第32話 ある少女の悪夢




 少女はずっとずっと、暗い鳥籠の中に閉じ込められていた。

 でももう大丈夫。

 籠に鍵をかけていた女はもういない。

 少女はようやく本物の自由を手に入れたのだ。


『これをかぶって逃げろ。大丈夫だ、ここは俺が何とかする』


 そう言って、男は少女に薄茶色の上着を頭からかぶせてくれた。

 さらに男は少女の頭を撫でながら、言う。


『大丈夫だ。万が一にもおまえを犯人だと疑う奴はいない』


 少女はうなずいた。

 男に感謝しながら、その場から急いで駆けだした。

 全身に女の返り血を浴びていたけれど、人通りの少ない道を選んだこと、今日は祭りのせいで誰も通りすがりの者など気にしなかったことが幸いした。


 凶器のナイフを近くの運河に投げ込み、少女は何とか自宅アパートに辿り着く。

 そしてアパートの共用浴場で湯を浴びた。

 肌が真っ赤になるほど全身をこすり、証拠となる返り血を洗い流した。

 けれどいつの間にか目の前の視界がぼやけていることに、少女は気づく。

 流し湯のせいじゃない、

 少女の両の瞳からは、ぼろぼろと大粒の涙が流れ落ちていたのだ。



 そして疲労困憊な中、少女はそのままベッドに倒れ込み、失神するかのように眠り込む。

 目が覚めたのは、太陽がかなり上空にのぼってからのこと。

 ドンドン、という大きめのノックのせいで、強制的に叩き起こされる羽目になったのだ。


(誰……?)


 少女は慌てて、いつもの所定の位置につく。

 女がいなくなったのだから、もうこんな真似する必要ないのに。

 そう自嘲しつつも、もうしばらくは他人の目を欺く必要があるだろう。

 それもあと少しの辛抱だ。

 あの女が死んだのだから、これから何とでもなる。

 今まで通り病弱な少女を演じつつ、さも少しずつ健康を取り戻したかのようなふりをすればいいだけだ――


「おはよう、ニーナ」


 そう思っていた。

 あの法医術士だと名乗った美女が、衛兵隊を従えて自分の部屋に入ってくるまでは。





「昨夜、母親であるドナを殺したのは――あなたね?」

「――」


 



 あっさり自分が真犯人であることを見破られ、


 少女――ニーナは、ただただ絶句するしかなかった。





          ×   ×   ×





 マリアージュがアパートの管理人に鍵を借り、アルフらと共に部屋に押し入った時。ニーナはいつものように大きな乳母車に体を預けていた。

 薄く落ちくぼんだ目元のせいで、少女にしてはやや老けた印象に見える。それも今までの環境が全ての原因だろうと、マリアージュは心からニーナに同情した。


「歩けないふりはもうしなくてもいいのよ? あなたを縛り付ける母親はもうこの世にはいないのだから」

「……」


 窓から眩しい朝日が射しこむ中、マリアージュはニーナから少し離れた位置で微笑む。その背後には厳しい表情をしたアルフとユージィン、それに両目に涙をためたコーリーが立っていた。


「嘘……嘘だよね、ニーナ……」

「……」


 コーリーは未だニーナが犯人だとは信じられないようで、悲しげに声を震わせている。

 けれど、どれだけ否定しようとも事実は変わらない。

 マリアージュはコツコツと靴音を鳴らしながら、ゆっくりニーナに近づいた。


「実はね、わたくし、昨日初めてあなたに出会って診察した時から不思議に思っていたの」

「……」

「この子はどうしてって」

「……!」


 マリアージュの指摘に、ニーナは大きく目を見開く。

 まさかあの初対面時から、その可能性に気づかれていたなんて。

 もしかしたら……と思っていたけど、やはり超一流の医術士の目は誤魔化せなかったようだ。


「確かにあなたは平均より痩せているけれど、いわゆる骨皮ではなく下腿三頭筋――つまりふくらはぎの筋肉はしっかりしていた。ドナは気づいていないようだったけれど」

「……」

「だから一度医術院にいらっしゃいと誘ったのよ。もし本当に歩けないとしても、リハビリすればあなたは再び歩行可能になると思ったから」

「……」


 マリアージュに話しかけられても、ニーナは無言を貫いた。

 いや、まだだ。

 まだ誤魔化せる。

 この女が言っているのは、ただの推論に過ぎない。

 今まで通り病弱なふりをしていれば、きっと切り抜ける。

 ニーナは内心冷や汗を流しながらも、まだそう思っていた。


「けれどあなたは人前で歩きたくても歩けなかったのよね? 母親のドナに、ずっと毒を盛られていたから」

「っ!」


 そう言って、マリアージュは証拠品として押収した薬包を取り出し、ニーナの前に差し出す。薬包には【ガルメキア薬局】の判が押されていた。


「コーリー、ドナが所持し、フリッツが盗んだこの薬の主成分は?」

「は、はい。薬の中身はアルー山地に咲くドレビという花の根を粉末にしたもので、いわゆる神経毒……。主に呼吸困難、歩行困難、胸部の圧迫、麻痺、痙攣などの症状が現れます」

「………」

「でもマリアージュ様、どうして母親のドナが、娘のニーナに毒を盛ったりするんですか!?」


 とうとう堪えきれなくなったコーリーが、涙を零しながらマリアージュに問いかける。まさかマリアージュに任された毒の分析が、こんな場面で役に立ってしまうなんて。

 しかも母親が我が子に意図的に毒を盛るなんて、コーリーにはその目的が何なのかさっぱりわからない。

 マリアージュは至極落ち着いた声で、一つの正答を導き出した。


「ドナは代理ミュンヒハウゼン症候群という心の病に罹っていたのよ」

「代理ミュン……何とかって、なんだ、そりゃ?」


 ここまで口を噤んでいたアルフも、聞き慣れない専門用語を耳にして首を傾げる。同じくニーナもドナが心の病に罹っていたという事実に、少なからず衝撃を覚えた。


「まだこの世界ではあまり知られていないかもしれないけど、精神疾患には様々な症例があるの。そのうちの一つが代理ミュンヒハウゼン症候群。自分の子供が病気であるかのように詐称し、周りから同情と注目を得るのが主な目的よ。


『病気の子供に尽くす母親は偉大だ』

『苦労している母親をみんなで応援してやろう』


 周りからそんな優しい言葉をかけられるたびに、それが麻薬のように母親の精神安定剤になってしまうのね。だから再びその快感を得ようと、まずは子供の病気をでっちあげることから始まる。それがさらにエスカレートしていくと、ドナのように我が子に毒を盛り実際に動けないようにしたりするわ」

「じゃあニーナは……」

「10年前に原因不明の病気に罹ったというのは本当かもしれない。けれどその後は至って健康体だったのでしょうね」

「――」


 ドナの虐待行為が明らかになって、その場にいる誰もが絶句した。

 下町の住民達の前では、まるで聖母のような笑顔を振りまいていたドナ。

 しかしその心根は、母親としては到底あり得ないほど醜く歪んでいたのだ。


「あなたが毒を盛られていたという証拠は、他にもあるわ。ニーナ、あなたのその爪」

「!」


 指摘され、ニーナは反射的に爪を隠そうとする。が、マリアージュは容赦なくその手を掴み、じっくりと爪を観察する。


「このボー線は腎臓疾患ではなく、実は薬物によるものだった。それにあなたの血液を採取し詳しく検査すれば、長年蓄積しただろう毒の成分も検出されるでしょうね」

「……っ! ううっ、ううぅぅ~~……っ!」


 その段になってようやく、ニーナは低い唸り声をあげてマリアージュに抵抗し始めた。


 何なのだ。

 この女は、一体何なのだ。


 絶対誰も自分のことだけは疑わない自信があったのに、たった一つの薬が発見されただけで、いきなり窮地に立たされている。

 確かにニーナは10年前からあの薬を母に飲まされていた。


 『ニーナはいい子ね。このお薬を飲めばきっと良くなるわ』


 ひどい高熱で倒れ、体力が回復した後も、なぜか継続して薬を服用するように言い聞かせられた。

 その後突然体に力が入らなくなり、ニーナは乳母車での移動を強制された。

 でも何かおかしいと思いつつも、幼いニーナは母であるドナのことを信じていたのだ。

 

 こんな自分に献身的に尽くしてくれる母。

 こんな自分を愛してくれる母。

 

 そんな母はニーナの自慢でもあった。

 けれど。


「そしてあなたは母親から毒を盛られていることに気づいた。教えたのは――ドナの恋人のフリッツね」

「!?」


 その名を耳にして、強く引き結んでいるはずのニーナの唇の端から、奥歯の擦れる音がした。


 ――フリッツ。

 大好きな、フリッツおじさん。


 その名前を聞くだけで、ニーナは今すぐ泣きたい気分になる。

 そうだ、あの人がいなければ、ニーナは自分が鳥籠に囚われている鳥だと自覚することもできなかった。


「ドナとフリッツが付き合い出した時、あなた達三人の仲は円満だった。短い期間ではあったけど、とても幸せな時期だったのでしょうね」

「……っ」

「けれど事情が変わったのはフリッツがバセドウ病を発症した時から。フリッツはドナが毒を調達していた薬局に通うようになった。そしてドナがあなたに飲ませているのが実は薬ではなく、毒だと気づいたのね?」

「――」


 もうお手上げだった。

 たった一つの薬から、ニーナとフリッツの関係まで容赦なく暴かれる。

 フリッツがどうしても、ドナが所持していた毒を隠したかった理由がこれだ。

 ドナがニーナを虐待していた事実が明らかになれば、疑いの目は必ずニーナに向けられる。フリッツはそれを防ぎたかったのだ。


「ちなみにガルメキア薬局の経営者は、さっき逮捕されたよ」

「ひどい……。本来なら薬を売るはずのお店が毒を扱ってたなんて……」

「いや、世の中の悪なんて、大概そういうもんだぜ、コーリー」


 そしてマリアージュの言葉を補足するように、ユージィンとコーリー、アルフが裏取引で利益をあげていた薬屋の顛末を報告した。

 もちろん店主からは、ドナが定期的に毒を購入していたという証言も得ている。


「どう? ニーナ。ここまで話してきて、まだ自白する気にはならないかしら?」

「……」


 マリアージュはいったん話を切り、ニーナの良心の呵責に訴える。

 けれどニーナは強く唇を引き結び、鋭くマリアージュを睨み返した。


 いや、まだだ。

 まだ粘れる。

 これまでの推論は、この女医術士の推論でしかない。

 まだ自分が母を殺したという、確たる証拠はないはずなのだ。


(お願い、フリッツおじさん、あたしに力を貸して……)


 ニーナは乳母車から足を投げ出しながら、依然として歩けないふりを続ける。

 これはニーナにとって、本当の自由を得るための戦い。

 10年続いた悪夢を終わらせるための――人生最大の賭けなのだから。





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