湿気った

真花

湿気った

 別にセックスがしたい訳じゃない。

 トウジは指をゆっくり動かしながらタエの声を聞く。力の具合がちょうどいいかどうか、何度重ねた体であってもその場その場のモニタリングは欠かさない。救急車が窓の外を通過する。サイレンがうるさくて、こんな夜更けにその音量は必要ないだろう。救急隊員はヤケになっているのか、元々暴走族なのか。トウジは思う。また別の車の走る音。冷蔵庫がブウンと唸る。タエが一区切りする。別の触れ方、力の強さ、いつの間にか指はバラエティに富んだ動きを覚えて、アドリブで試してゆく。そろそろかな。トウジはタエに乗る。

 前だったら他のパートで頭が冴えていても、このときだけは他のことを忘れていたのに。頭の半分が澄んだままで、そこが空いているなら入り込もうとするかのように、レポートのこととか、クラスの女子のヒソヒソ笑いだとか、パチンコの当たらない場面とかが浮かんで来る。浮かんでは流れて行く。まるで動かす体のリズムが流れを生んでいるかのように、次々に浮かんでは流れる。流れに意識を取られながらも、いずれ至る。

 体を離して横になろうとして、そこにタエがいることに気付く。タエの左側の壁とは反対側のスペースは狭くて、壁側も同じだけ狭くて、トウジは「タエ、少し詰めて」と平な声で言う。タエは、ん、と曖昧に返事をしながら壁側にずれる。トウジはコンドームをティッシュに丸めて捨て、ベッドに横たわる。少し寒い、タオルケットを引っ張り上げて自分とタエに半々で被せる。天井を見上げている内に、頭の中にモヤが満ちて来る。昔タエは猫を飼っていたらしい。名前はイカスミ。きっと真っ黒な猫なのだ。それとも白に黒ブチ? 今はタエは何も飼っていない。いや、俺か? トウジは半ば自動的に思うが、その速度が徐々に緩慢になってゆく。タエは寝息を立てている。トウジの息も同じものに変わっていく。


 薄布を引くように目が覚める。電気を付けっぱなしの部屋が白い。あまり時間は経っていない。タエはまだ眠っている。トウジはゆっくりと体を転がしてベッドから降りる。微かな冷気を踏む。ちゃぶ台に置いたままのスマートフォンが点滅している。トウジはタエを一瞥してからスマートフォンを手に取る。宣伝のラインが三件あっただけだった。トウジは座布団に座ってタバコに火を付ける。昔の人はタバコの美味いのは、飯の後、運動の後、セックスの後と言ったらしいが、飯と運動は同意するけどセックスの後は普通のタバコだ。普通に美味い。トウジは思って、風を抜くように口元を緩ませる。タエがころりとトウジを向く。

「あれ、今何時?」

「十一時」

「そっか。私も吸う」

 タエも裸のままもう一枚の座布団に、トウジの横に、座る。火を付ける。二条の煙が交わる。トウジが「そろそろ帰るね」と言うと、タエは、「ん」と頷く。

「明日は学校に行こうかな」

「そうしたら? 留年しちゃうよ」

「タエは毎日仕事に行って、すごいよね」

「普通だよ」

「俺、どうなるんだろ。学校すらまともに行けないのに、いずれ社会に出てやってけるのかな」

「そのときになればやるんじゃないかな」

「今のままで生きていけたらいいなと思う。ダメかな」

「永遠に学生なんてみっともないよ。私ですら自立してるんだから。トウジだって出来るよ」

 トウジは火を消す。なかなか消えなくて、火種と追いかけっこをするみたいになる。それを待ってからタエもタバコを消した。トウジは息を小さく吐く。

「やっぱ、明日パチンコに朝から行くわ」

「学校行きなよ」

「並ぶ時間を考えると起きるのは同じくらいになるんだけどね」

 トウジは服を着る。タエも着る。

「じゃあまたね」とトウジが玄関に向かう。タエは小走りに追いかけて、「またね」と手を振る。ドアを開けて、閉じるときにトウジは振り向かなかった。

 最寄りの駅までの道は静かになっていた。住宅街から駅前にグラデーションで色味が変わって行く。タエの言うように留年しそうだ。遊んでばかりいる。いつからこんな日々の過ごし方になったのか思い出せない。でも、いつまでもこのままでもいいような気がする。トウジは考える。この日々の鍵は間違いなくタエだ。タエと付き合うようになってからこうなった。タエが悪い。だから俺は悪くない。

「俺が変わるためにはタエがいなくなるしかない」

 言葉に出してみて、それがそのまま重くのしかかる。自分の存在自体がタエにかかっていると言うことになる。トウジは自分を切るように笑う。俺はタエを愛していない。年上の恋人とどうやって別れればいいのか分からないから、ずるずると関係を続けているだけだ。一緒にいる時間を持て余すから、セックスで埋める。そんな湿気った関係なのに、それが俺を規定するのだ。腐りゆく俺だが、もう一つ言えることがある。このぐずぐずは居心地がいい。永遠に続くと思えるから、快適だ。


 次の朝、トウジはパチンコに並んだ。半日で一万円負けた。夕食まではまだ時間があったから、喫茶店に行く。タバコを吸いながらスマートフォンをいじっていたら隣の席の話が聞こえて来た。男が二人で話している。

「ギャンブルで失うのは、金、体力、色々あるけど、一番失ってるのは『時間』なんだよ」

「時間っすか」

「絶対に返って来ないからね、時間は。ある程度年を取ってから、しまった、じゃ遅い」

「でも、僕はギャンブルしないっす」

 トウジは胸にドブを詰められたような気がして席を立つ。すれ違い様に見た男達の顔に、心の中で「お前達にどれだけ時間があっても無駄」と悪態をつく。店を後にして、自宅に帰る。

 母親が台所に立っていた。

「早いわね」

「講義がなかったから」

 嘘がすらすら出て来るようになった。でも自分にとっては講義はなかったのだから半分は本当だ。自室で横になる。タエのせいで俺がダメになっているのかも知れない。でも半端者のままでいたい気もする。どうしても自立しなくてはならなくなるまで……そうなったときにタエに別れを俺は告げられるのだろうか。それとも、機を見てタエがいなくなってくれる? それはないだろう。タエは俺を愛している。こんな俺なのに将来を夢見ている。男を見る目がない。でもそんな男にしたのはタエだ。タエといる中で一番失っているのは俺自身なんだ。

「それでもいいんじゃない?」

 天井に向かって呟く。今すぐに変わらなきゃいけないなんてことはない。タエと形式的な時間を過ごして、パチンコをして、学校にはいかず、ダラダラと日々を費やす。それでいい。後悔するかどうかなんて知らない。明日タエの部屋に行こう。今の俺を更新しよう。同じ俺を更新しよう。


(了)

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