第9話 重なる領域

(9) 重なる領域



 領域を犯されない、その範囲であれば人間の出入りは自由に認めている。それは自らの精神の均衡を保てる妙薬なのだ。

 いや、妙薬ではない、それは美食かもしれない。精神への快楽を与え、精神も肉体にも快楽を与えうる。

 それを人は何というか。


 ――「恋(エロス)」 


 自分は学生の頃、プラトンの『饗宴』を読み、特にその中の一節――に興味を引かれたのだ。

 それは―― “「恋(エロス)」とはつまり、善きもの、美しいものが永遠に自分の物であることを願う欲求のことである。するとでは、それは「いかなる仕方で」これを追求するのか。このソクラテスの問いに対してディオティマは言う。「つまりそれは、肉体的にも、精神的にも美しいものの中で出産することなのです」”

 

 ――美しいものの中で出産すること


(…それは生殖の一面でもある)

 そう思った瞬間、

 美恵子はそこで不意に顔を上げた。

 上げると横を振り向き、そこに居る影法師を見た。

 影法師は美恵子を見ると口元を緩めた。緩めると美恵子を見て笑った。

 だが笑っただけではない。影法師はゆっくりとスーツの内ポケットから何かを取り出し、そして蝋燭の灯りが届くところにそれを置くと美恵子にだけ聞こえるように話し出した。

「あなたと僕。重なり合う領域というのは生活範囲とか行動範囲と言う意味じゃないですよ。どうやらそれをあなたは今十分理解されたようです。だがもしあなたが分からないままだと僕は消化不良になってしまう。だからはっきり言いましょう。つまり僕等の領分、それが意味するとことは「人間の領分」つまり「恋の領分」です。あなたが僕をはっとして見たという事は、もう恐らくそれに気が付いた事でしょう。そして僕があなたの領域に現れた意味はこの置かれた名刺で分かる筈。最後に言っておきますがあなたを蟷螂だと言ったのは、あなたがネットで蟷螂の生態を調べ(ググ)れば、それで一目瞭然」

 そこまで言うや、影法師は席を立った。

 立つと見えぬ表情の中で、美恵子に一瞥を送ると言った。

「田中美恵子さん、明日、お待ちしています」

 その言葉を残すと影法師は静かに『迷宮』のドアを開けて消えて行った。

 カウンターに残された美恵子は蝋燭の灯りに照らされた一枚のカードを見ている。カード、いや影法師が言った。それは名刺だと。そしてその名刺には――大阪府警と書かれていた。

 そうつまりあの影法師は刑事だったのだ。

 美恵子は置かれた名刺を手に取るとそれを蝋燭の灯りの中で見て一人笑った。

 何と見えない心の底から浮かび上がる憎悪とも言えぬ思いが大きな鎌を上げて、それから美恵子の精神の何かを切った。何かを切ると美恵子はスマホで言葉を検索した。


 蟷螂と。

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