第37話 思わぬ敵

「まだ片付いていなかったか」


 行雲は舌打ちしながら刀を抜く。


「行雲、はたぶん領域の崩壊に俺たちを巻き込むつもりだ!」

「惣田、お前は女を連れて先に行け。すぐに追いかける」

 

 堕ちた龍神は完全に消滅したわけではなかったらしい。

 

 空を覆う黒い雲は消滅していたが、日が沈んでしまったせいで山の中は真っ暗だ。

 

(ここは癒し系狸による浄化の出番……!)

 

 蒼葉は行雲の左腕から飛び降り、ピカッと体を光らせ前方に踊り出る。


 何か特殊な力が使えるようになっているかと思いきや、いつも通りただ光るだけで泥の触手は迷いなく蒼葉に向かって来た。

 

(あれれれれれれ、駄目そうです!)

 

 触手にどつかれる寸前に跳躍してどうにか難を逃れるも、通り過ぎた触手が戻って来る気配がして蒼葉は闇雲に走って逃げ回った。


 泥の触手は弱っているようで動きは鈍いが、蒼葉に立ち向かう術はなさそうだ。

 

 木の根に躓いてびたんと転んだ蒼葉に触手が迫って来る。やられる、と短い腕で頭を抱えたところどさりという音がした。

 泥の塊は地面に落ち、動かなくなっている。

 

「俺の後ろで大人しくしていろ」

(は…はひ……)

 

 蒼葉を助けた行雲は伸びてくる触手を次から次へと切り落としていく。


 助けてくれた行雲に惚れたというレイの気持ちが分からなくもない。蒼葉は姿勢を低くして身構えながら、行雲の活躍ぶりに見惚れていた。

 

「埒が明かないな」

(旦那様、核となっている部分を叩かないと駄目かもしれません!)

 

 ぎゅい、ぎゅい、という狸の煩い鳴き声に行雲は何かを察したようだ。流石は元相棒。

 蒼葉は邪悪な気配が漂ってくる池の中心部をびしりと指し示す。


(核はたぶん、触手の元となっている池の中心部です!)

「あれか」


 行雲は軽い身のこなしで触手をかわし、時に切り落としながら、池の方へと進んでいく。

 灯り代わりの蒼葉もじりじりほふく前進する。

 

(これは……複数の怨念……?)

 

 じっと集中して確かめると、龍神の妖気に様々な気配が混ざっていることが分かる。

 あの池には痛み、嘆き、孤独、恐怖、多くの負の感情が溶け込んでいるようだ。

 

 目標に近づいた行雲は助走をつけて跳躍し、池の中にぽっかり浮いた泥の塊めがけて刀を振り下ろそうとする。

 しかし、彼はそうしなかった。

 

(旦那様!?)

 

 あと少しで刃が届いたというのに、何故か行雲は無理に体をねじり、池の中に転がるように着水したのだ。


 ゆっくりと立ち上がった行雲は、隆起した泥の塊を呆然と見つめて言う。

 

「……父さん?」

 

 その一言に蒼葉も驚いて目を見開いた。


 蒼葉のいるところからはよく見えないが、確かに盛り上がった泥は人の形をしているように見える。

 

(お義父様? そうか。この怨念は堕ちた龍神に命を奪われた人たちのものだ)

 

 山で行方不明になった行雲の父が襲われたのはやはり熊ではなく、真っ黒に堕ちた妖だったのだ。

 ――封印されていたはずなのに何故、妖が時折外に出られたのかは分からないが。

 

 半身ほど池に浸かった行雲は縋るように手を伸ばし、泥の塊に近寄ろうとする。

 

(旦那様、駄目です!! このままでは旦那様まで怨念に取り込まれてしまいます!)

 

 蒼葉の声は届かない。よく考えたら狸の姿では人の言葉を発せられないのだった。

 

(ん? 狸の姿?)

 

 先程、行雲に「蒼葉」と呼ばれていたような気もするが、今はそれどころではない。

 行雲の体は黒い池からせり上がってきた泥に包まれ始めている。

 

(旦那様! 旦那様! ……駄目だ、全く反応がない)

 

 今の行雲はまるで何かに操られているようで、ここまでやって来た時の姫花にそっくりだ。

 

「父さん、ごめん。あの時俺が死ねば良かったんだ。そしたら母さんがおかしくなることもなかった。俺が山に入りたいなんて言ったから……今助けるよ」

 

 行雲は静かに涙をこぼしながら笑っている。

 刀は手から滑り落ち、黒い池の中に飲まれてしまった。

 

(旦那様、駄目です! あなたまで怨念に取り込まれてしまう!)

 

 行雲が父親だと思っている泥の塊が、本当に彼の父親なのかも分からない。


 ――だって、行雲の父親が、お義母様が、行雲が身代わりになれば良かったなんて思っているわけがないのだから。

 

 狸の姿では溺れてしまう。蒼葉は再び人の姿に化け、二度あることは三度ありそうだなと思いながら池に向かって走った。

 

「旦那様! しっかりしてください!! それはたぶんお義父様ではありません!!」

 

 ざぶざぶと黒い水をかき分けて進む。泥に足をとられて何度も転びそうになるが、蒼葉はめげなかった。

 足が沈み切る前に一歩踏み出し、それを続けるうちに行雲のもとまでたどり着く。

 

「お義父様やお義母様があなたに死ねば良かったなんて思うわけないでしょう! 旦那様まで死んでしまったらお義母様は独りぼっちです! どうか正気に戻ってください!」

 

 刀がなければ戦うことができない。蒼葉はほとんど池に潜るようにして、沈んでしまった刀を手探りで探す。


(むむむむ、これは! ……違う。誰かの懐中時計?)


 拾ったものはとりあえず懐に入れておく。

 櫛や簪、泥の中から色んなものを見つけたが、なかなか刀が見つからない。

 

(ふぐぐぐぐぐ……んんんんん……あった!)

 

 もしかしたら自分は幸運の化け狸なのかもしれない。

 そんなことを思いながら手にあたった固い物を掴み、ざぱりと引き上げる。

 

「旦那様これを! あ……」

 

 何も考えずに刃を掴んだので、蒼葉の手はざっくり切れていた。

 妖狩り用の刀なのだから蒼葉に対しても効果は抜群だろう。


 自分の手から血が滴っているのを見て蒼葉は青ざめる。

 

「あお……ば……?」


 行雲は正気を取り戻したのか、こちらを見て確かめるように呟いた。


「はい……蒼葉です……。旦那様、私、もしかして死にますか?」

 

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