#36「橘 樹里」


「……なんか、前にもこんなやり取りがあった気がしますね」


 その、あさひの言葉を聞いた瞬間、はドキッと心臓が飛び跳ねたのを自覚した。


 彼の言う「前にも~」というのは、この前みんなで行ったプールのことを言っているのだろうか、それともずっと昔の記憶を思い出した……?


 樹里じゅりが呆然としながら旭の様子を窺っていると、不意に彼が首をかしげる。


「先輩? どうかしましたか……?」

「いや、なんでも。……そ、それより、ちょっと試着してきてもいいか?」


 意識の外から急に話しかけられ、樹里は慌てた様子で数着の洋服を見繕うと試着室の方へ視線を向けた。すると、旭が優しく微笑みながらこくりと頷く。


「はい。俺のことは全然気にしなくていいですよ」

「…………気にするに決まってんだろ」


 樹里は自分でも無意識のうちにボソッと呟いて、試着室に入っていく。


 ……気にしないなんて無理だ。だって、今日は樹里にとって勝負の日なのだから。


 試着室のカーテンをピシャリと閉めた後、樹里はドキドキと拍動する胸を抑えながら肺に溜まった空気を一気に吐き出した。


 試着室の鏡に映るのは、可愛い服を着た可愛くない自分。


 今日この服を着てくるのにどれだけ覚悟が必要だったか、彼は知る由もないだろう。


 怖くて、恥ずかしくて、不安で……。待ち合わせの場所に向かうまで何度も逃げ出したくなった。


 だけど、勇気を振り絞って彼に会って。


 そして彼の言った一言がすべての不安を取り除いてくれたのだ。


 じわりと胸の奥に広がる温かい気持ち。


 それは、ずっと前にも感じたことのある温もりだった――。



   ◆ ◆ ◆



 たちばな 樹里じゅりは小さい頃から男勝りな性格で、女の子と一緒におままごとをして遊ぶというよりは男の子に混ざってかけっこをしているような勝気な女の子だった。


 そんな樹里も小学校高学年になる頃には、周囲の女の子と同じようにファッションに興味を持つようになり、今まではオシャレなんて気にせず動きやすい服を好んで着ていたのが、年相応に女の子らしい可愛い服を着たいと思うようになったのだ。


 そんなある日、樹里は母にお願いしてチェック柄の可愛いスカートを買ってもらった。


 だが、そのお気に入りのスカートを履いて学校に行くと、みんなに笑われた。


「うわー、スカート履いてるー」

「全然似合わねぇー」

「おとこ女―」


 これまで一緒に遊んでいた男の子たちが面白がってからかってきたのである。


 今になって思えば、ずっと異性だと意識せずに遊んでいた友達がいきなりスカートを履いて来たのだから、あの年齢の子供であればからかいもするだろう。


 しかし、当時の樹里はそれがとにかくショックで、それ以降スカートを履けなくなってしまったのだ。


 そして、幼馴染の花火はなび双葉ふたば凪紗なぎさが可愛い洋服を着ている中、樹里は自分の気持ちを押し殺してずっと地味な服を着ていた。


 そんなある日、年がファッション誌を眺める樹里にこう言った。


「樹里はこういうワンピースとか着ないの?」


 ファッション誌に映る綺麗なモデルさんを指差しながら少年が聞いてきたのだ。


「……いや、アタシには似合わないから。ほら、髪も短いしさ」

「そんなの関係ないよ、樹里が着たいと思った服を着ればいいんじゃないの?」

「でも……」

「それに樹里はどんな服を着ても似合うと思うけどなー。可愛いし」

「か、かわッ……⁉」

「うん、自分の気持ちに嘘吐く必要なんてないよ」


 彼のその一言が樹里を変えた、変えてくれたのだ。


 自分の好きな洋服を着る勇気はまだないけれど……彼の一言のおかげでずっと避けてきたスカートを履けるようになった。


 たったそれだけの、ほんの小さなことかもしれないけれど。


 樹里にとってはすごく大きな一歩だったのだ――。



   ◆ ◆ ◆



「…………」


 樹里は鏡に映る自分を眺めながらごくりと喉を鳴らした。


 白を基調とした上品な雰囲気があるショート丈のワンピース。ふんわりとした柔らかい素材に腕の辺りにフリルがあしらわれていたり、丸みを帯びた襟が特徴的で、ところどころに女の子っぽい可愛らしさが散りばめられた洋服だ。


 先ほど見繕ってきたものを早速試着してみたのだが、自分では似合っているかどうかなんて分からない。


 むしろ、この洋服を誰かに見せるとなると恥ずかしさすらあった。


 やっぱりこの服は辞めて、もっと地味なヤツにしようかな……と、思わず弱気になってしまう自分を振り払うように樹里はぶんぶんと頭を振る。


 樹里は決意したのである。


 彼の前では自分に嘘を吐かない、と。


「き、着替えたぞ……」

「ど、どうですか? 気に入りましたか……?」


 声を掛けると、カーテンの向こうから不安げに揺れる旭の声が聞こえてきた。


 もしかしたら、周囲に女性客が多いせいで一人で待っているのが心細かったのかもしれない。


 このまま待たせているのも可哀想と思い、樹里は意を決しておそるおそろカーテンを開いた。


「ど、どうだ……? 自分では似合ってるか分からないから……お、お前の感想を聞かせてくれ」


 と、言ったものの……彼から感想を言われるのかと思うと逃げ出したくなってしまう。


 ちら、と旭の方に視線を向ければ、旭は呆然としたまま沈黙していた。


 しばし、居心地の悪い空気が漂う。


 その間――。


 もし変だったらどうしよう……。


 やっぱりアタシには似合わなかったかな……。


 変なことするんじゃなかった……。


 と、そんな悪い考えばかりが頭を覆いつくしていた。


 やがて、沈黙に耐え切れなくなり樹里が先に口を開く。


「や、やっぱ何も言――」

「すごく似合ってると思います」


 その言葉を聞いた瞬間、じわじわと胸の奥が温かくなっていくのを感じた。


 樹里は油断すると緩んでしまいそうな顔を誤魔化すように口を開く。


「……お前、さっきからそればっかだな」

「えっ、す、すいません。細かいことはよく分からなくて、だから正直な感想を……」

「嘘だよ、ちょっとからかいたくなっただけだ」

「ちょ、ちょっと。そういうの良くないですよ……」

「ごめん。本当は旭が『似合ってる』って言ってくれてすごく嬉しかった……」


 素直な気持ちを口にした。


 すぐに誤魔化そうとしてしまうのは自分の悪い癖だ。


 せめて今くらいは正直な気持ちを伝えたかった。


「ありがとな」


 言うと、旭は照れ臭そうに頬を掻く。


「た、ただ感想を言っただけですけど」

「お前にとってはそうかもしれないけど、アタシにとっては特別なことなんだよ」

「特別……?」

「ああ。小学生の頃、旭が『自分の気持ちに嘘を吐くな』って言ってくれたおかげでアタシは変われたんだ。その言葉がなかったら、アタシは今でも自分の気持ちを押し殺したままだったと思う」


 旭が記憶を失う前も、きっとこんな小さなこと覚えていなかっただろう。


 でも、それでいいんだ。彼の何気ない一言が自分を変えてくれた。


 その事実だけで充分だった。



「だから、ありがとう」



 こうして、あの時のお礼をずっと言いたかったのだ。


 きっと、忘れてしまっているだろうから。



 ――お前は覚えていないかもしれないけど、アタシがお前に告白した日。今みたいにちゃんとお礼を言ったんだ。それと、「好き」と伝えた。自分の気持ちに嘘を吐きたくなかったから。



 でも、今は彼に「好き」と伝えることはできない。


 だって彼に迷惑をかけてしまうから。


 だから今だけは、自分の気持ちに嘘を吐くのだ。

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モブの俺がなぜか姉の友達からやたらとモテる件について 更科 転 @amakusasion

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