第二話 聞き込み調査

 僕が祖父について知っている事といえば、あまりにも少ない。

 碁石を打つ祖父の手が、やけに骨張っていてしなびていた事。食べ物は蜜柑みかんとスルメイカが好きで、何よりお酒が大好きだった事。そういえば、そのお酒は地元のコマーシャルでよく放送されている、大きな紙パックの地酒だった。僕と姉は、その紙パックのシールに付いている当たりを引き当てるのが楽しみだったのだ。

 そういった僕が幼少期だった頃の楽しかった思い出や、大人から怒られて怖かった記憶はあるのに、肝心の祖父との会話があまり思い出せない。というより、僕はそれぐらいしか祖父を知らなかった事に気付かされる。

「もっと爺ちゃんと話しておけば良かったな」

 小学校と中学校の通学路だった道をぼんやり考え事をしながら歩いていた僕は、譫言うわごとのように呟いた。この道は今でも使っているので、十年近く同じ道を歩いていれば、それなりに周囲の景色に愛着が湧いてくる。

 ふと顔を右に向けると、白い壁の平屋の路面店があった。ここは僕が小学生の頃から同じ建物の隣同士で店を構えている。一軒は赤い出入口の扉の隙間から歌声がたまに外に漏れているスナックで、もう一軒は白字はくじの店名と朱色の横ラインが印象的な黒塗りの看板を掲げるジャズバーだ。

 ジャズバーは昼夜問わず、ひっそりとしている。見た目も派手ではないためか、どことなくシックな雰囲気に見えてしまい、いまいち店内が想像できない。高校生の僕は残念ながら中に入った事はないけれど、何となくずっと気になっていた店だった。

 とはいえ、今はそれより祖父の方が気になるけども。

 ──母さんの話によれば、爺ちゃんは庭に植えたのは桜の木じゃなくて、椿の木だと言っていたんだっけ。

 桜と椿では、葉の形からしてまず違う。そんなのは、園芸とか造園の知識が全く無い僕でも分かる。なぜなら僕は、登下校中に他人の家の庭をよく観察しているからだ。

 僕は今時の高校生みたいに、颯爽と歩きながら音楽なんて聞きやしない。僕の趣味は、少し前にガラケーから乗り換えたスマートフォンで写真を撮る事である。僕にとって、美しい花やおしゃれな庭木は、つい目移りしてしまう対象なのだ。

 そんな僕でも分かる知識で言えば、桜の葉はふちがギザギザしていて先端が鋭い。対して、椿の葉は楕円形でふちのギザギザは浅いのだ。しかも、何となくだけど椿の葉の方が、葉の緑色が濃い気がする。

 果たして、こんなにも違う桜と椿を人は見間違えるだろうか。

 どうも祖父が悲しそうに呟いたあの言葉は、見間違えて言ったものではなさそうだ。僕がそう思うのは、祖父の発言はまるで、椿が桜へ変わった事を断定したような言い方だったからだ。

 けれど、庭の木が急に違う種類の木に変わるわけがない。そんなのは魔法が使える世界でしか有り得ない。それに、桜の木は僕たち家族の記憶と相違なく、今もこうして目の前にあるのが何よりの証拠だった。

「どう見ても、これは桜の木だよなあ……」

 学校からの帰り道、僕は遠回りをして祖父母の家を訪ねていた。祖父母の家と、僕の家との間は、歩いて五分ほどの距離がある。

 あいにく、今は祖母が介護老人保健施設に住んでいるので、この家の鍵は僕の父が管理している。その父だが、今日は夜勤明けで寝ていて、僕は祖父母の家の鍵を借りる事ができなかった。だから、僕は外塀の向こう側から祖父母の庭の木を見る事しかできない。

 誰かに見られていたら、僕は完全に変質者だ。というのも、観察し始めてから彼此かれこれもう五分ほど経過しているのだ。

 だめだ。何の情報も得られないや。

 僕は早々に諦めて、祖父母の家から離れる事にした。念のため、桜の木だけでもスマートフォンで写真を撮ろうかと思ったけれど、いよいよ近所の方々から通報されるような気がして、僕は何食わぬ顔で出来るだけ飄々ひょうひょうとその場から立ち去った。

 それにしても、この妙な焦燥感は何なのだろうか。

 見上げた先には、三メートルもない高さの桜の木が不思議な存在感をはなっていた。生い茂った葉が、モヤモヤとした心の僕を高みの見物でもしているような気がする。

 その異様な雰囲気だけが、僕の心に印象深く残ってしまった。


   *


 僕が帰宅して夕食にありつく頃には夜勤明けで寝ていた父も起きていて、食卓には僕と姉と両親の藤城家が勢揃せいぞろいしていた。

 食事中、父に祖父に関する他のエピソードがないか尋ねた僕は、唐突に祖父の戦争体験談を思い出す。

 生前に祖父から聞いた話だと、第二次世界大戦の末期の祖父はまだ中学生で、疎開先からいよいよ祖父も戦場に出陣となった。その時にちょうど終戦となって、けっきょく祖父は戦場に行かずに済んだらしいのだ。それを祖父は「俺は運が良かったんだ」と笑いながら話していた。

 祖父のしわくちゃな笑顔を思い出して僕が少し寂しく感じていると、母がとても怪訝な表情で僕に尋ねた。

「廣之、まだお爺さんの事を調べていたの? それくらい勉強も熱心にやってくれたら良いのに」

「お母さんの言う通りだよ」

「まあ良いじゃないか。廣之がお爺ちゃん子だったなんて、俺は知らなかったよ」

「いや、そういうわけではないんだけど……」

 姉が母の忠告に笑いながら同意していると、父が僕にフォローを入れてくれた。けれど、残念な事に父のフォローは見当違いだ。

 僕の反応で今度は父が眉をひそめた。

「違うのか? じゃあ、何で今になって爺さんの事が知りたいんだ?」

「何て言うか……ただの好奇心だよ。爺ちゃんって、本当に認知症だったのかなと思ってさ」

「だから言ったでしょう? お爺さんは家族との思い出にしたって、私たちと言っている事が全然違うんだから」

「母さんの言う通りだよ。それに、爺さんは急に性格だって変わったんだ」

「性格が変わった? いつ、どんな風に?」

 初耳だった。まだ、僕が知らない祖父が存在していたのか。

「俺たちがこの家に引っ越して来てからだから……廣之が小学二年生の頃かな。それまで温厚だった爺さんが、急に変な事を言って怒鳴り散らすようになったんだ。『俺は間違っていない! お前たちが変なんだ!』ってな。それこそ、庭の桜を見て顔色を変えたんだよ。原因がわからなかったから、あの時は相当参ったね」

 苦笑いを浮かべた父は話を続ける。

「爺さんが怒鳴り散らすのは、廣之が高学年になる頃には完全に落ち着いたから良かったけど。桜の木を見て以降、爺さんはすっかり元気をなくしちゃってな。俺たちと会う度に間違い探し状態になるんだから、仕方がない事なんだけどさ。だから、そういう事を何も知らないお前たちが家に遊びに来るのが、爺さんはすごく嬉しかったんだと思うよ」

 僕は姉と顔を見合わせた。僕たちはそんな事実をちっとも知らなかったからだ。

 ちなみに、姉と僕が祖父母の家へ休みの度に泊まりに行った一番の理由は、祖父母の家には家庭用ゲーム機のスーパーファミコンがあったからだ。随分な時間をゲームに費やしていたせいで祖父母との会話がおろそかになったのは、短い人生ながら僕が最も後悔している事のひとつだ。

「そんなお爺ちゃん、知らなかった……。私たち、ゲームばっかりしてたから何だか悪い事しちゃったな」

「だから爺ちゃん、僕たちにあまり自分の話をしなかったのかな。いつも僕たちの話ばっかり聞きたがっていたから」

「それは単純に、お前たちの成長が楽しみだったんじゃないのか? そこだけは、あの人も変わらなかったよ」

「孫の成長を楽しみにしない人なんていないわ。だから、早く音羽も良い人を連れて来てちょうだいね」

「あー……」

 にっこり笑う母さんの言葉に、姉はうざったそうに言葉を濁して納豆をひたすら混ぜていた。

 いつもながら、姉の納豆をかき混ぜる執念には脱帽する。あんなに細くて白い糸の束がはっきり見える納豆は見た事がない。

「そういや、いつだったかな。ご近所の柴山先生が変な事を言っていたな……」

「柴山先生、懐かしいわね。お元気かしら」

「それも爺ちゃんの事? 何て言っていたの?」

 柴山先生とは、祖父母の近所に住んでいた習字教室の先生だ。祖母よりも背が高い細身のご老人だった。

 僕が前のめりになって話の続きを急かすと、父さんは落ち着くよう僕をなだめる。

「俺がたまたま立ち聞きしたんだ。婆さんと柴山先生は、よく世間話をする仲だったろう? 多分、柴山先生が婆さんから急変した爺さんの話を聞いたんだろうな。柴山先生ってば、はっきり言う性格なもんだから爺さんに言っちまったのさ。『あんた、まるで別人みたいにご家族に怒鳴り散らしたんだって? 初子さんは双子の片割れが現れたのかと錯覚したってさ。何があったのか知らないが、ご家族を困らせちゃだめだよ』ってな」

 久しぶりに聞いた名前に一瞬だけ反応が遅れる。初子さんとは、祖母の名前だ。

「それで、爺ちゃんは柴山先生に何て言ったの?」

 僕の問いかけに、父は当時の祖父を真似て眉を吊り上げた。

「爺さんってば、態度が急変したんだ。『双子なんていやしない! おらには歳の離れた姉と弟がいるだけだ!』って、逆に柴山先生に食って掛かっていたよ」

「信じられない! お爺ちゃん、そんなに気性が荒かったの?」

「一時期だけな」

 目を大きく開けた姉は、トロトロになった納豆ご飯を口に運ぶのを止めて小さく叫んだ。

「というか、爺ちゃんには姉弟がいたっけ? 僕が聞いた時は、弟だけだったような気がする」

「いや、妹だけだ。その妹は戦争で亡くなったそうだよ」

「ああ、そうだ。妹だったね」

 僕の代わりに返事をしたのは、食事を再開させた姉だった。

 なんだか妙な気分だ。僕の記憶では、弟だけだったような気がするけど……。でも、一緒に遊びに行った姉が妹と言うなら、きっとそうなんだろう。

 それにしても、ますますわからない。祖父はなぜ、そこまで事実を捻じ曲げたかったのだろうか。

「爺ちゃんは何でそんなにも何かを否定したがったのかな? 双子の話も、ただの比喩じゃんか」

「俺も何がなんだかさっぱりだよ」

 肩をすくめた父は、缶ビールを飲んで赤くなった顔を曇らせた。

「やっぱりお爺さん、認知症だったんじゃないかしら」

「あれ? そういや、爺ちゃんは病院でちゃんと認知症の検査はしたの?」

「それが、かたくなに病気を否定して、病院へは一度も行かなかったんだ。婆さんのすすめで、脳トレの本だけは渋々取り組んでいたそうだけど」

 また思い出した。祖父はクロスワードパズルも好きだった。溜めていた新聞に掲載してあるクロスワードパズルを、うなりながらも何部かまとめて解いていたのだ。

 祖父は得意顔で「廣之、お前おめにこれが解けるか?」と新聞を広げて、僕にも問題を出題していたっけ。

 これは当時の僕が、おやつ欲しさに部屋の外からこっそり除き見たからこそ発見できた事だけど、普段の祖父は僕たちの前では楽しそうに問題を解いていたのに、誰もいない部屋だと祖父は必死な顔で懸命に手を動かしていた。あれは一体何だったのだろうか。

 父たちの話を聞く限り、祖父は性格が急変したり、姉弟を忘れたりと、やっぱり謎だらけだ。

 なぜ祖父だけが、こんなにも周りと記憶が違うのか。僕が怒鳴り散らす祖父をたまたま見かけていないからだと思うけど、それでも祖父が認知症だったなんて、まだ信じられない。

「もらった脳トレ本、やってみようかな」

 違和感だらけな祖父の人物像の答えに繋がる、ヒントが見つかるかもしれない。

 祖父がやっていた脳トレ本を祖母から譲り受けた事を思い出して僕が呟けば、すかさず母が口を挟んだ。

「廣之。あんたはまず、期末テストの勉強をしなさい」

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