春にさよなら

lager

背比べ

「ナツは背が高くていいなあ」


 それが、ハルの口癖だった。


「でも、ハルのほうが可愛い」


 そして、私がそう返すまでがお約束だった。

 私たちは親友だった。少なくとも私はそう思っていた。


 初めて会ったのは、幼稚園の頃だった。


(お人形さんみたい)


 ハルは、私を含め、幼稚園にいたどの女の子よりも可愛かった。

 大きな目。ふわふわの髪。つんと上向いた小さな鼻。

 可愛いけれど、気難しい女の子――

 

 そんなハルが、何故か私にだけ懐いてくれたことが、私のささやかな誇りだった。

 ハルはいつも私の後をついてきて、私の気を引こうと一生懸命だった。

 男の子に意地悪をされたときは私がかばってあげた。

 そうすると、ハルは大きな目を一層輝かせて、私の服の端を力いっぱい握りしめてきたのだった。


 小学校に上がってからも、ハルは私にべったりだった。

 歳を重ねるにつれて、ハルはますます可愛くなっていったし、本人もそれをきちんと自覚していた。

 ハルは頭もよかった。

 クラスの女の子たちで、ハルに太刀打ちできる子はいなかった。


「ナツは背が高くていいなあ」

 ある日、ハルがいつもと同じようなことを言ったのは、近所の公園に立つ大きな木の下だった。

 緑色の葉が空を覆い尽くすほど大きく広がっていた。

「でも、ハルのほうが可愛い」

 そんなお決まりの文句を聞いて、ハルはまん丸な笑顔を浮かべた。

「ねえ、ナツ。背、測って」

 そう言って、ハルは私に落ちていた木の枝を差し出し、大きな木の幹に寄り掛かった。


 木の幹は固くて、枝で擦っても僅かな痕しかつかなかった。

「今度はナツの番」

 そう言ってハルは私を隣に立たせ、背伸びをして、私の頭の位置に印をつけた。

 そのままバランスを崩して私にもたれかかる。

「何してるの、もう」

「えへへ」

 緑色の香りがする風が、ハルの柔らかな髪をなびかせていた。


 それからまた、歳を重ねた。

 たとえば、そう。私たちが毎年誕生日の度に背丈の印をつけた大きな木。

 初めは一本の太い幹。やがてそれは枝として別れ、また別れ、どんどん細くなっていく。

 歳を重ねるというのは、成長するというのは、そういうことだ。

 私とハルはいつも一緒だったけど、いつまでも一緒ではいられない。


 それに気づいたのは、私が最初だった。

 私とハルは別の人間で、私の枝はやがてハルの枝とは別れていく。

 けど、私がそれに気づいたことに、ハルも気づいた。そのときから、私を見るハルの眼が変わった気がした。

「ナツは背が高くていいなあ」

 聞き慣れたはずのそのセリフに、見慣れない色がついていた。

 淡く、ふわふわとしたパステルピンクだったはずのハルの言葉は、いつしか、濃く、艶やかで、湿った色に変わっていた。

「ねえ、私のほうが可愛いって言ってよ」

 そう言って、ハルは私の腕に抱き着いてきた。

 僅かに膨らみ始めたその胸の形を歪ませるように。

 お人形のようだったハルの小さな手は、いつしか、蜘蛛の肢のように私の腕に絡みついていた。


「ねえ、ナツのジュースも飲みたい」

「ナツのリップ、いい匂い。借りてもいい?」

「見て。ナツとお揃い。似合う?」


 離れ、別れようとする枝を紐で縛るように。

 私たちの間に自然と空いた隙間に、なにかどろりとしたものを流し込んで埋めるように。

 ハルは私を、絡め取ろうとした。


「ねえ、ハル。私たち、もう子供じゃないんだよ」

「うん。知ってるよ」

「そうじゃない。聞いて」

「ナツは私のこと、嫌い?」

「違うの、ハル」


 ハルの顔は、ますます美しくなっていった。

 眼は妖しい光を帯びていた。

 私は自分の心臓が、見えない糸に柔らかく縛られているような感覚に陥った。


「わかった、ハル。約束しよう」

「約束?」

「ハルの背が私と同じくらい伸びたら、ハルのお願い、一つだけ聞いてあげる」

「ホント?」

「うん」

「じゃあ、約束だね」


 そう言って、ハルは私に木の枝を差し出した。

 私はそれでハルの背を木の幹に刻み、自分の分の印は、自分でつけた。

「私がやるのに」

「ズルしないようにね」

「しないもん」


 その日から、ハルとの間に少しずつ風が通るようになった。

 もともと、頭のいいハルの元には色んな人が集まっていた。

 ハルは、そういう人たちと、きちんと向き合うようになっていった。


 ハルのご両親は、お世辞にも背が高いとは言えない。

 対して私の身長はクラスでも常に二番目か三番目だ。この先互いの背が伸びることはあっても、その差が縮まることはないだろう。

 ハルは、私の拒絶に気づいたのだろうか。

 それを受け入れてくれたのだろうか。


 やがて中学に入り、私の引っ越しが決まった。

 親の転勤だった。

 その時には、私とハルは普通の友達みたいになっていたけど、最後に二人で、いつもの木の下でおしゃべりをした。


 春休み。

 いつも青葉を茂らせていた木は、まるで別人のような顔をして、桜の雨を降らせていた。

 その幹には、何本もの傷痕が刻まれている。

 左側がハルの背丈。

 右側が私の背丈。

 少しずつ上に上っていくその印は、いつだって私の方が高い位置にある。


「約束、忘れないでね、ナツ」

「うん。忘れない」


 その時ばかりは、泣いた。

 ハルを抱きしめて泣いた。

 桜の花びらが、ハルのふわふわとした髪に絡みついていた。

 ハルは泣かなかった。寂しそうな顔で、私が見たこともないような、優しい笑顔で、私を見送ってくれた。


 

 引っ越した先の中学校で、しばらくはハルとの文通を続けた。

 けど、進学して高校に入ってからはそれも途切れた。

 大学に入り一人暮らしを始めてからは、年賀状も届かなくなった。


 大学にいる間に海外留学に興味を持った私は、卒業後にカナダへの渡航を決めた。

 留学生の友人の伝手を頼りに、二年ほど語学の勉強をするつもりだった。 

 

「ナツは幼く見えるから、子供に間違われないか心配だよ」


 友人にそんなことを言われた私は、不意に幼馴染のことを想い出した。

 私の身長は小学生で伸び切っていたらしく、中学高校と、いつしかクラスでの身長はどんどん真ん中に近づいていった。それでも別に背が低いほうではないけれど、欧米人からしたら正にどんぐりの背比べといったところなのだろう。

 少しでもそれを誤魔化すため、私は普段からヒールの高い靴を選んで履くようになった。


(ハルは今、どうしているだろうか) 

 

 いつも私の背を羨んでいたハル。

 お人形のようだった少女。いつしか妖しげな笑みを身に着けて。

 約束を交わした――。


 出発までの期間を使って、私は昔住んでいた街に足を運んだ。

 見慣れていたはずの、見慣れぬ風景。

 いつも遊んでいた公園。

 大きな桜の木。

 その日も、桜の木は吹き流れる風に白い花びらを遊ばせていた。

 休日の昼間だというのに、小さな公園には誰もいなかった。


 桜吹雪をかきわけるようにして、私はその木の根元に歩みを進めた。

 黒い幹を撫でる。

 小さな傷痕。

 左側がハルの印で、右側が私。常に私の方が高い位置にあった印は、いつしか少しずつその差を縮め、最後には追い抜かしていた。


 ああ。ハル。

 やっぱり、約束を忘れてなかったんだ。


 ゆっくりと、時間の流れが巻き戻る。

 この木の下で交わした言葉が蘇る。

 風が吹く。

 桜が散る。

 さわさわと。

 ざわざわと。


 私の心臓を、不可視の糸が絡めとる。


 ねえ、ナツ。

 約束だよ。


 甘く、香しい、とろけた果実のような声が、私の耳朶を擽る。


 ねえ、ナツ。約束、覚えてるよね。

 私の背が、ナツと同じになったら、私のお願い、聞いてくれるんだよね。

 なによ、ハル。そんなこと、まだ言ってるの?

 桜が散っている。

 その花弁の一つ一つに、ハルの顔が映っている。

 約束だよ。私のお願い。

 なによ、お願いって。

 私と一つになって。

 私と一つになって。

 私たち、枝分かれした桜じゃないの。

 ずっと一つだった。

 寂しかったの。

 ねえ。

 ねえ、ナツ。

 また、一つになりましょう。

 風が吹いている。

 私の体が桜に吸い寄せられる。

 なにするの、ハル。

 私が測ってあげる。

 やめて。

 測ってあげるね。

 ほら、木の枝を拾って。

 背中を木につけて。

 ねえハル。いやよ。動けない。離して。

 ダメだよ。ナツ。約束でしょ。

 桜が散っている。

 風が吹いている。

 私の腕が勝手に動いて、頭の後ろに印を刻もうとしている。

 約束だよ。

 やめて。

 ほら。

 やだ。

 ほら。

 やめて、ハル。

 私が測ってあげるね、ナツ。

 ああ――。



「なあんだ。あとちょっとだったのに」

 


 私の耳に、音が戻った。

 粘性をもって絡みついていた空気が風と共に流れ、体が前につんのめる。

 木の枝を握りしめていた右手に痛みが走り、私は慌ててそれを投げ捨てた。


 なんだ。

 いま、何が起きた?


 後ろを振り返ってみれば、今しがたつけられたばかりの新しい傷痕が、ほんの僅かに、左側の印の上にあった。

 心臓が早鐘を打っていた。

 私は足を縺れさせながら、一目散に公園から逃げた。



 翌日、私は、ハルが高校生の頃、この公園で自殺していたことを知った。

 私が知ればショックを受けるだろうと、それを秘密にされていたことも。

 その事件以降、この公園には人が寄り付かなくなっていたことも。

 近々、公園自体がなくなってしまうことも。

 自殺の原因は、分からなかったそうだ。


 私は、早々に日本を発った。

 先日自分の身に起きたことを想い返す。

 あの日、私はいつものようにハイヒールを履いていた。

 もしも、普通の靴を履いていたら、きっとあの印は同じ高さになっていたはずだった。

 そのとき、私がどうなっていたのか、知る術はもうない。


 春が過ぎて、夏が来る。

 カナダの季節は日本と違い過ぎて、きっともう、思い出がよみがえることもないだろう。

 私は、そう祈った。

  

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春にさよなら lager @lager

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