂上がりの姿に、私の心臓が激しく動き始めた。

 これから何が起こるわけでもないが緊張している私を余所に、彼女は冷蔵庫から勝手に酒を取り出すと、平然と飲み始めた。

 酒を片手に、彼女は懐かしむような口調で、

「何年ぶりでしょうか。学生時代と比較しても、外見にあまり変化はありませんね」

「そういうきみは、随分と変わったようだ」

 言っていいものか悩んだが、私は彼女にそう告げた。

 だが、彼女は特段気にする様子も見せず、首肯を返した。

「自堕落な生活を送っています。学生時代の私を知る人間からすれば、信じられないでしょうね」

「何故か、訊いても構わないか」

 私がそう問うと、彼女は手にしていた酒を一口飲んでから、

「よくある話です。私は、挫折したのです」

 彼女は自嘲の笑いを漏らしていた。


***


 彼女の人生が順調だったのは、学生時代までだった。

 勉学に精を出していれば周囲から持て囃されるほどの成績を得ることができていたが、社会に出ると、話は変わった。

 彼女は、仕事が出来なかったのである。

 誰もが驚くような企画を生み出すこともできず、営業では相手を納得させるほどの話術を披露することもできず、そもそも仕事をその日のうちに終えることができなかった。

 彼女の優秀な成績を見て雇った会社側も誤算だったらしく、当初は彼女を使い物にすべく教育を熱心に行っていたが、それが意味の無いものだと知ると、見放された。

 居心地が悪くなったために彼女は退職したが、他の職場でも、同じことを繰り返した。

 やがて、彼女は自身が社会にとって不要なのだと理解したらしい。

 そのことが、彼女に自堕落な生活を送らせるようになった原因のようだ。

「永遠に学生であれば、どれほど幸福だったのでしょうか」

 彼女は二本目の酒を開けながら、そんな言葉を漏らした。

 皮肉なものである。

 学校の誰もが憧れる存在だった彼女が、今では誰からも見下される存在と化している。

 一方で、学校では落ちこぼれだった私が、彼女には出来ない普通の労働というものをこなしている。

 人生は何が起こるか分からないが、これでは彼女があまりにも不憫ではないか。

 同情のようなものが芽生えたと同時に、彼女は手にしていた酒を机上に置くと、不意に自らの衣服に手をかけた。

 雪のような白さの肌が露わになり、私は思わず顔を背けてしまった。

「何のつもりだ」

 声を出す私に構わず、彼女が傍らに座った。

 私の手を取ると、彼女は布に包まれた自身の胸部を触らせる。

 柔らかな感触に驚き、私は彼女に視線を戻した。

 相手を見た瞬間、私の劣情は鳴りを潜めた。

 彼女の口元は緩んでいたが、その双眸からは涙が流れていたのだ。

 彼女は唇を震わせながら、

「私の価値は、もはやこれくらいしかないのです」

 悲痛な声を耳にした瞬間、私は無言で彼女を抱きしめていた。

 彼女は声をあげながら泣くようなことはなかったが、抱きしめた私にすがりつくように力を込めたことは分かった。


***


 それから私は、彼女と共に生活するようになった。

 幸いにも、彼女は家事をすることはできる。

 私の生活を支えてほしいと頭を下げると、彼女は受け入れてくれたのだ。

 それ以来、彼女の表情は明るくなった。

 元々笑顔を浮かべてはいたが、それは全てを諦めたことによるものだった。

 しかし、今の彼女が浮かべている笑みは、平和な日常というものを謳歌しているゆえのものである。

 目にするだけでどちらが幸福を覚えるかなど、言うまでもない。

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優等生の着地点 三鹿ショート @mijikashort

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