第7話

 そのあと日が落ちても二人の間に会話はなく、夜が来ることもあり近くにあった集落で休ませてもらうことになった。

 普段誰かがこの集落に立ち寄ることがないのなら、客人が来たと知り集落の人たちが物珍しそうに遠巻きにカルラ達を見ていた。

 カルラは馬車を降りると真っ先にアンの元に行った。少しでも早くヨハンから離れたかったのだ。アンの元に行くとアンは青ざめた様子でカルラを迎えた。カルラはアンの様子に驚いて話を聞こうとすると、アンの後ろから降りてきたシェイドがげんなりした顔で「馬車酔いだ」と端的に伝えてきた。どうやらアンは今日一日だけでかなりの迷惑をかけたようだった。

 カルラがシェイドの方を見ると、シェイドは軽く肩をすくめて馬を休ませに行ってしまった。

「すみません、お嬢様。馬車で遠出する機会がなくて、こんなことになるなんて思いませんでした」

「いいのよ。急だったし、仕方ないわ。疲れもあるだろうから先にゆっくり休んできなさい」

 カルラは申し訳なさそうにするアンの背中を押し、貸し出された家へと向かった。その日の夜、カルラはアンの世話をしながら過ごした。アンは本来お世話をすべき人に世話を焼かれて従者失格だと泣きそうになっていたが、今のカルラには何かすることがある方がありがたかった。

 それから何事もなく一夜が過ぎた。

 カルラは明け方に自然と目が覚めた。朝は冷えるからと貸し出された毛布の中からも分かるほど部屋は冷えていた。アンは隣ですやすやと眠っていた。顔色はだいぶ良くなっており、馬車酔いも治ったことだろう。

 外の気配を伺うと複数人の人が外を動き回っているのがわかった。カルラはそっと顔だけを外に出してみると、集落の住民達が朝の仕事に勤しんでいるところだった。

 カルラはアンを起こさないようにそっと外に出た。暖かい毛布から出た体には外の空気は冷た過ぎて、思わず体が震えた。早朝ということもあり、日中に比べれば冷えていたが、その分空気が澄んでいて美味しさを感じた。

 その空気を胸いっぱいに取り込むと、なんだか気分も晴れやかになったような気になった。しかしその気分もすぐに下がることとなった。

「おや」

 忙しそうに動く人々をぼんやりと見ていると聞きたくない声が聞こえてきた。その声の持ち主はヨハンで、彼は両手に湯気の立ち上るマグカップを二つ持っていた。ヨハンの姿を見たカルラは思わずいなそうに顔を顰めてしまった。

 あからさまに嫌がったカルラを見てヨハンは苦笑を漏らした。しかしそのことについて触れることはなく、ヨハンは片方のマグカップをカルラに差し出した。

「朝イチで取れた牛乳で作ったホットミルクです。よかったらいかがですか?」

「……」

「何も入っていませんよ?」

「別に……初めからこれを狙っていたのかなって思っただけです」

「あはは。狙っていたと言ったら起こりますか?でも残念ながらこれは私とシェイド用に作ってもらったものなんです」

「それをもらってもいいんですか?」

「いいですよ。僕はどうしても飲みたいわけではないので。それに飲みたくなったのならまた貰いに行きますから」

 言外に残ったミルクはシェイドに渡すと言っていた。本来ならこういう給餌をするのを従者の役目だ。それを従者のためにわざわざ作ってもらい、受け取りに行ったのだとしたら、この人もなかなかの変わり者なのかもしれないと思った。

 カルラは差し出されたホットミルクを素直に受け取った。甘いミルクの香りが鼻をくすぐる。マグカップは陶器でできており、手に持つとじんわりとした暖かさが手に伝わってきた。

「ありがとうございます」

 その暖かさにカルラの頑固だった心も少しは解けたのか、無意識のうちにお礼の言葉を口に出していた。お礼を言われたヨハンは目をぱちりと開いてわずかに驚いた表情を見せた。そしてすぐにやわらかく微笑んだ。

「どういたしまして」

 カルラはホットミルクを見ていたため気が付かなかったが、この時のヨハンの表情はホットミルクより甘かった。そしてカルラが次にヨハンの顔を見た時には、いつもの胡散臭い笑顔に戻っていた。

 カルラはマグカップに口をつける。出来立てのようでミルクはとても熱く、気をつけなければ下を火傷してしまいそうだった。

 カルラは無意識に息を吹きかけて気持ちだけミルクを冷まそうとした。

「熱いものは苦手ですか?」

「そんなことはないと思います」

 二人の会話は長く続かない。それは馬車での移動の時もそうであったが、その時よりは沈黙の中に気まずさを感じなかった。

「早く従者さんに届けたほうがいいんじゃないんですか」

 ちびちびと火傷をしないようにミルクを飲みながらカルラが言う。ヨハンは肩をすくめながら「シェイドは猫舌ですから」と答えた。

 再び二人の間に沈黙が落ちる。二人はマグカップを片手に朝早くから働く人たちを眺めていた。この集落では主に家畜を育てて生計を立てているようだった。家畜に餌をあげる人、畜舎から動物を外に出す人、朝の支度を行う人など、いろいろな人が二人の前を行き来した。

 カルラはこのように働く人たちが好きだった。自身の手で汗水垂らして働くことは本当に素晴らしいことだと思う。レオナルドがやるような書類仕事も大切だとわかっているが、やはり地に足をつけた仕事をする人たちがいるからこそ、貴族の仕事は日の目を浴びるのだろう。

「カルラ嬢は、ウォーカー家の所有する領地外に出たことはありますか?」

 ぼんやりと働く人たちを見ているとヨハンに話しかけられる。カルラはゆっくりと意識をヨハンに向けた。朝焼けの光がヨハンの薄い金髪に反射する。綺麗なものが好きなリーンが喜びそうな色合いだった。

「私は領地外に出ることはほとんどありませんでした。それがどうかしましたか」

「いえ……。それなら、今回の旅路は一種の観光だと考えるのは如何でしょうか?」

「どういう意味ですか?」

 怪訝そうに眉を顰めながらヨハンを見る。言葉の意図が読めなかった。

「カルラ嬢にとっては、この結婚は不本意だったと思います。本当ではあれば、こうして一緒に首都まで行くのも嫌だったのではないでしょうか?」

「否定はしません」

「そうでしょう?せっかく領地の外に出たのに、その記憶が暗く、嫌なものだったら残念ではありませんか?」

「そう言うのでしたら、今ここで私と結婚はしないと言ってくださったらいいのではないでしょうか?」

 不満気に口を尖らせるとヨハンは困ったように眉尻を下げた。

「貴方が一言、この結婚を破談にすることを認めると言うか、リーンが見つかって事情がわかるまで保留にすると言えばいいだけじゃないですか。どうしてそんなにこの結婚に固執して、先急ぐ必要があるんですか」

 ホットミルクを飲むことをやめてカルラはヨハンのことを睨みつける。ヨハンは変わらず困った表情を浮かべながらカルラを見ている。

「すみません。今はまだ説明するのが難しいです。ですが、この先、時期がきたら必ずわかる日が来ると思います。私が本当に望んでいることが何か……」

 話をはぐらかす言い方にカルラは首を横に振る。ヨハンに話す気がないのなら、この話はいつまで経っても平行線のままだろう。そしてヨハンが話すまでカルラがヨハンに気を許すことないだろう。

「話す気がないのは十分わかりました」

 カルラはそう言うと踵を返した。

「これ、ありがとうございました」

 半分くらい残ったホットミルクが入ったマグカップを軽く持ち上げる。そしてカルラはヨハンの言葉を待たず部屋の中に入る。ホットミルクはヨハンと話し込んでいるうちにぬるくなっていた。

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