Evils on Plateau

 落ちていく。永遠に、落ちていく。身体を覆う浮遊感のなか、何者でもない私は、星樹人せいじゅじんの言葉を思い出す。ルビスコRuBisCOリブロースRibulose2リン酸Bisphosphateカルボキシル基転移酵素 Carboxylase酸素添加酵素 Oxygenaseは、植物の内部で生命(有機炭素)と無生命(無機炭素)を渡す唯一の存在だ。炭素固定という光合成に欠かせない役割を担う、非常に巨大な存在量を誇るたんぱく質だ。与えられたのは、星樹人せいじゅじんからすれば、最もかけがえのない名前。もしも、あの憎しみを忘れて、彼女の優しさに向き合うことができていたなら、こんなことをしなかっただろうか。青い髪で、大柄な女性を頭に浮かべた途端、ふと会話が聞こえてくる。甦翠殿そすいでんの中空、遠く輝く巨大な末端枝まったんしの過稼働エラーによって響く、二〇〇年前の彼女と、ある青年の会話が。

『決めた。きみの愛称は、さやうみだ。計画からしてぴったりだと思う』

『何でもいいですが、アーチェリーと演劇の練習をする日ではないのですか』

『大学の部活の思い出に執着するのはもうやめた。きみがここで穴を囲って海を作り直すなら、僕も定住地を広げるために頑張ることにしたよ。シェルターから出て、まずは小さな村からだけど』

『そうですか。であれば、本機もそちらに名を差し上げましょう。そに。海から伸びる川の青を飾る翡翠かわせみです。記念ですから、一字を貰って、ここも甦翠殿そすいでんという名にしますか』

『うわぁ』

『何ですかそのキラキラした目は』

『出会ったころにはいかにもアンドロイドって感じで、落花生モデルNo.1です、としか言わなかったのに。ロマンチックになったね。恋物語をやるなら、主役を任せられそう』

『黙りなさい。植物が人類に主役を譲ったことなど、地球で一度もありませんよ』

 末端枝まったんしは、瞬きながら伝えてくる。青年は村を作った。莢海さやうみは、星系樹せいけいじゅの指示のもと、彼のために既存の別の水源からみちを引き、少なくない動植物を手渡した。甦翠殿そすいでんの形成開始から二〇年が経ち、その工程の一割が終わろうというとき、彼らの姿は村端の丘の上にあった。夜の地平。深く豊かな海を前借りしたような黒の弓なりに、星々の光が瞬いている。四五歳を過ぎたばかりの村長は、もともと長く生きられる身体ではなかった。彼の父の世代の科学者たちは、「地球の維持」を目的とする星樹人せいじゅじんたちに少なくない仕事を託したという。黎明の時代に紡がれた、旧人類から新人類への言葉。ペンダントを首にかけた男は、最も好きなそれを口に出して、出会ったころのようなさやかな笑顔を浮かべた。


 宇宙に誕生があったのなら、死は生より自然であると思う。

 自然にのみ、ほかの自然を内包することが許される。

 この星を頼む、死に、生き続ける友よ。


『僕は、海になるよ』

『いいえ、あなたは星になるのです』


 向かい合って座り、伸びた病人の手を、彼女はそっと膝の上に押し戻す。これが彼らの最後の会話だった。丘を降り、心配そうな家族の元に村の英雄を送り届けた莢海さやうみは、ずっと聞こえていた蟲の羽音に銃口を向ける。たった一度しかない彼の最期の時まで、共に戦うことはできない。どんな脅威も及ばない場所で、そっと見ていて。何処からでも判る、海を作って見せるから。――東門を駆け抜けながら、涙を流す莢海さやうみの横顔が、いま薄い壁を隔てて、私の眼前にある。


 全ての樋門を閉じています。

 甦翠殿そすいでん注水完了から一五分が経過しました。

 莢に収容した八〇〇名のバイタルに異常はありません。


 自分が透明な耐圧殻たいあつかくに入れられて、12π立方キロメートルの塩水のなかにいるのだと気づいた瞬間、重い衝撃が身体を揺らした。雄々しい灰色の巨体。深海から姿を現した表皮の輝くマッコウクジラが、紡錘形の乗り物ごと私を頭の上に捉える。驚いて見回せば、上にも、下にも、遠くにも、近くにも、闇を侵す灯火がぽつぽつと浮かんで、ついには視界に溢れるほどになる。

 私の様子を確認した甦翠殿そすいでんの主は、ゆっくりと耐圧殻たいあつかくから離れて、髪を乱し、身を躍らせた。四〇ノット。青が幕を下ろす水面に手を伸ばして猛進する彼女を追って、枝葉のように拡がる八〇〇本の明るいみち。たくさんの海洋生物によって押し上げられる莢の群れの軌跡は、まさに陽を求めて栄える光の大樹だった。

 私が莢海さやうみの武器を奪った瞬間、彼女は丙層へいそうを上げ、一気に甦翠殿そすいでんを水で満たした。誰しもが自分のことに必死すぎて、甲層こうそうの少し下のそれに気持ちを向けなかった。水面に軽く身体を打った落伍者たちは、みな莢に回収され、治療され、海のなかに匿われていた。凪の海面。ボートのようになった殻を足場に、見回す。

「――みんな、生きています。生きるための海ですから」

 言葉に、枯れたはずの涙が溢れ、何度も嗚咽をこぼす。何分経っただろうか、莢海さやうみは、気絶したマリアを抱えてゆっくりこちらに歩み寄ると、彼女を私の殻の上に乗せた。

「罰は受けていただきますが――、まず、一つ言いたいことがあります」

 ほかの莢は酸素補給を終えて一旦海のなかに没した。次の破滅はすでに起こっていた。しかし、末端枝まったんしからの警報音も、彼方から迫る黒い甲虫も、巻き付いた植物の蔦によって出血が止まった自分の右腕も、私の注意を引くことはない。何より先に、聞くことがある。

 バチン。人工衛星の回折により、大柄の女性に莫大な太陽光が降り注ぐ。水・光合成曲線が描けないように、光合成との基質として分解される水はほとんど無視できる量でしかない。だが、超常兵器はルールを捻じ曲げる。鉄の銃把じゅうはに装填された紡錘体内の液体が爆発的な勢いで消費されていく。凄まじく活性化されたルビスコが、本来の効率を遥かに超えた速度で二酸化炭素を集約していく。

 自然は自然を内包する。莢海さやうみは、いまや荒れ狂う上昇気流のなかにあった。D‐BlockWeaponは神々しい輝きを讃えたまま銃身を伸ばし、スナイパーライフルのような形になる。チラコイドとストロマでの反応は終わった。生成された有機化合物グルコースが充填され、スタイルの良い大柄な身体が破滅的な熱を帯びる。風に翡翠色Kingfisher Colorの目を細め、逆巻く髪に青白い電子の瞬きを散らせる女性。二〇億年以上も前に海の底で始まった化学反応が、いま眼前に光芒を伴って君臨する。

 背光反射はいこうはんしゃによって中空に躍り出た噛蟲イーターに照準を合わせた彼女は、小さな子どもを諭しながら、誰より優しい笑顔を浮かべた。深海はおぞましいばかりではない。当たり前のことに仲間外れにされて、最悪の坩堝へ沈んでいくように見える日々のなかでも、あなたは力強く生きていくことができる。

「星を視なさい、死は昇るものよ。ルビスコ」

 何もかもを白く染めて、莢海さやうみはまた舞い上がる灰になった。彼方、ボロボロと崩れ落ちていく蟲の向こうには、輝かしくも命のない金星Venusが浮かんでいた。


・・・・・・


 同じ二年が経つのは早かった。曾爾族そにぞくの村は強大な権力を持つ族長一家の没落をきっかけとして莢海さやうみと和解し、再興に伴って因習を手放したらしい。らしいというのは、流石に皆殺し超兵器をぶっ放した私や、そうするように誘導したマリアがもう一度立ち寄るわけにはいかず、伝聞でしか知りえないからだ。距離を置くことでお互い追及を避けた。関係の修復はとても難いもので、私と私の本当の家族は、手紙だけでたまに連絡を取っている。

 私とマリアというと、揃って莢海さやうみにこてんぱんに叱られまくったあと、処遇が五転くらいして、星系樹せいけいじゅシステムに奉公を命じられることになった。あれだけのことをやらかして抹殺されなかったのが誰の口添えのおかげか、私は何となく気づいていた。

 右腕が握力100キロかつ凄まじい反応速度を誇る義手に換装された私と彼女はほぼ互角であり、次第に罵詈雑言に満ちた喧嘩の数も減っていった。マリアはあげるから、ちゃんとルビスコって呼びなさい。ある日、意外にも言葉によって一応の決着はついた。

 鮮明すぎた憧れと煮え立つ憎悪がそれなりに褪せて冷めたいま、やっと本当の意味で彼女と向き合えている気がする。一件について、本心から謝罪させることはできた。だからといって何を取り戻したわけではないが、これから何を失うこともないだろうというだけで十分といえた。いじわるな見方をしても、ムカつく! を軽く超える回数、彼女には助けてもらっている。

「わたしみたいな冴えてる美少女がずっと海のなか。この世の中おかしい、えいっ」

「鮭駄目だから。今月は鮭獲っちゃ駄目だって言ってるでしょ」

「サーモンでもいいよ」

「こんにゃく粉のやつで我慢しなさい」

「こんにゃくがサーモンになるわけない!」

「代替食品です。あんたが知らないわけないでしょ」

 莢海さやうみの去った新ケルゲレン微小海台の環境整備。それが私たちの仕事になった。潜水艦に乗って、壁の補修をしたり、生態系調査をしたり、漁をしたり。全てのシステムは新たに派遣されてきた堅物の星樹人せいじゅじんを介して星系樹せいけいじゅに上位管理されていて、どんな物理的アクションをしてもかつてのようなことは起こしようがない。それでも起こそうとしたマリアをベコベコにぶん殴ってやったのが無数の喧嘩のうちの最初の三回を占めることは、私たちだけの秘密だ。

 今回の事件を受け、星系樹せいけいじゅには設計枝デザイン・ブランチが足されたらしい。旧社会構造の再生とは別に、より理想的なインフラストラクチャーや経済指針を追求するコンピュータ群だ。テロにより主張を通して平然とした顔をしたマリアに巻き込まれ、私も星系樹せいけいじゅの許可がない限りほかの誰とも接触できない。深い海は、新たな私たちの牢になった。けれども、力強く生きていくことを妨げない、今までで最も自由な牢だ。

「ルビスコ、アームが操作が遅い。壁の補修に時間かけすぎたら残業になる」

「マリア、こっちに合わせなさい。世界には凡人の方が多いの」

「うーん、この世の中変えるしか」

「一生言ってる気かそれ。はい終わり、次行くよ」

 青い眼に光を灯し、灰色の髪を揺らして、いまなお悪の私たちは往く。

 今日も何処かで星になる彼女を思いながら、

 魚群の踊る、命に満ちた海を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪童 Aiinegruth @Aiinegruth

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ