毎日小説No.3 ランニングストーキング

五月雨前線

1話完結

 俺は今、何者かに追われている。

 会社員四年目の俺の趣味はランニングだ。今日も会社から帰宅して食事を済ませた後に、ランニングウェアを身に纏い夜の街へと繰り出している。夜のランニングは非常に快適だ。夜九時以降は歩行者や車の数が大幅に減少するため、とても走りやすい。体の具合を考慮し、十数キロ走ろうと決めて走り始めてから僅か十分程で、俺は異変に気付いた。

 誰かにつけられている。

 夜は人や車が少ないため、その分物音や人の気配に敏感になる。何度角を曲がっても、何度脇道に入っても、謎の人物はつかず離れず数百メートル程の距離を保ちながら俺を追ってくるのだ。

 最初は偶然かと思ったが、ここまで長時間付き纏われると偶然とはとても思えなくなった。もしや新手のストーカーか? 俺は超絶美少女でもなければ高身長イケメンでもなく、ただのサラリーマンなのだが……。

 などと思考を巡らせながら、俺はひたすら夜の街を走り続けた。どうする? 交番に駆け込むか? しかし、相手は一定の距離を保って俺を追跡している。俺の行動が見える範囲を保っているからこそ、追跡を続けられるのだろう。仮に俺が交番に入った場合、それを見た相手は即座に逃げ出してしまうに違いない。「今変な奴に追いかけられていたんです」と言ったところで、警察官に出来ることなど何もないだろう。

 それに、よく分からない奴のせいでランニングを中断させられることは避けたかった。ランニングは、俺にとっての癒しであり、祐逸の趣味だったからだ。

 よし、スピードを上げて撒いてやる。そう決意した俺は深く息を吸い込み、スピードのギアを一段階上げた。足の回転数が上がり、みるみる走りのスピードが上がっていく。

 今でこそ普通のサラリーマンとして会社に勤めている俺だが、学生時代はそこそこ名の知れたランナーだった。高校時代は強豪校で陸上に励み駅伝の全国大会に出場、大学時代は駅伝の伝統校に入り三大駅伝に何回か出場した。陸上へのモチベーションを保てず大学で競技を引退してしまったが、常日頃ランニングをしているため走力は未だ健在だ。それこそ陸上を専門としているアスリートや学生が相手でもない限り、走りで負けるつもりは毛頭なかった。

 走り慣れたランニングコースを速いペースでぐんぐんと駆け抜けていく俺。数キロ程走り、流石に振り切っただろうと思い振り返ってみたが、存外にも謎の追跡者は俺のペースに対応していた。一般人には到底追いつけないペースで走ったにも関わらず、振り切れなかったのだ。それどころか、先程よりも若干距離を詰められているようにすら感じる。

 嘘だろ? このペースで振り切れないのか? これでも数年前に箱根路を駆けた元長距離選手だぞ? 俄には信じられなかったが、俺は走り続けるしかなかった。お前なんかに負けるもんか、という謎の対抗意識すら芽生え始めていた。

 十キロ、十五キロ、二十キロ……。ランニングウォッチに表示される距離がどんどん伸びていく。十数キロ程度走ろうと思っていたのに、変な奴に追われているせいで二十キロ以上の距離を走る羽目になってしまった。そもそも、十数キロ走る場合と二十キロ以上走る場合では、一キロごとのペースがかなり変わってくる。想定していなかった長距離をかなり早いペースで走り続けてきた俺は、段々と疲労を感じ始めていた。

 くそ、きつくなってきた。左足の足裏、そして右の脇腹が痛い。こんな速いペースで二十キロ以上走るなんて想定していなかったから、体が悲鳴を上げるのは当然か。俺はよく走れている。問題は謎の追跡者だ。こんなに速いペースで二十キロ以上走り続けられるなんて、只者ではない。大学で長距離を専門にしている学生か? それとも、俺みたいにランニングに勤しむ市民ランナーか? 実業団の選手がこんな悪ふざけをするとは思えないし、大学生や市民ランナーにも同様のことが言える。俺をストーキングして一体何になるというのだ?

 きつくなってきたせいで頭の中に余計な雑念が芽生え、そのせいで段々とペースが落ちていく。少しずつ、少しずつ謎の追跡者との距離が縮まっていき、ついに僅か数十メートルまで詰められてしまった。

「……っと! ……ょっと! そこの貴方!」

 距離が近づいた結果、謎の追跡者が何か声を発していることに気付いた。俺に何かを伝えようとしているのだろうか? 気になった俺は、少しペースを落として意図的に追跡者との距離を縮めた。より鮮明に声を聞き取れるように、かつ何かあったら逃げられるような絶妙な距離を保つ。

「……したよ! ……ぎ!」

 ん? 何だ何だ? もう少し近づいてみるか。

「……落としましたよ! 家の鍵!」

「な、なにぃ!?」

 家の鍵、という言葉を聞いた瞬間、俺は咄嗟に急ブレーキをかけた。腰に下げていたランニング用の小型のバッグを確認し、青ざめた。なんとチャックが半分程開いており、中に入れていたはずの鍵が無くなっていたのである。

「はあ……はあ……やっと追いついた……」

 街灯に照らされて俺の前に現れたのは、黒いランニングウェアに身を包んだ若い女性だった。身長は百五十センチ後半で、ウェアに包まれた体はアスリートと見紛うほどスリムで引き締まっている。そして、かなりの美人だ。整った顔立ちは疲労で僅かに歪み、かなり息が乱れている。

「これ……貴方の鍵……ですよね……?」

 そう言って差し出された鍵は、まさしく俺の家の鍵だった。

 ということは、まさか。

 俺が落とした鍵を拾い、手渡そうとしてくれた心優しき美女ランナーから、俺は二十キロ以上必死に逃走していたということか!?

「す、す、すいませんでしたああああっ!!!」

 思わずその場で土下座する俺。そんな俺に対して文句一つ言わず、「そんなそんな、謝ることないですよ! 頭を上げてください」と優しく言う女性。なんだこの人、女神か?

「すいません、私、声がかなり小さくて。もっと大声で呼びかけていれば、こんな長時間追いかけっこすることにもならなかったんですが……」

「いやいやいや! 何言ってるんですか! どう考えても俺が悪いですよ!」

「そんなそんな……とにかく、鍵、渡しますね」

「本当にありがとうございます……!」

 俺は深々と頭を下げた。この女性が鍵を拾ってくれなかったら俺は家に入れず、深夜に汗だくで夜の街を徘徊する運命を辿っていたに違いない。まさに神様仏様、だ。

「あの、何かお礼をさせていただけませんか?」

 という俺の提案を女性は笑顔で断り、「私は当然のことをしたまでですから!」と言い残して走り去っていった。なんて、なんて良い人なんだ。この世の中もまだ捨てたもんじゃないな、と俺は一人感動した。感謝の気持ちでいっぱいになりながら、俺は自宅めざして再び走り始めたのだった。


〜数日後〜

「……な、何じゃこりゃ……!!!」

 仕事から帰ってきた俺の前に広がっていたのは、信じがたい光景だった。なんと俺の家の中がすっからかんになっていたのである。施錠したはずの扉は開け放たれ、テレビやタブレットといった金目のものからガラクタまで、あらゆる所有物が綺麗さっぱり無くなっていた。

「どうなってんだよ……」

 茫然としながら家に上がった俺は、床に一枚の紙が置いてあることに気付いた。何か文字が書かれている。俺は紙を手に取った。

『こんにちは。数日前、貴方が落とした鍵をわざわざ拾って届けてあげた

心優しきランナーです。私、実はかなり悪いことを生業としておりまして、鍵を拾った時に鍵の情報を頂戴してしまいました。私の仲間に合鍵作りのプロが

いまして、その人に頼んだら鍵の写真と僅かな情報でたちまち合鍵を作ってくれて、ついでに貴方の家の場所を特定してくれたんですよ。

 本当は貴方を追いかけるつもりなんて微塵も無かったんですけど、鍵が無くなったことに気付いた貴方がすぐに鍵を交換してしまったらめんどくさいじゃないですか? だから頑張って追いついて、鍵を渡すことに決めたんです。そうすれば仲間が作ってくれた合鍵が安全に使用出来ますからね。

 最後に。貴方はなかなか良い走りをしてましたが、昔世界選手権にも出場した私には及びませんでしたね。走力と注意力をもう少し鍛えるべきです。それでは、貴方の所有物、全部盗ませていただきますね。ご機嫌よう』


 


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