第57話 神の三叉槍


「き、斬り裂いた……!?」


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントは斬れない。

 傷を与えるには、馬で駆けて円錐槍ランスを突き刺すしかない、と父さんが言っていた。


 なのに……。


「――シャアアァ!」


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントが不快そうに唸り、体躯を砂につけるようにしながら、尾を砂中へと消し去った。


「グゥ……!」


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントは斬られて気づいていた。

 あの剣には、『マリク』が宿っている。


狂気の牛マッドホーン】とは名ばかりの、龍までもを食い殺す魔獣。


 つまりあの人間は、あのマリクを倒してみせたということ。


「グヌヌヌ……!」


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントは砂に埋まりながら、思案を巡らせ始める。


 もはや油断は一切できない。

 全力で打ちのめさなければ、自分もやられかねない。


 ――治癒を待って、絶対に次で殺す。


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントにとって、太陽と砂浜は治癒薬である。


 身に浴びた陽光と、砂が貯めている微量の魔力を腹から吸い込んで治癒の力と変え、その体を癒やしてしまうのだ。

 この魔物が決して砂浜から離れないのは、そういう理由からである。


 しかもこの地の砂は、異常なまでの魔力を湛えていた。

 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントが太古の昔にここを棲み処とした理由はそれであったが、なぜこの地の砂が魔力にあふれているのかについては、いまだに理解していない。


「きゃっ」


 数秒後、ドォォン、という爆裂音があたりに響いた。

 イチカは悲鳴を上げて、びくん、と震える。


 テルルが一瞬前まで居た場所を、大サソリの完治した尾が天に向けて貫いたのである。


「テ……!」


 イチカはまばたきを忘れて、その先端を必死に目で追う。

【未来予知】では、テルルはその腹部に穴が開くほどの深手を負っていた。


「テルル、どこ!?」


 大きく伸びた先端にテルルが刺さって居なかった。

 しかし、その姿はどこにも見当たらない。


 まさか突き飛ばされて、海に……。


「テ――!」


 叫ぼうとした、その直後であった。


 ドシーン、という音。

 大サソリの長く伸びた尾が、糸の切れた人形のように砂浜に倒れていた。


「……えっ?」


 イチカは唖然とした。


 緑色の体液が砂浜を広く濡らし始める。

 そのそばには、テルルが剣を振るい終えた姿勢で立っていた。


「嘘だ……尾を……」


 イチカは有り得なさすぎて、現実が受け入れられない。

 そう、テルルは尾を完全に両断してしまったのである。


「シャアアァァ!」


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントが、かつてないほどの唸り声を上げた。


「すごい、テルル……!」


 イチカは心が震えた。


 ――まさか、本当に勝ってしまうってこと?

 ――あの三叉槍の大蠍スコルピオトライデントに?


 だが尾が両断された以上、もはや三叉槍の大蠍スコルピオトライデントに恐れる要素はないのである。


「すごい! テ……!」


 しかし、イチカのそんな喜びも束の間であった。


「………!?」


 イチカが仰天する。

 なんと切断された尾が生きているかのように自律的に動き、斬られた傷口に再接着したのである。


 イチカがそうしている間にも、流れていた緑の体液が止まり、傷口が塞がり、尾は嘘のように完全再生されていた。


「な、なんてこと……」


 イチカはめまいを感じるほどだった。

 せっかく優勢になったのに、ふりだしに戻されてしまった。


 しかしテルルはわかっていたかのように、ただ剣を構えている。


「コロス……コロスコロス……」


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントが再び尾を埋め、砂の中を走らせ始める。


(……でも大丈夫。テルルなら)


 イチカは帰還水晶を両手で抱えながら、自分に言い聞かせる。


 テルルの優勢は変わらない。

 だってこんなにも強いんだよ。


 尾が再生しようと、関係ない。

 サソリ側には、もうテルルを攻める手立てがないのだ。


 そんな、劣勢にあるはずの三叉槍の大蠍スコルピオトライデントが、ふいにニタァ、と口元を歪ませた。


 イチカが、ぞっとする。


 直後。


 ドォォン、という音を立てて、大地が噴火したかのように、砂が吹き上がった。

 そこから勢いよく突き出されたのは、尾。


「うそ………!」


 目にしたイチカは、心臓が止まるほどの衝撃を受けた。

 なんと三本の尾が、同時に飛び出していたのである。


 そう、この魔物の尾が【三叉の槍】と呼ばれるのは、尾先の形状を呼んでいるのではなかった。


 尾が三本あるからなのである。


「――シネェェェェ――!」


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントは勝ち誇ったように吼えた。


 ――どうだ、躱してみろ。

 ――人間風情が、人間ごときが、神の三叉槍を躱せるわけがないぃぃ――!


「テルル――!」


 イチカが血の気が引いた顔で叫ぶ。


 伸縮自在の尾が、三方向から一斉にテルルに襲いかかっていた。

 次の瞬間、ズシャァァという砂浜が擦れる音とともに、砂が巻き上がる。


 テルルは尾のひとつを剣で払い除け、2つの尾の攻撃を縫うように斜めに跳躍して躱してみせる。


「シネシネシネェェ――!」


 しかし3つの尾はさらに勢いを増して追尾し、跳躍したテルルを執拗に追い回す。

 ここを逃すと後はない、とばかりに。


 それを打ち払いながらテルルが砂地に着地した瞬間、待っていたかのように砂が手の形を成して伸び、テルルの両足首をがっしりと掴んだ。


砂塵の手マッドサンド・ハンド〉である。


「ククク……!」


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントは喜悦の声を発し、牙を見せて笑った。

 これこそが、この魔物の真の狙いであった。


「……こ、これは……」


 イチカは心臓がどきり、とした。


 今になって、やっと気づいたのである。

 眼前の状況が、【未来予知】で描かれていた死の光景と全く同じものになっていることに。


 海の見え方。

 突き出た剣岩地帯ソードリーフの位置。

 空の雲の形。

 テルルの足を掴む砂の手。


 そして、テルルの立ち位置も。


 全てが一緒になっている。


 唯一違うのは、テルルの腹に風穴が空いていないだけ。


 理解したとたん、じわり、と視界が滲んだ。


「――テルルだめっ! 死んじゃうよぉぉ!」


 イチカが絶叫する。


 後悔の念が胸を押し潰そうとする。

 どうしてもっと早く気づいて止めなかったのだろう。


 今からでは、どうにもできない。

 テルルは、殺される。


 やはり自分の【未来予知】は外れてはくれないのだ。


「テルル――!」


 目元を拭いながら、自分が異性のために泣いていることに驚く。

 が、もはやそんなことはどうでもよかった。


(――嫌だ)


 ――どうか、どうかもう、死んだりしないで!


「――あたいを狙えぇぇ――!」


 次の瞬間、イチカは結界から飛び出していた。

 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントとテルルが、はっとしてイチカの方を見る。


「――テルル、逃げてぇぇ!」


 泣きながら、イチカは無防備にテルルの方へと走っていた。


「――イチカ!」


「テルル、嫌なんだよ!」


 今まで、自分は気づかないふりをしていた。


 そうなのだ。

 ただの商売相手と、こんなところまで二人で来るはずがない。


 自分はテルルのことが好きなのだ。


 いつからか、わからない。

 セイレーンにかどわかされそうになった、あの時か。


「逃げてぇぇ――!」


 イチカが、駆ける。

 ただ、未来を変えたい一心で。


 失くしたくない。


 あたいが。

 こんな壊れたあたいが、やっと好きになれた人なんだ。


 守るために、これしか思いつかなかった。


 幸か不幸か、イチカの行動は魔物の気を引いていた。


「シャアアァ――!」


 三つの尾が方向を変えた。


 三叉槍の大蠍スコルピオトライデントは絶好の好機を逃さない。

 人間の女を捕まえてしまえば、もはや危険を冒す必要はないのである。


 ヒュン、という、今まで聞こえなかった音がイチカの耳に届いた。


「………!」


 イチカが、はっとする。


 イチカの見上げた先で、長いものがおぞましくうねっていた。

 その3つの先端が、はっきりと自分の方を見ている。


 そこでイチカは気づいた。

 自分の死が迫っていることに。


「……テ……」


 のどに栓がされたように、息が詰まる。


 全く見えていなかった、どろりとした恐怖が、心に姿を現していた。

 走ることを忘れた脚はそのまますくんでしまい、イチカはその場にぺたり、と座り込んでしまう。


 ――ヒュン。


 勢いを増した3つの尾が、イチカに襲いかかる。


「……テ……!」


 イチカは目を閉じ、歯を食いしばった。

 閉じた目から、涙があふれた。


「―――!」


 直後、イチカは横からの衝撃に、どきりとする。

 悲鳴すら上げられないほどに身体はこわばっていた。


 死んだ、と思った。


(テルル……)


 想いながら、そのまま、ゆっくりと1秒、2秒と時が過ぎる。


「………」


 ふと、痛みがない不思議に気づく。

 むしろ、体は優しい温かさに包まれている。


 イチカが目を開ける。


「……えっ……」


 イチカはなにがどうなったのか、わからない。

 テルルの顔がすぐそばにある理由も。


「泣かなくていい」


 テルルが優しく微笑む。

 そこで、イチカはやっと理解する。


 テルルは、自分を左腕の中に抱いてくれていた。

 父が昔、そうしてくれたように。


 サソリの攻撃から、自分を守ってくれたのだ。


「て、テルル……!」


「イチカ、その目によく焼き付けておけ」


 テルルが視線を移し、凛々しい横顔を見せた。


「……えっ」


「――己はどうあっても死なぬ」


 イチカが、はっとする。


 刹那、テルルはイチカを左腕で抱いたまま、跳躍した。


「―――!」


 世界が揺れ、イチカは思わずテルルにしがみつく。

 固く目を閉じて。


 だがすぐにテルルは、トン、と地面に降りたのがわかった。

 自分の足も、硬い地面に優しく触れたから。


 本当に一瞬のことだった。

 しかし――。


「ギャアアァァ――!」


 直後、三叉槍の大蠍スコルピオトライデントの絶叫があたりに響き渡った。


 イチカは驚いて目を開ける。

 そして、眼の前の光景に、唖然とした。


「……うそ……」


 そう。

 あの獰猛な3つの尾が、すべて完全両断されていたのである。




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