▽残り六日

 目が覚めた。ここは……車の中だ。どうやら夢ではないらしい。

 本当か?

 辺りを見回す。昨日乗っていた車の車内、後ろでは白狐が寝ている。窓の外を見ると、日が昇っている。これは夢じゃない、多分。

 今度こそ白狐を起こさないようにそーっとドアを開ける。

「ギッ」

 ドアが軋んだ。白狐を見ると、どうやら気が付いていないらしい。そのままゆっくりとドアを開け、ゆっくりと閉める。最初のきしみ音以外、特に音は鳴らなかった。

 外に出ると、刺すような日光が照りつけてきた。痛い程に日が照っている。空は昨日の雨上がりと同様、雲一つない。少しぐらい雲があってもいいのに、と思ったが別に晴天でもいい。と云うより、天気なんかどうでもいい。

 あの夢のことを思い出した。そして、頭の中から捨てた。もう過去のことなんて考えなくていい。今を考えろ、今を生きろ、今を大切にしろ。白狐を大切にしろ。もう過去のことなんて引きずらないでいいんだ。今は後悔をするために生きてるんじゃない、白狐のために生きてるんだ。そう思った。

 そうか、やっと分かった。僕が苦しいと思った理由はそれだったんだ。後悔をずるずる引きずって、いつまでもいつまでも自分のせいだと自分を責めていたから苦しかったんだ。おそらく、無意識のうちに自分のせいだと思っていたのだろう。

 僕は心に決める。過去はもういい、今を大切にしろ。そうすれば、世界の終わりまで幸福でいられる筈だ。

 空を再び見上げる。赤い物は当然そこにある。僕と白狐の関係を終わらせる物が、そこにある。

――あと六日か……。

 今日を入れてあと六日で世界が終わる。僕と白狐は死ぬ。それは変えられない事実だ。なら、やりたいことやり尽くして死のう。白狐とともに。

 風が吹いて木々を揺らす。植物たちは、世界が終わることを知っているんだろうか。そんな疑問が浮かんだ。人間は隕石が衝突して世界が終わることを理解しているが、植物にはそう云った理解能力はあるのだろうか。犬や猫は地震などが来ることが直感で分かるらしい。では植物はどうであろうか。

 植物は根を張り、光合成をし、そこから何か情報を得るのだろうか。もしかしたら隕石から何らかの物質が発生していて、それを感じて世界が終わることを察知するかも知れない。もしかしたら、手入れがされなくなったことにより人間がいなくなったことを知り、何か悪いことが起こるんじゃないかと考えているかも知れない。だが、もしかしたら何も知らずにのうのうと生えているだけかも知れない。

 その時、後ろから「バンッ」と音がした。後ろを見ると、白狐がいた。多分今の音は、車のドアを閉めた音だろう。

「おはよう」自分から話しかける。

「おはよーぉ」

 まだ眠そうな声で返事が返ってきた。

 白狐はふらふらとした足取りで歩き、車にぶつかって……倒れた。

「ちょ、何してんの?」

 駆け寄ると「ねぇむぅーいぃ」とふてくされた顔でブツブツと呟いていた。

「そんなに眠いなら何で起きたんだよ」

「起きちゃったんだもん。しかたなぁい」

 とにかく地面で寝るのはお薦めできないので足を曲げさせて上半身を起こし、体育座りの格好にさせた。

「ねぇ夜トぉ」

「何?」

 白狐は唇を突き出して「ちゅーして」

「は?」

「お願いぃ、そうしたら目、覚める」

「眠いと人格変わる、ってか変態になる人か」

 実際、自分で何を云っているのか理解しているかどうかも分からない。だから、寝言として捉えて許してやることにした。

 どうにか車内で寝させたいので、膝裏と腰辺りに腕を回してお姫様抱っこをした。

「……重」

「こらぁ、乙女に何てことを云うんだぁ」

「はいはい、失礼いたしましたお嬢様」

 車まで頑張って歩き、どうやってドアを開けるか考えた。

 白狐の背中を車に預け、腰に回してある腕を抜いてドアを開ける。もう一度腰に手を回す。足を差し入れてドアを開き、白狐を中に入れる。毛布を下敷きにしてしまったが、引っ張り出すのも面倒なので前の席から自分のを持ってきてかけた。

 白狐はスースーと寝ていた。

――本当、何で起きたんだよ。

 前のドアを開けて中に入り、助手席の方に座った。

 そう云えばこの車の中に何が入っているのか確認していなかったので、物がしまえるところを片っ端から調べた。

 財布に眼鏡にトレシー、煙草にノートにシャーペン、ライトや割り箸など、色々な物があった。

 なんとなく煙草を手に取って外に出た。ポケットの中にしまってあるライターを取り出して、煙草も箱から一本取り出す。煙草を咥えて火を付ける。そして吸い込む――。

「ぐっゲホゲホゲホゲホ!」

 盛大に噎せた。どうやって大人はスースーと吸っているんだ?

 煙と噎せたせいで喉が痛くなり、煙草から立つ煙が目に入って涙が出てきた。

 煙草を地面に投げ捨てて踏みにじった。

 車内に戻り、煙草を投げるようにして元の場所にしまった。

「むうぅぅぅ……」

 白狐のうなり声が聞こえたが、どうやら寝言らしい。放っておくつもりだった。だが、出来なかった。白狐が次に発した言葉が頭を離れなくなった。白狐は寝言でこう云った。「ゆうき……」と。

 名前から考えて、多分男だろう。漢字でどう書くかは全く分からない。

 僕が白狐に彼氏がいたかどうか聞いたとき、白狐は『いたよ』と答えた。だからと云って、白狐の彼氏だったとは断定できない。もしかしたら友達かも知れないし、好きなアニメのキャラかも知れない。だが、僕の頭は決めつけた。ゆうきとは白狐の元カレだ、と。

 そう云えば、白狐は元カレについて一度も話していなかった。家族のことは話したのに。恥ずかしくて話さないのか? いや、白狐なら恥ずかしいなんて思わなそうだ。では何だ? 何で話さない?

 慥かに僕から『彼氏ってどんな人だった?』と聞いたことはなかった。だが、白狐の性格からして恋愛物の話は大好きに違いない。付き合ったことがない僕をおちょくる材料にも最適な話だ。でも、白狐は一度もそう云った話をしていない。考えれば考える程、白狐がその話をするのをあえて避けているようにしか思えなかった。

 もしかして、彼氏と何かあったのだろうか?

 後で聞こうと思った。


 プー!

 急にクラクションが鳴った。

「夜トー! 起きろー!」

 横を見ると、ハンドルの前に白狐が座っていた。どうやら白狐が起きるのを待っていたら、寝てしまっていたらしい。

「寝ぼすけ!」

「白狐がちゃんと起きるのを待ってたら寝ちゃったらしい」

「ちゃんとってどう云うこと?」

「白狐さ、一回寝ぼけてほとんど寝たまんま起きたんだよ」

「嘘、二度寝したってこと? え、いつ起きた?」

 どうやら一度起きたことを忘れているらしい。

「白狐も一回起きたんだよ?」

「嘘だ、そんな記憶ないもん」

「でこが痛くない?」

 白狐は自分のでこを触って「痛っ!」と叫んだ。

「え、なにこれ! 夜ト、何かしたでしょ!」

 白狐が起きたこと、寝ぼけながら歩いて車にぶつかって倒れたこと、僕にキスしてと頼んだこと、車に乗せるためにお姫様抱っこしたことを話した。あえてここでは、ゆうきについては触れなかった。

「え、私夜トにキスしてって云ったの? うわ、恥ず」

「正確には『ちゅーして』って云った」

「ちょー! そこまで正確に云わないで!」

 赤くなった顔を両手で覆いながら俯く白狐。何だか子供みたいだ。と思いつつも、頭の中はゆうきでいっぱいだった。

 どうやって聞くか、何を聞くかをずっと考えている。

 白狐が手を合わせて僕に云った。「頼む! 忘れて!」

「分かった。白狐に『ちゅーして』って云われたことは忘れる」

「ねぇ! それ絶対忘れる気ないじゃん!」

 無理矢理話題を変える。

「今日は行きたいところある?」

 白狐は恥ずかしさを紛らわすように、変に大きな声で云った。「亞部輪湖行きたい」

 亞部輪湖と云えば、慥か隣町の隣の隣――つまり町を二つ超さなければならない。

「何で亞部輪湖?」

「え! 綺麗じゃん。もしかして知らないの?」

「いや、知ってるけど……」

 亞部輪湖は面積一〇〇平方キロメートル程の湖で、何故か知らないが人魚が出ると噂されている。周りは木に囲まれていて、道は人道しかない。つまり、車で行くことが出来るのは途中までだ。

 それに、森に入ったら一時間程歩くことになると聞いたことがある。

「じゃあいいじゃん。行こうよ」

 僕はよかったが、白狐が一時間も歩けるかどうかが心配だった。

「僕はいいんだけどさ。周りが森だから車で入れないし、森に入ったら湖に着くまで一時間ぐらい歩くことになるけど大丈夫そ?」

「多分……行けるっしょ」

「途中でリタイアしたら置いていくからね」

「うわ、ひど」

 白狐と座っている場所を交換し、車を出した。

 昨日の雨で道がどうなっているか心配だったが、特に何もなさそうだった。

 ゆっくり丁寧に車を動かして行く。多分、下っている最中に車輪が道から落ちたら確実に死ぬ。直線のところでも石があったりして車が揺れ、道がない方に進行方向が向いたりするからスピードは出せない。カーブならなおさらだ。

 それに昨日の雨でぬかるんでいるところがあり、たまにスリップしそうになった。

「カーカー」

 不意に外から鳴き声が聞こえた。カラスだ。

 人間と一緒に逃げて、てっきりいなくなってたと思っていたのだがどうやら何匹が残っていた――もしくは帰ってきた――らしい。

 中頃を過ぎ、緑が薄くなってきた。日光は相変わらず元気で、木に光合成をさせている。木の陰になって光の当たらない雑草は、ひょろひょろとした頼りない生え方をしていた。

 たまにはみ出た枝の葉っぱがフロントガラスに当たって、昨日の雨をなすりつけていった。

 相変わらず僕には、無造作に生えた植物たちの綺麗さが分からなかった。多分、一生分からないんだろう。

 やっとの思いで山を下り、タイヤがコンクリートを捕らえた。こうなれば水を得た魚だ。誰もいない道路で思いっきりスピードを上げた。

「ちょ、夜ト速すぎ!」

「いいじゃん誰もいないんだし。何もないし」

「ま、そうか。その代わりどっかにぶつからないでよ」

 分かった、と云いながらさらにアクセルを踏み込んだ。

 窓を開けて風を感じる。手を出してみると、空気抵抗が凄い。

 景色がどんどん流れていく。新幹線並みだ。家、田んぼ、標識、電柱、着かなくなった信号。全てが一瞬で目線から消える。

 気が付くと知らない町並みが並んでいた。一体、今ここがどこなのかは分からない、がこっちの方向であってる筈だ。

 スピードを出しているからか、楽しかった。

「あ!夜ト、止まって!」白狐が叫んだ。

「え?」

 このスピードで急停止すると、確実にブレーキがいかれるので徐々に、かつできるだけ早く車を止めた。が、白狐が止まってと云った地点から少なくとも四〇〇メートルは離れてしまった。

「え、どうした?」

「今、ガソリンスタンドが見えた」

 ああ、と笑いながら云う。

「もう機能してないよ。電力供給されてないから動かない」

「いや、でも行ってみようよ」

「え、何か見えたの?」

「え? だからガソリンスタンドが……」

「いや、そうじゃなくて。機能してないのに行きたいってことは、何か特別な物が見えたのかなって」

「いや、そうじゃないんだけど。行ってみようよ」

 別に時間がかかる訳でもないので、行ってみることにした。Uターンをして今来た道を戻る。

「ここ右に曲がって」

「了解」

 右に曲がって進む。慥かにガソリンスタンドの看板が見えた。

 ガソリンスタンドに入って車を止める。

 一応ガソリンを入れようとしてみたが、やはり機械が動かなかった。

「ほら、無理だよ」

「いや、ちょっと待ってて」

 白狐はそう云うと店の奥へ入っていった。

 しばらくすると戻ってきて、ゴム手袋と鋏と釘抜きとマイナスドライバーと金槌と車用のバッテリーを持ってきた。

「え、何するつもり?」

「待ってて」

 白狐はゴム手袋をすると、ガソリンスタンドの機械の裏の蓋のネジをドライバーで回し、蓋を開けた。中のコードをかき分け、黒いコードを引っ張り出す。それを鋏で切ってコードを覆っている黒のビニールを裂いた。ビニールの中には細いコードが何本か入っていて、それらのビニールも裂いて、中から銅線のような物を覗かせた。

 次に白狐は車用のバッテリーの外側を覆っているビニールを剥がして、鉄の容器をむき出しにした。一面だけ溶接したような跡があり、白狐はそこにマイナスドライバーを押し当てると金槌で思いっきり叩いた。五回程叩くとマイナスドライバーが溶接部分に刺さり、小さな隙間を作った。そこに釘抜きを差し込んで、思いっきり押した。メリッっと云うのかミシッと云うのか、そんな感じの音が鳴って溶接部分が徐々に剥がれていく。

 バァンと派手な音が鳴って外側の鉄の容器の一面が剥がれた。白狐は先程と同様、中のコードを引っ張りだしてきて外側のビニールを裂いた。全て裂き終わると、機械から出ているコードとバッテリーから出ているコードを繋ぎ始めた。

 全てのコードを繋ぎ終わって白狐が立ち上がったかと思うと、「ヴンッ」と機械が唸った。

「できたんじゃない?」

 自慢げに云う白狐を、僕はぽかんとした顔で見ていた。

「白狐何者……」

「いやぁ、こう云うのが得意だっただけだよ」

 第一機械とバッテリーを繋ごうと云う発想が凄い。さらに、何故繋ぐコードが分かるのだろうか? そして、何故成功させられるのか? 僕から見て白狐は天才だった。

「変態怠け者天才JK……」

「ははは、褒め言葉が追加された」

 白狐に促され、車にガソリンを入れていく。気付くと、白狐がガソリンを入れるあの赤いケースを持ってきていた。

「バッテリーが切れたら終わりだから、急げ急げー!」

 バッテリーは意外と持って、白狐が持ってきた赤いケース三つを全て満タンにしても切れていなかった。

「よぉーし、全部溜まったかな?」

「うん、溜まった」

「じゃあ行こっか」

 その時、強風が僕の前髪を乱した。急いで前髪を直したのだが、間に合わなかったらしい。

「その傷跡、どうしたの?」

 そう、僕の右目の上辺りには大きな傷跡があった。僕は父親に植木鉢で殴られたらしかった。殴られた衝撃で記憶が飛んだのか、生まれたときから殴られたときまでのことを殆ど覚えていないので事実かどうかは分からないが、母がそう云っていた。

「車に乗って。移動しながら話す」

 二人とも車に乗り込む。静かに車を出した。

「何でか分かんないけど、一時期父は僕に暴力を振るうようになってた。本当に理由は分からない。もしかしたら何かがあったのかも知れない。何かって何? って聞かれても困るけど。

 日に日に暴力はヒートアップしていったらしい。最初は髪を引っ張ることから始まったらしい。次に叩かれるようになって、殴り、蹴り……みたいな感じでヒートアップして行った」

 別に緊張もしていないのに、ハンドルを握る手に大量の汗をかいていた。「それである日、僕が庭で遊んでいると父が植木鉢を持って僕のところにやってきた」

 まさか……と云って、白狐が目を見開いた。

「父は植木鉢を高々と上げて、僕の頭に振り下ろしたらしい」

 白狐は絶句した。口を手で覆い、瞼を痙攣させている。

 僕も手だけでなく額から汗が流れて来、左足が痙攣していた。

「とは云っても、殴られたせいか生まれたときから殴られたときまでの記憶が飛んじゃってて、全部母から聞いた話なんだけどね。

 傷は何針か縫うだけで済んだんだけど、僕は入院した。脳に影響がないかどうかの検査のために。

 怪我をした理由は階段から落ちたことになっていた。父か母かは知らないけど、理由を隠したんだ。まあ、隠す必要があるのは父だから父が隠したんだと思うけど。

 見舞いに来た母はいつも謝ってた。ごめんね、何にもしてあげられなくて、って。

 それで、何故か退院したら父からの暴力はなくなった」

 僕の脇腹に冷たい物が走った。

「でも、一つだけ覚えていることがあるんだ。植木鉢で殴られたとき、父は『お前は――』って云ってた。お前は、に続いた言葉は覚えてないんだけど、慥かに父は最初にそう云った」

「何で……」白狐は云った。「何で逃げ出さなかったの?」

「え?」

「その殴られたとき、夜トは何歳だったの?」

「ええと、小三かな」

「何で⁉」

 白狐が叫んだ。「何で逃げ出さなかったの? 辛くなかったの? 逃げようと思わなかった?」

 白狐が取り乱しているのは初めてだったので驚いた。

「え、まあ。記憶なくなったし別になんとも……」

「お母さんから聞いたんでしょ? 暴力がなくなったとは云え、また何かされると思わなかった? 怖くなかった?」

「いや……別に」

「何で⁉」

 何でだろう。自分でも分からない。何で僕は怖がらなかった? 逃げたいと思わなかった? 何で昔の自分は――。

 ああ、そうか。分かった。

「多分、それが普通だと思ってたんじゃないかな」

 白狐は再び絶句した。

「あの町が深淵に落ちてるのが理由か分かんないけど、子供の体に多少痣があったからって問題にはならなかった。と云うより、痣があったりする子は多かった。だから、当たり前だと思ったんじゃないかな」

「可笑しい……」白狐は声を震わせた。「可笑しいよ、そんなの。可笑しいよ、可笑しいよ、夜ト!」

 僕は白狐が何でこんなに取り乱しているのか分からなかった。

「昨日、君のお母さんと思いを寄せていた子の話を聞いたとき、云っちゃ悪いけど吐きそうになった。

 深淵は、お金よりも闇が深かった。あの時ね? 私、自分が嫌いだった世界ってこんなに平和だったんだって思った。あんなに嫌っていた世界が、恵まれてたんだなって思った。

 今の話を聞いてても吐きそうだった。可笑しくなりそうだった。

 でも、私が驚いたのはそこじゃない。夜ト、君だよ。君に驚いた」

 どうやら、僕は白狐が全てを受け止めてくれていると勘違いしていたらしい。白狐は多分、受け止めているふりをしていたんだろう。

「何で君はそんな深淵で生きているの? 何で生きられるの? 何で平常心でいられるの? 私だったら、もう自殺してるかも知れない。だって、思いを寄せていた子が借金を返すために売春をして、君のお母さんも売春して、さらにお母さんは自殺して。気が狂いそうにならなかった? この世界は可笑しいって、逃げたいって思わなかった?」

 ならなかったし、思わなかった。いや、元々狂っていたのかも知れない。

「悲しいとか、苦しいとか、そう云うようなこと云ってたけど結局その中で生きてるじゃん。

 ねぇ、何でそんな深淵で生きているの? 何で生きられるの? 何で平常心でいられるの? 何でそんなことを淡々と語れるの?」

「僕だって悲しんで、後悔して、苦しんだよ」

「当たり前だよ! でも、そう云いたいんじゃない。普通の人だったら、そこまでの後悔とか、苦しみには耐えられない。可笑しくなっちゃう」

 僕は可笑しくならなかった、ただそれだけじゃないんだろうか。人の心の強さはそれぞれであって、ものすごく強い人もいればものすごく弱い人もいる。僕はたまたま心が強い方だっただけではないのだろうか。

「結局、白狐は何が云いたいの?」

「夜トは、深淵から逃げようとしなかったの?」

「したよ。て云うか、その話は前にしたでしょ。深淵は糊なんだ」

「違うね」

 白狐は断定した。

「夜トは、悲しいとか、悔しいとか、苦しいとか、そう云う感情をいっぱい経験したと思う。それで、その理由が深淵だと気が付いたんでしょ? それで、夜トは思ったんじゃないの? 深淵にいるんだから仕方ないって。逃げようと思ってても、心のどこかでは諦めてたんでしょ。仕方ないって。

 それで、そう云う環境が普通に思えてきた。それで、普通に思えたから抜け出せなくなったんじゃないの?」

 ゆっくりと息を吸ってから云う。「深淵は環境か心かのどちらか、もしくはどちらにも存在している。心の深淵は、個人次第で跳ね返すことが出来る。でも、環境の深淵は無理だ。心の深淵は個人個人、つまり一個一個だけど、環境の深淵はずっと積み重なっているんだ。

 環境の深淵は、必ず人生のどこかしらを蝕む。学習だったり、生活だったり。必ずどこかしらを蝕んでいる。そして、積み重なった深淵の層が人生を蝕むこともある。

 例えば、ある子が援交をしていたとする。そして、その子が親になった。だが、その子が援交をやっていたのがバレて、子供の進学や就職に影響が出た。そうして、その子はちゃんとした職に就けなくなった。こう云うこと」

「それは先代の責任じゃん」

「そうだよ。ああ、いい云い方があった。

 深淵は歴史なんだ。積み重なって今に至る。歴史を断ち切ろうとするのは無理だ。それと同様に深淵を断ち切るのは無理だ」

「…………」

「だから、抜け出せなくなったんじゃなくて元々抜け出せないんだ。責任と同じように深淵がその人間に付きまとうから」

「…………」

「白狐の云っていることは順番が間違ってるんだ。

 仕方ないって思って、それが普通に思えたから抜け出せなくなった訳じゃない。

 抜け出せないと分かったから仕方ないと思い、それが普通になった」

 白狐は力なさそうに首を振った。「私には理解できない」

「しなくていいよ。これは深淵で暮らした人間にしか理解できないことだから。無理に理解しようとすると、白狐まで深淵に落ちてしまう」

 そこで会話が途切れた。車はやはり全く知らない道を通っていて、自分がどこにいるか分からない。

 しばらくして、白狐が口を開いた。「取り乱してごめん」

「大丈夫だよ」

「一つ分かってほしい。私は夜トを責めたくてああ云った訳じゃない。私なりに考えて、夜トが間違ってるから直してあげようと思っただけなの。好きだから。

 でも、深淵は私が思ったよりも深くて入り組んでいる物だった。部外者の私が口出しできるような世界じゃなかった」

「いいんだよ、気にしないで。普通の人が見て、深淵が可笑しいのは普通だから」

「でも、夜トを傷つけたような気がする。勝手に決めつけて、自分の考えを押しつけようとしたから。ごめん」

「じゃあ、償いをしてもらおうかな」

「うん、いいよ。何でもする」

 償いに何をしてもらうかはもう決まっていた。

「もしかしたら白狐にとっては答えにくいことかも知れないけどいい?」

「どうぞ」

「ゆうき、って誰?」

 わかりやすく白狐の顔が引き攣った。でもそれは一瞬で、白狐は覚悟を決めたように話し始めた。

「ゆうきは私の同級生かつ元カレ」

「ええと、漢字はどう書くの?」

「有るって云う字に白亜紀の紀で有紀」

「ありがとう。ああ、続けて」

「告白は有紀がしてきた。今でも覚えてる。『だ、大好きです! 俺なんかでよければ付き合ってください!』って云われた。有紀は元気で面白かったから、OKした。でも、長くは続かなかった……」

 白狐の頬に光る物が見えた。泣いているのだ。

「有紀はすぐに肉体的関係を求めてきた。でも、心の準備って云うのがあるじゃん、私は『まだ早いよ』って云って断ってた。

 でもある日、有紀が家に遊びに来たの。それで時間が来てそろそろ帰ってって云ったとき、有紀に服を捕まれた。何? って聞いたら、何も云わずに私をベッドに押し倒した。

 怖かった。心臓が止まりそうだったけど、血が体を巡っているのが分かる程心臓は働いてた。

 やめてくれるかも知れないと思って、もう一回何? って聞いた。そしたら有紀は私の服の中に手を入れてきた。怖くて体が動かなかった。筋肉が全部縮こまった感じがした。逃げたいって思っても体が云うことを聞かなかった。

 有紀は私のお腹を触った後、下着をずらして胸を触ってきた。その時、腕がとっさに動いて有紀の顔を叩いた。ビンタが強かったのか、有紀が油断していたのかは分からないけど、有紀は倒れた。

 私はズレた下着を直すことなく部屋を飛び出した。忌々しいことに、胸には有紀に触られた感覚が染みこんで離れなかった」

 どこにでもそう云う奴はいるらしい。人間として終わっている奴は、深淵だけでなく普通の世界でも元気に活動していた。

「その後のことはよく覚えてないんだけど、私外出禁止になったんだよね。有紀にやられたことがショックで忘れちゃったのかな」

 どうやら白狐にも思い出せない記憶があるらしい。似たもの同士だな、と本気で思った。本当に僕らは似ている。

「ねぇ、夜ト」

「うん?」

「一つお願いしていい?」

「……どうぞ?」

「私の胸、触ってくれない?」

「……何で?」

 また変なことを云い出すのかと思ったが、その言葉にはちゃんとした理由があった。「今でも有紀に触られた感覚が残ってるの。それを消したい。だから、お願い」

「分かった。また、今度ね」

 普通だったらOKしなかっただろう。白狐が巫山戯て『私の胸触ってよ!』何て云ってきたら、絶対に断っていただろう。でも、今回白狐はその行為を〝助け〟として求めてきている。僕だって頼んでよしよししてもらったんだから、断る訳にはいかない。気が引けるが。

 気が付くと長い一本道を走っていた。周りの土地使用率は、田んぼが多くなってきた。と云うより、右手側はほぼ全て田んぼだ。左手側にも田んぼが見えるものの、住宅街も奥に見える。

 白狐と会話をしていて景色を見ていなかったので、景色を楽しむことにした。今どこかは分からないが、隣町かその隣だろう。おそらく、目的地の亞部輪湖がある町にはまだ入っていない。

 右手側の田んぼの奥に見える山には、青々とした木々が生えている。まるで絵に描いた山のような緑色だ。田んぼは当然手入れされていないため、色々な植物が生えている。殆ど緑一色の植物だらけだが、たまに色の付いた――と云うより花の咲いた植物が目に入る。白狐はこう云う自然が好きなんだろう。

 車が林っぽいところに入ったかと思うと、また視界が開けてさっきまでの一本道に戻った。自然に溢れていていいかも知れないが、ずっとこれだと飽きてくる。

 太陽の位置からして今は午後二時くらいだろうか。時間はまだまだある。

 一本道を走り続けていると、道の真ん中に何かが見えた。茶色っぽいような黒っぽいような何かが。白狐も気が付いたらしく、何あれと聞いてきた。

 まだ遠くて分からないため、そのまま車を走らせて近づいていく。

――ん? あれはもしや……。

 それが動いた。

――熊だ!

 それは大きめの熊だった。山から下りてきたのか、道路の真ん中を歩いている。

「え、え? あれ熊じゃない?」

「熊だよ」

「熊だよね?」

「うん、熊だ」

 にしても邪魔だった。道路のど真ん中を歩かれては通れない。それに、熊はこちらに向かってきている。とにかく車を止める。熊との距離は一〇〇メートルもない。

 熊はのっしのっしと四足歩行で歩いてくる。

「え、これ大丈夫なの?」

「あ、窓閉めないと」

 窓を閉める。一応ドアをロックしておく。

 ついに熊は車の目の前まで来た。白狐が僕の腕を掴んでいる。いや、女子だからとはいえ高校生だろ。中学生の僕を守れ――とは云わなかった。

 熊は立ち上がって威嚇してきた。

「ひっ!」

 白狐が僕の腕をさらに強く掴む。正直、少し痛い。

 熊がフロントガラスを殴りつけたが、さすが強化ガラス、びくともしない。殴った熊の方が痛そうだ。次に何をしてくるのかと思っていると、熊は車によじ登ってきた。天井からギシッと云う音が聞こえてくる。

 すると、後ろからドスッと音が聞こえた。

「え?」「は?」

 熊は車に登って、反対側に降りただけだった。

「車が……邪魔だったのかな」

「そう……なのかな」

 何もなかったかのようにのしのしと歩く熊をサイドミラーで見ながら、車を発進させた。

 少し気まずくなった空気が、熊のおかげで和んだような気がする。


 やっと亞部輪湖を囲む林の前まで来た。日はまだ照っているが、しばらくしたら元気をなくしそうだ。

 車から降りて空気を吸うと、あの山の頂上と同じような匂いがした。緑の匂いは、どこでも同じらしい。林道の入口が見える。入口に立ててある看板には『亞部輪湖まで4.8㎞ 徒歩一時間』と書いてある。本当に四・八キロを一時間で歩ききれるのだろうか。一時間半程かかりそうにも思える。

 林は手入れされていない筈なのに綺麗で、農薬がまかれているのかも知れないが雑草の楽園とはなっていなかった。

 だがあの山の中で聞こえた動物の声――あの時はカラスだった――は聞こえない。さっきいた熊はどこから来たのだろうか。

 僕を先頭に林道に入る。一応、ポケットには車にあったライトを入れてい置いた。

 道がしっかりあって歩きやすいし、木々の枝が伸びて生えている葉が空を覆っているので涼しい。緑のカーテンならぬ緑の日傘だ。見上げると、葉の間から日光が小さく差し込んできていて幻想的な光景だった。

「何か、京都みたい」

「な。修学旅行で来そう」

 歩いて行くと、道が二つに分かれていた。片方には「初心者コース」もう片方には「上級者コース」と書かれている。おそらく、道の険しさとかそう云う違いだろう。

「白狐、どっち行きたい?」

「待って! こう云うときは定番の……」

 白狐は長い木の枝を持ってきた。定番中の定番をやるつもりらしい。

「さて、どっちに倒れるのでしょうか」

「今来た道か、道じゃないところを指した場合は?」

「私が気分で決める」

「それなら棒の意味なくね……?」

 白狐は僕の最後の言葉を無視して、棒を立てて手を離した。不運か幸運か、棒は「上級者コース」の方に倒れた。

「と云うことで上級者コースに行きまーす」

「白狐大丈夫?」

「え? 何が?」

「いや、上級者コースで途中でリタイアしないでよ? 置いてくよ?」

 白狐は倒れた棒を拾い上げ、林の方に投げた。

「大丈夫、死んでも夜トの腕から手を離さない」

 そう云うと、僕の腕を掴んできた。

「よし、今からデート!」

「分かったよ、デートね、デート」

 嫌々、と云う感じの口調で云ったが、本音は嬉しかった。好きな人に腕を捕まれて林道を二人きりで歩くのだから。別にやましいことを考えている訳ではないが、本当に嬉しかった。

 そんなことを思っていると、頬が赤くなっていたらしい。そして、白狐はそれを見逃さなかった。

「お! 夜ト頬が赤い? 照れてるの? ははは、純粋か」

「純粋だよ」

「え⁉ 純粋なの⁉」

「……乙女バージョンの逆か?」

「そう云うこと。やられっぱなしじゃつまんないから」

 上級者コースに入る。最初に変わったのは道の高低差だった。

 さっきまでの道は殆ど平坦だったが、上級者コースの道は山あり谷ありで歩きにくく、すぐに足首を痛めてしまいそうな道だった。

 果たせるかな、白狐が足首を捻った。

「痛っ!」

 白狐は盛大に転んだ。

「痛ぁい。最悪」

「だから云ったじゃん、上級者コースで大丈夫? って」

「別に、大丈夫だし」

 白狐は両手を使って無理矢理立ち上がったが、捻った足首が痛いのかしゃがみ込んだ。それでも諦めずに立ち上がろうとするので、止めた。

「悪化するからやめろ」

「だって、じゃあどうすればいいの?」

「……おぶってやるから」

「え、おんぶしてくれんの? 私重いよ?」

「……大丈夫、多分」

 白狐の前にしゃがみ込み、白狐が僕の首に腕を回す。膝の裏に腕を入れ、重心を前に置いて立ち上がる。白狐は思ったより軽かった。

「おお、凄。夜ト、力持ちだね」

「白狐、普通に軽いよ」

 自分も足首を捻らないように、足下に注意しながら歩く。白狐をおぶっているからすぐにバテるかと思ったが、そこまでバテなかった。

 逆に、何故かおぶさっている白狐が息を切らしていた。おんぶされている側は疲れるのだろうか。それに、白狐の顔が僕の右耳のすぐ横にあるから、白狐の息が耳に当たってこそばゆい。

 おそらく半分ぐらい歩いたところで、緑の日傘が一時的になくなった。日光が容赦なく体に照りつけ、汗が流れた。

「ごめん夜ト。私めっちゃ汗かいてるかも」

「お互い様。ま、直射日光なんだから仕方ない」

 五分程歩くと、緑の日傘が復活した。

 まだ体力はあるのだが、おんぶのせいで腰が痛くなってきていた。なので、一旦白狐を下ろして休憩した。汗で服が肌に張り付き、気持ちが悪い。が、汗のおかげで風が吹くと涼しくなる。

「夜トぉ、喉渇いた」

 そういえば、昨日から水分を取っていない。まずい、熱中症になってしまう。ガソリンスタンドと同じく水道も機能していないので、水を飲むとしたらペットボトルぐらいしかない。

 だが、ここは林道。店があったら逆に可笑しい。

「白狐、やばい。熱中症になるかも」

「え、何? ね、ちゅーしよう?」

「よくこんな状況でそんな文字遊びが出来るな」

「大丈夫だよ。ここ観光地だし、湖に付けば周りに休憩所とかある」

「本当か?」

「うん……多分」

 休憩所があったとしても、ペットボトルなんかがなければ全く意味がない。が、今は休憩所にそれがあることを祈るしかない。

 再び白狐をおぶり、林道を進む。さっきに比べ、道の高低差はなくなってきた。歩きやすい。それと、今気が付いたのだが上級者コースは不要に蛇行している。おそらく、距離を伸ばすためた。

 道を真面目に歩いてても熱中症になるだけだ!

 木々の向こう側に道が見える。何をするべきかは決まっている。

――ショートカット!

 道を外れて木々の間を通り抜けていく。

「え? 夜ト何してんの?」

「ショートカット」

「云ってることが体育の授業の長距離の時じゃん……」

「現に今長距離だろ」

 落ち葉なんかで歩きにくいことは歩きにくいが、歩けないことはない。ショートカットが出来るならこれぐらいどうってことない。

 そこからは、道を通るよりも木々の間をすり抜けていくことの方が多くなった。道を目で追えばどっちに進めばいいのかが分かるし、多分道なんか見なくてもまっすぐ進めば湖に着く。

 しばらくして、看板が見えた。

『残り八〇〇メートル』

 前を見ると、慥かに木々の間から見える景色が開けている――ような気がする。

「夜ト、そろそろ着くんじゃない⁉」

「ああ、着くから目を瞑って待ってろ」

 冗談で言ったのだが、白狐は本当に目を瞑ったみたいだった。

 木々の間から何やらキラキラとした物が見えてきた。多分、湖に日光が反射しているのだろう。一体どんな湖なんだろうと期待をしていた。

 しかし、頭の中では他のことを考えていた。何で今それを考えているのかは分からないが、僕は父のことを考えていた。

 何で父は僕に暴力を振るったのか。

 父はあの時何と云っていたのか。

 僕が退院してから暴力がなくなったことから考えるに、父は暴力を楽しくてやっていた訳ではないのだろう。暴力を楽しむ奴なら退院しても暴力は続けるだろうし、第一楽しむ道具がなくならないように大けがはさせないだろう。もしくは、僕が入院して心変わりをしたのか。

 では何故父は僕に暴力を振るっていたのだろうか。

 次だ。あの時、父は何と云っていたのだろうか。僕はその思い出せない台詞に父の暴力の理由があると思えてならなかった。その頃の記憶を忘れているのにその台詞の破片を覚えていると云うことは、僕にとっても衝撃的な内容だったのだろうか。

 父親が暴力を振るう理由かつ、僕にとっても衝撃的なこと。一体それは何なのだろうか。

 最後の木を通り越し、湖が完全に見えるようになった。ここから見た感じ、湖は綺麗な円形だ。湖の周りには草が生え、輪郭のようになっていた。

 水面がキラキラと輝いている。が、さっきよりも光の元気がないように見える。空を見ると、太陽が陰ってきていた。赤い物は、さらに大きさを増したようだ。

「白狐、着いたよ」


 白狐がもう痛くないかも、と云うので下ろしてやった。実際、そこまでひどくなかったのか白狐の再生能力が高いのかは知らないが、慥かにちゃんと歩けていた。と云うより走っていた。

 広ーいと云いながら走っているのはなんと高校生だ。

 そう思うと笑える。車の中で僕の心を心配して気を取り乱していたときの白狐とは大違いだ。こう云うのをギャップ萌えと云うのだろうか。

 はしゃぐ白狐を見ながら、僕は腰を下ろした。腰が限界だった。軽いとは云え、一度しか休憩を入れなかったのはさすが自分、馬鹿だなとしか云いようがない。

 それに、軽い目眩がした。多分、軽い脱水症状になっている。

 湖の周りを見ると、慥かに喫茶店のような休憩所が見えた。何でもいいから飲める水があってくれ、と願う。もしなかったら、冗談抜きで死ぬことになる。

 気が付くと、白狐のはしゃぎ声が聞こえなくなっていた。どこに行ったのか、と思って辺りを見回すと、まだ走っている。どうやら、湖を一周したいらしい。だが、無理に決まっている。ぱっと見、湖の円周の長さは三〇、いや四〇キロはありそうだからだ。

 それに気が付いたのか、元々遠くに行く気がなかったのか、白狐が引き返してきた。

「足首は大丈夫そうか?」

「全然大丈夫。帰りは夜トのことをおんぶできそうなくらい大丈夫」

「完治だな」

「てか、喉渇いた」

「僕もだ」指を指して云う。「あれ、白狐の云ってた休憩所だろ?」

「そうだね」

 どうやら湖に辿り着くまでのルートは四方八方にあるらしく、その近くには必ず休憩所があるらしい。反対側の方は遠くて見えないから断定は出来ないが。

 休憩所に入ると同時に、冷水機が目に飛び込んできた。それも、水道から水を引っ張ってくる物ではなくタンク式の。コンセントに繋がっていたのでタンクから直接水を出さなければいけないかと思ったが、コックを捻ると水が出てきた。どうやら電気は冷やすのに必要なだけで、水を出す際には必要ないらしい。

「え、これ大丈夫かな」白狐が心配そうな声を出した。

「何が?」

「うちにこう云うのがあったんだけどさ、飲み終わらなかった場合は定期的にタンクを交換しなきゃいけないんだけど……これどれくらい前の水だろ。大丈夫かな?」

「そんなこと心配してたら脱水症状プラス熱中症で死ぬ」

「え、ね、ちゅーしよう?」

「元々面白くないのに二回目やると冷めまくるからやめて」

「脱水症状って文字遊びできるかな」

「聞いてないね?」

 冷水機の脇に取り付けてある紙コップケースから紙コップを一つ取ってセットし、水を注ぐ。コポポと紙コップならではの音がして、中に水が溜まっていく。

 白狐が心配そうな顔を横目に水を飲む。変な匂いや変な味はしないので、多分大丈夫だ。

「大丈夫そうだよ」

「ええ、でもなぁ」

「飲まないと捻挫どころじゃなくなるよ? ワンチャン死ぬ」

「それはやだなぁ」

 もう一つ紙コップを取ってセットし、水を注ぐ。毒味と云うことで、水の量は少なめにした。

 白狐は、嫌々一口飲んだ。と思うと、「おかわり」と云って紙コップを差し出してきた。

「大丈夫そうでしょ?」

「大丈夫でも大丈夫じゃなくても、一回飲んだらもっとほしくなっちゃった」

「あ、そう」

 今度は溢れそうな程水を注いで、零さないように手渡した。白狐はコップを受け取ると、ゆっくりと口に近づけた――と思ったときにはコップの底は上を向いていた。よっぽど喉が渇いていたらしい。僕におぶってもらっていたくせに。

 僕も一杯じゃ足りず、最終的に四杯飲んだ。白狐はと云うと……八杯程飲んだ。

 二人とも水を飲み終えると白狐が「お腹空いたー」と云うので、休憩所の中の飲食コーナーの調理場に入った。

 電力供給がなくなって意味をなさなくなった冷蔵庫を開けると、調理用の肉やらが入っていた。当然腐っている。アイスもあったが、ジュース化していた。

「夜ト! こっち来て!」

 白狐の声の方向に向かうと、自動販売機があった。近寄ってみると、食品の自動販売機だった。

「これ食べられる」

「どうやって取り出すんだよ」

「夜ト、男の子でしょ?」

「女に見える?」

「なら、ぶっ壊して」

「とんでも理論だな」

 だが、さっき見た感じ食べられそうなものはなかったので、あるとしたら慥かにこの自販機だけかも知れない。それに食品の自販機は中が見えるようにアクリル板が使われているから、飲み物自販機よりか壊すのは簡単かも知れなかった。

 何であるのか分からないスパナと金槌と、さらに何であるのか分からない金属バットが見つかった。ついでに工具はドライバーや釘抜きなど、他にも色々あった。

「うわぁ、夜ト凄い物持ってきたね」

「こんな物を持ってくるはめになったのは誰のせい?」

「ははは、私のせいだね」

「離れてて」そう云い、金属バットを振る。アクリル板にバットがぶち当たり、白くなった。何度も何度もバットを振ったが、へこむだけで壊れそうになかった。

 今度はへこんだところに金槌を振り下ろした。が、進展が見られない。恐るべしアクリル板。

 最後、渾身の一撃をアクリル板に食らわせる。スパナを思いっきり投げるのだ。回転しながら飛んだスパナは、アクリル板に当たって……。

「ベコッ、ガアァン!」

 アクリル板を破って自販機内に侵入し、後ろの面にぶち当たった。

「おお! さすが夜ト!」

 穴が開いたところにバットを差し込んで、さらに穴を広げる。そこから腕を入れ、中にある商品を取り出す。

「昨日はベビースターラーメンと卵ボーロだけだったからなぁ」

「仕方ないよ。はいどうぞ」

 中から取りだしたランチパックを白狐に手渡す。

「うわぁ、贅沢だなぁ」

 ランチパックを、白狐に手渡した物も合わせて六個取り出した。味は全てツナマヨ。後ろを見ると、白狐は既にランチパックを開けていた。

「早くない?」

「だから、私は家康」

「じゃあ、家康並みの努力をしてください」

「どんな?」

「さあ」

 僕も座ってランチパックを開ける。白狐はもう食べていた。

「いただきます」

「あ、わふれふぇた。いふぁまきまふ」

「何て? 忘れてた、いただきます?」

 コクコクと頷く白狐。

「云うの遅いし、口に物入れたまま喋んな」

 ランチパックに齧りつく。久しぶりにマシな食品に出会えた。

 僕より先に食べ終えた白狐が、金槌を持って飲み物の自販機の前に立った。僕はランチパックを食べながら、何をするんだ? と思いながら見ていた。

 二秒後、白狐が自販機に金槌を振り下ろした。

 予想していた行動ではあったが、実際にやられると驚く。

 よく見ると、どうやら金槌で叩いているところは鍵のところだった。鍵を壊して自販機を開けるつもりなのだろうか。

「バキッ、カランカラン」

 鍵のところの銀色の上蓋のようなところが外れた。白狐はそこにスパナを差し込んで思いっきり体重をかけた。鍵を折りたいらしい。だが、非力な白狐には無理そうだ。さっきから何度も「ふっ!」と云いながらスパナに力をかけているが、鍵が壊れそうな気配は全くない。

 ランチパック、残りの一枚を口に入れて開いた袋を投げ捨てる。もぐもぐしながら白狐の後ろに行く。

「ぼふぐぁやふぉうか?」

「夜トも口の中に入れて喋ってるじゃん。ええと? 僕がやろうか?」

 頷く。「ぼふふぁばんふぃばふぁあひふぃお」

「僕は男子だからいいの?」

 やっとランチパックを飲み込めた。

「そう云うこと」

「今は男女平等だよ」

「そうだけどさ」

 刺さったままのスパナに力を込める。が、全然動かないので全体重をかけてみる。

「手ぇ痛ぁ」

「男子の夜トでも無理かぁ」

「あれ、男女平等なんじゃないの?」

「体のつくりが違うでしょうに」

 何度も体重をかけ、ついには白狐と二人がかりで体重をかけた。結果、鍵が少し曲がったらしい。が、まだ自販機を開けることは出来ない。

 最終兵器を使う。金属バットだ。

 スパナを刺したままにして、そこにバットを振り下ろす――つまり体重をかけていたところをバットで殴るのだ。

 一、二、三、と三度目の正直で何かが折れた音がした。スパナを抜き、中を覗く。

「これは、どうなってるんだ?」

「多分、折れたんじゃないかな。開けてみよ」

 自販機の正面の面を引くと、開いた。たまに見かける補充の時を思い出した。

「おお! 開いた開いた!」

「でも、飲み物取り出せなくね?」

「え、いけるでしょ」

 飲み物を入れるところに手を突っ込む白狐。だが、何かに引っかかっているのか飲み物が取り出せず、諦めた。

「無理じゃん」

「どっかにさ、一気に全部出てくるような仕掛けないかな」

「あー、ありそう」

 下のところの蓋を開けると、スイッチやらレバーやらが詰まっていた。コントロールパネルのようだ。

 片っ端からスイッチを押していく。だが、全く反応が見られない。残るは、三つのレバーだ。一個目、何も起こらない。二個目――⁉

「バンッ……ガラガラガラガラガラガラガラ!」

 突如、飲み物取り出し口に缶やペットボトルが降ってきた。

「ガラガラガラガラガラガラガラガラ!」

 続々と飲み物が落ちてくる。取り出し口が一杯になっても音は止まない。後ろで詰まっていそうだ。

 白狐が何かを云ってきてるが、飲みのもが落ちてくる音が五月蠅すぎて聞こえない。思いっきり声を張り上げる。

「何⁉」

「飲み物が! 出てきたね!」

「そうだね!」

 音が止んだ。急に静かになったので、違和感が凄い。

 取り出し口の飲み物を取る――。何故か缶が取れない。

「白狐、取れないんだけど」

「え?」

 積み重なり過ぎてか、缶が取り出せなくなっていた。白狐も缶を取り出そうとするが、無理そうだ。

「夜ト……」

「うん……」

 せーのも云わないのに、完璧にハモる。

「やっちゃったね」「やっちゃったね」

 何度も引いたり押したりしたが、缶が取れる気配はない。

「これ、使えばいける説」

 僕が缶と格闘している間に、白狐はどこからかプラスチックの下敷きを持ってきていた。

「どうやって使うの?」

「これをこうして……」

 白狐は缶と缶の間に下敷きを差し込み、自分側に出ている方をぐいっと下に曲げた。と思った瞬間、飲み物が下敷きを滑り台のようにして一気に流れ出てきた。またガラガラと五月蠅い音が鳴る。

「出てきたー!」

「頭いいな」

「これでも高校生ですから」

 出てきた飲み物を集めた。水にお茶にコーヒーにジュース。定番の物が集まっていた。当然冷えていないので、炭酸系は多分まずい。飲むなら水かお茶かコーヒーか炭酸の入っていないジュースだろう。

 だが、恐れ知らずの白狐は炭酸のペットボトルを開けた。やめた方が――と僕が云う前に白狐は炭酸を口に流し込んだ。

「しゅわしゅわするー。この感覚懐かしいなぁ」ニコッと笑って、すぐに真顔になる。「でも、まずい」

「だろうね、冷えてないんだから」

 これから先のことを考えて、ポケットに飲み物を入れて持って帰ることにした。

 何故か、白狐は当然のように炭酸の缶をポケットに入れた。

「白狐? 炭酸はやめとけ」

「何で? どっかで冷やせるかもよ」

「無理だろ。多分飲まないから、水かお茶にしとけ」

「えぇー、ケチ」

 そうは云っても、白狐はちゃんと云うことを聞いて水をポケットに突っ込んでいた。

 二人とも飲み物を持つと、休憩所を出た。外は夕日でオレンジ色になっていた。昨日白狐がこの色を見てかき氷を連想したのを思い出して笑ってしまった。白狐が「何?」と聞いてきたが、何でもないと返した。

「帰りますか」

「そうしましょう」


 再び林道に入ったが、一〇分程したところで辺りが暗くなった。まだ完全に真っ暗になった訳でではないので近くは見える物の、奥の道がどうなっているのかが分からない。さらに、この辺はショートカットをしたのでどんな道だったかが全く分からない。つまり細心の注意を払いつつ、日が完全に陰る前に車に着かなければならない。

 もし完全に暗闇になった場合は、ポケットに入れてあるライトが最後の砦だ。

 そう思っていると、早くライトを使えと云うかのように辺りが真っ暗になった。仕方なくライトをポケットから取り出して付けた。少し先の方を照らして、道がどうなっているのかを確かめる。相変わらず不必要に蛇行していてショートカットしたくなるが、暗闇でショートカットするのは自殺行為だ。迷った場合、どこにいてどこに行けばいいのかが分からなくなる。

 ショートカットしていたので気付かなかったが、木々に観光客が付けたのか白いハンカチや布が結ばれていた。しかし、それは進むにつれてなくなっていった。何か意味があるのだろうか。

 白狐に問うた。「このハンカチとか布って何か意味あるの?」

「ここの湖に人魚がいるって云う話は聞いたことがある?」

 頷く。

「じゃあ、鬼子母神の話って知ってる?」

 それは知らなかった。首を横に振る。

「鬼子母神は鬼女なんだよ。人間の子供をさらってはその肉を子供に食べさせたんだ。合計……何人だったかな、五〇〇人くらいの子供を殺したらしいんだよ。

 ところがお釈迦様が怒って鬼子母神の子供を隠したんだよ。鬼子母神は狂ったように我が子を捜し求めた。

 その時にこの湖に立ち寄ったらしいんだよね。それで鬼子母神は湖の中に子供がいるかも知れないと考えて湖に飛び込んだ。息が続く限り湖の中を探し回ったけど、結局子供は見つからなかった。

 鬼子母神は諦めて湖を出ようと思ったんだけど、運悪く草が足に絡まって水の中から出られなかった。それで、結局溺死した」

 昔、どこかでそう云う事件を聞いたことがあった。どこかの男性が惚れた女性を監禁して殺し、その肉を食べたと云う。今の話とは全く関係ないが。

「実は、隠したとは云っても鬼子母神の子供はお釈迦様が持ってたんだ。

 お釈迦様は子供を人魚に変えてこう云った。

『お前の母親の罪を償いなさい。殺生は絶対にしてはならない。さらに、他の生き物が幸せに暮らせるようにしなさい』と。

 人魚になった鬼子母神の子供は湖に入った。泳いでいると、母親の死体が目に入った。人魚は白い布で母親の死体を包むと、お釈迦様に云った。『許されないことをした鬼でも、母は母です。弔ってあげてください』

 お釈迦様はそれを認めて、鬼子母神を丁寧に弔った」

 まるで昔話のような話だな、と思った。

「そこから始まったのがそれだよ、木に白いハンカチや布を結ぶこと。

 お年寄りなんかが鬼子母神の話を聞いて、死後の世界でも幸せになれますように――みたいな感じで木に白いハンカチを結んだのが始まりだって。何かこじつけみたいだけど、こう云う話なんだよ。本当に」

 じゃあ――と思った。

「じゃあ、僕達もお願いしないと」

「え?」

「絶対に死ぬんだからさ、死後の世界のお願いを……ね?」

「でも……白い布なんか持ってないよ」

「池の方を向いて、手を合わせてお願いしよう。何かしらの意味はあるだろ」

 後ろを向く。ライトを遠くの方に向けると、湖らしき物が見える。この方角であっている。

 両手を合わせ、願う。白狐が何を願ったのかは知らないが、僕はこう願った。

――死後の世界があるのなら、そこでも白狐と一緒にいられますように。


 どれくらいの時間をかけたのかは分からないが、とにかく車まで着いた。 空は完全に暗くなっている。周りが田んぼなのもあって、昨日の山と同様に星が綺麗に見える。

 車に乗り、ポケットに突っ込んである飲み物を車内に置いて寝転ぶ。

「白狐?」

「うん?」

「明日、行きたいところあるか?」

 実際、自分が行きたいところがあったので白狐に聞いた。もし白狐にも行きたい場所があるなら、どっちを先に行くかを決めなければいけないからだ。

「いや、ないけど」

「じゃあさ、僕が行きたい――て云うより白狐にお願いがあるんだけど。白狐の家に行ってみたい」

 白狐は硬直した。

 理由はいくつかあった。お金持ちの家が見てみたいと云うのもあるし、金で汚れた世界という物を見てみたいと云うのもあるし、白狐がどんな生活をしていたのかも気になっていた。

 深淵は人がいなくなっても存在していて、それはそこにいるとなんとなく分かる。人の気配のように、なんとなく分かる。白狐の町にも、金の深淵があるんだろう。その金の深淵がどんな物かを感じてみたかった。

「……何で?」

「白狐が住んでいた町や家を見てみたい。白狐が嫌っていた雰囲気がどんな物か感じてみたい」

「夜トの周りの深淵に比べれば小さなもんだよ?」

「それでもいい。白狐が嫌っていた環境を見てみたい」

「……分かった」

 けど、と白狐は続けた。

「じゃあ、交換条件。私も夜トの家に行ってみたい」

「……分かった」

「じゃあ明日、私の家に行って時間が余ったら夜トの家。時間がなかったら明後日夜トの家。OK?」

「分かった」

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 車にあったノートとペンを手に持ち、毛布を被って目を瞑った。


 白狐の寝息が聞こえてくる。どうやら眠ったようだ。

 ゆっくりと体を起こして、車のドアを開ける。コツを掴んだようで、完璧な無音でドアを開けることが出来た。

 ノートに文を書く。

『もし起きて僕がいなくても心配しないでください。必ず帰ってきます』

 一度そこで止め、『湖に行ってきます』と書き足してノートを毛布の上に置いた。

 ゆっくりドアを閉める。林道に入り、湖を目指す。

 別に湖に行きたいから湖に行く訳ではなかった。なんとなく、あそこなら心を落ち着かせて物事を考えられる気がしたからだ。

 日光はなく、月明かりもない。頼りになるのはライトだけだった。

 刺すような日光がなく体力を削られにくいかと思ったが、脚物に配る注意が一段と増して体力を奪われた。つまり、楽じゃない。

 あの分かれ道、当然初心者コースに入った。先の方を照らしてみると、変に蛇行していないし高低差もなかった。素晴らしい道だ。

 急に風が強くなった。もしや、と思ってライトを上に向けるとやはり緑の傘がなくなっていた。ここでもいいか、と思ったが、やはり足は湖を目指してた。

 しばらくすると、水の気配がした。いや、そんな馬鹿な、こんな早くに着く訳がない、と思って辺りを見回すと木々に白いハンカチや布が結ばれている。と云うことは、やっぱり湖の近くまで来ているのだ。やはり、上級者コースのぐねぐね道は相当時間を喰ったらしい。

 実際どうかは分からないが、体感上級者コースの半分程の時間で湖に着いた。見えなくとも、水の気配が凄い。

 ライトで湖を照らす。湖を囲っている柵を越え、地面と湖の境まで行く。水は黒々として見える。

 縁に座る。靴と靴下を脱ぎ、靴の中に靴下を入れて後ろに置く。

 ズボンを捲って足を湖に入れる。

 水はものすごく冷たくて、足の感覚を奪っていく。気付けば、足が今どこにあるのかさえ分からなくなる程水は冷たかった。冷たさは足からじわじわとに体へと広がり、体の芯まで冷やした。手も悴んで、よく分からなくなっている。

 だが、体の芯まで冷えると心が落ち着き、思考回路がしっかりする。

 ここで考えることは三つあった。

 一、自分の父のこと

 二、白狐のこと

 三、自分と白狐、二人のこと

 一つ目、自分の父のことだ。記憶がない以上、考えても無駄なのは分かっているが考えてしまう。

 何故父は僕に暴力を振るった?

 何故父は退院した日から暴力をやめた?

 あの時父はなんと云った?

 父は何の理由もなしに暴力を振るう人ではなかった筈だ。つまり、何か理由があって僕に暴力を振るっていたのだ。

 では何故僕に暴力を振るった?

 理由は二つ考えられる。

僕が父の逆鱗に触れることをした。

深淵の歴史上、僕が忌々しい存在だったから。

 しかし、最初にも云ったとおり記憶がないので何が正解なのか確かめることは出来ない。

 次に白狐のことだ。最近無性に疑問に思えてきた。何故白狐は僕と一緒にいるのだろうか。慥かに、僕が『この、この世界が終わるまで、僕と一緒にいてくれませんか?』と云ったのが理由というのもあるが、何故今日まで僕と一緒に行動しているのだろうか。

 一人だと心細いから一緒にいるのだろうか。僕のことを好きだから一緒にいるのだろうか。それとも特に意味もなく一緒にいるのだろうか。

 しかし、白狐の本質はお嬢様で白狐が云っていたとおりなら深淵の人間を見下すのが普通だ。だが、白狐からそう云う気は全く感じられない。最初からそう云う気を持ち合わせていないかのように。

 そう云う雰囲気が嫌で逃げ出したのだから、そう云う気がないのは当然なのだろうか。いや、だがそんな簡単にそう云った気をなくすことが出来るのだろうか。

 これは白狐に聞いてみなければどうにもならない。

 最後、僕と白狐のことだ。

 これからも一緒に行動すると考えて、一体僕達は何を目指しているのだろうか。確実な死を目の前に、僕達は何をしようとしているのか。

 僕はただただ白狐と一緒にいれればいい。だが、白狐は何を目指しているのか。それを考慮して行動しないと、二人の仲が悪くなる可能性が出てくる。

 その後もぐるぐると思考を回転させ、二つの答えを出した。

 父親のことは諦める。

 白狐に関することは直接白狐に聞く。

 わざわざ湖まで来て考えることではなかったかも知れないが、答えを出せたのでよかった。まあ、全てこの場で最終的な答えが出る物はなかったが。

 足を水から出し、靴下を穿く。恐ろしい程足に感覚がない。靴を履いて捲っていたズボンを戻し、立ってみても感覚が戻らない。まるで宙に浮いているような感じがする。

 でも、歩けることは歩けるので来た道を戻る。

 ライトは相変わらず地面を照らし、空は相変わらず黒い。当たり前のことが何だか不思議に感じるのは、僕の心の中で何か変化があったのだろうか。自分ではどこがどう変化したのか分からない。

 またあの緑の傘がない場所まで来た。星と一緒に赤い物が見える。あと何回この夜空を見上げることになるのだろうか。

 車まで戻ってきた。ゆっくりとドアを開けて中に入る。白狐が気付く前に帰ってこれたので、必要のなくなったノートを閉じる。

 寝転んで毛布に潜り込む。

 白狐は……よく分からない人だ。

 だが、僕はそんな白狐の不思議なところを愛していた。残りの日で、どんな白狐を知ることができるのだろうか。

 外から虫の鳴き声のような物が聞こえてきたような気がして、眠気が襲ってきた。

――おやすみ。

 寝ている白狐に、心の中でそう云った。

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