荒地の魔女

 おお、おお。また来なすったか。お前さんは、どうして『ここ』に自由に足を踏み入れられるのかねえ。おっと。喋らなくてもいいさ。もう幾度となく会っているけど、こればかりはアタシが、自分の手でわかりたいからねえ。それで良いのさ。

 で? 今日の用件はなんだい? またあの【強大なるガノンガノン・ザ・ギガンテス】の話かい? 良いけどね、たまには他の話も聞いとくれよ。長く生きちまっただけあって、色々とネタには事欠かないのさ。『ここ』に来た人間に限るけどね。

 たとえば、この大陸におさまるどころか、隣の大地にまで手を伸ばしちまった【航海王】。たとえば、とある復讐の執念から、三人の英雄を闇の技にて葬り去った【英雄殺し】。たとえば、あのガノンより前、傭兵より身を起こして一国を成した【傭兵王・サガ】。

 ああ、どいつもこいつも、一端の男だったよ。【英雄殺し】とは、最後まで馬が合わなかったけどね。アレもガノンやアンタと同じで、何度か『ここ』に足を踏み入れたからね。おかしいねえ。『ここ』は闇のせいで、他の時空とは切り離されちまってるのに。おっと。アタシは闇じゃないよ? 何度も言ってるだろう? たしかにアタシも、一度は闇に飲まれたさ。だけど、どうにかこうにか浄化できた。これでもかつては、【聖女】なんて呼ばれてた身の上だしね。

 おっと。過去の話が過ぎちまった。どうするね? それでもガノンの話が聞きたいのかい? そうかい。わかったよ。じゃあ、今日はガノンと初めて出くわした時の話をしようか。アレも大概、突然だったからねえ。心して聞きな。


 ***


 ガノンがその空間に入ってしまったのは、まったくもって予期せぬ出来事だった。おそらくは、幾千幾万分の一もの確率を超越した、偶発的な事象だったのだろう。


「む……」


 ガノンがその黄金色にけぶる瞳を細めたのは、奇妙な景色の変化を感じ取ったからだった。雰囲気が、明らかに変じている。常には青いはずの空は紫がかっていたし、普段は茶色の大地も、夜のように黒ぼったくなっている。ガノンは鼻をひくつかせる。案の定、どこかすえた臭いがしていた。


「……【異界】にでも入り込んだか?」


 ガノンはつぶやく。口伝では聞き知っていたことではあるが、真に入り込むのは初めてのことであった。

 【異界】とは、現世からなんらかの方法によって地理的、時空的に隔絶された空間のことである。ほとんどの場合は、現世の座標軸さえ無視していることが多い。これは神々による厳罰や、人の世を疎んだ者、儚んだ者による術。あるいは流刑の最高罰として課される拒絶の紋様などによって構築され、大抵の場合は余人の立ち入りを許さない。仮に入り込むとすれば、万分の一よりも遥かに低い確率での偶然、もしくはいずれかの神の加護が、隔絶の術より勝った場合のみである。ならば、ガノンは。


「偶然ではあるだろうが……主人に面通しをせねばならなくなった」


 ガノンは常の格好――上半身を風に晒し、下は下履きと粗末な靴、手頃な剣ともう一本を背中に掛け、いささか異彩を放つ黒槍を手にしている――のままに、面倒を思った。

 【異界】から出るための方法はいくつか存在するが、一番早いのが【異界】の主人――すなわち、隔絶の対象である――に面を通し、客人として通行の許可を得ることである。あるいは主人を葬り、【異界】そのものを崩壊させるか。ただし相手の性質が不明である以上、どちらの手段も安直に振るって良いものではない。安易に行ったが故に【異界】に飲まれ、二度と現世に帰れなくなってしまった者がいる。そういう荒野の挿話は、後を絶たなかった。

 一例においては、海中に建つ宮殿を模した【異界】に幾百年もの間取り込まれ、なんとか戻って来た頃には故郷もなにもかも、すべてが消え失せていた男の挿話がよく語られている。ともかく、【異界】は数が少ない割に、その危険性は広く語られていた。


「ククク……いらっしゃい。アンタの見立て通り、ここは【異界】だよぉ」


 しかしガノンの場合、面倒は不要だった。彼の死角から、しわがれた声が掛かったからである。ガノンはその方角を見る。するとそこには、異様な風体の人物がいた。黒い布をいくつも被って髪や顔を隠し、胴体も手足も、黒い布に隠されている。年かさも性別も、見分けが付き難い。いや、声色からすれば女、それも、そこそこの高齢であろうか。異様な風体の人物は、ガノンにのそのそと近付く。彼は、黒色の槍をわずかに動かすが。


「フッフ。なにもアンタを取って食おうとは思っちゃいないから、安心すると良い」


 その動きに気付いたのか、黒い塊から再び声が上がった。声はしわがれたままに敵意がないことを告げると、さらに続けた。


「だがね。ちょいとだけ暇潰しに付き合って欲しい。語らって欲しいのさ。いいかい?」

「よかろう」


 ガノンは、いともあっさりと首を縦に振った。【異界】に飲まれた時点で、彼に選択権はない。現世へ帰るためにも、【異界】の主に従わねばならない。もっとも、この異様な風体の人物がそれであるとは限らない。同じく【異界】に取り込まれ、帰れなくなった者かもしれないし、もっと勘繰れば【異界】に住まう生物であることさえも否定できない。とはいえ、それらを邪険にする意味はない。【異界】で無法を働いた者が永遠に閉じ込められ、現世に帰れなくなる。そんな挿話も、ヴァレティモア大陸ではよく語られていた。


「クック。ああ、アンタがなにを考えているか。アタシには手に取るようにわかるよ。心配ない。アタシが正真正銘、この【異界】のあるじさ。闇によって現世と隔てられ、さらには多神教の連中に拒絶の紋様まで刻まれたアタシの、アタシのためだけの【異界】さね。さあ、まずは語り場へ行こうか」


 女――未だ推定ではあるが――はそう言うと、布の中から手をかざす。すると不可思議なことに、目前の空間にあばら家が現れた。木造りの簡素な住まいに、かたわらの大釜――幼少の頃寝物語に聞かされた、旅人を取って食う魔女。その住居を、ガノンは思い出した。


「フッ。そうそう。言い忘れてたよ。アタシはバンバ・ヤガ。人呼んで、【荒地の魔女】さね。アタシのへそを曲げたら、取って食われるかもねえ?」


 ガノンの思考を読んだかのように、黒い塊――否、【荒地の魔女】は言葉を放つ。否、彼女の口ぶりが事実であれば、真実ガノンの考えを読んでいるのやもしれぬ。しかしガノンは、身構えることすらしなかった。彼女の警句を真正面から受け止め、最悪の可能性を引き出さぬようにする。それが、今の彼にとっての『戦い』だった。


「へえ。ここまで動じない人間ってのも珍しいねえ。ここに踏み入った連中の中でも、三本の指には入るかもしれないね」


 魔女はうんうんとうなずきながら、ガノンを導く。あばら家の戸口が音を立てて開くと、そこには――


「……」

「外観からすると、ちくと意外……という顔じゃね? これでも昔は【聖女】などとも呼ばれたもんさ。部屋の中身ぐらい、造作もないさね」


 一瞬、唖然とするガノン。その眼前には、一端の応接間とのたまっても過言ではないほどのこしらえがあった。円座のテーブルに、ガノンがそのなりで座るには少々気後れさえも呼び起こすほどに整った椅子。いつの間に準備していたのだろう。卓上には湯茶の準備がなされており、そこそこの上物に見える陶器からは、湯気までもが立ち上っていた。


「ククッ。一本取ったり」


 魔女が、ケラケラと笑う。ガノンは無言のままに、彼女に対する認識を改めた。そして、それが遅きに失したことを恥じた。己が崇める戦神であれば、『二重の隔絶を受けていた』という言葉の時点で、彼女を警戒していたであろう。己の未熟を、男は恥じた。しかし。


「ほれほれ。黙っている暇はないぞ。座れ座れ。作法なんぞ構わん」


 すでに席についた魔女が、ガノンをせっつく。いつの間にやら彼女は、自分の分だけ準備を済ませてしまっていた。机を指で叩いて、待ちわびている様子を見せていた。


「むう……」


 ガノンは唸りつつも、己の分の茶を入れる。魔女の言葉に従う以前に、彼は作法というものを知らなかった。彼の生まれ育った地では、茶というものは注いで、飲む。それで良いものとされていた。だから魔女の言葉は、ちょうどよかった。


「良かろう。ああ、作法なんて無粋な罠でアンタを閉じ込め、二度と帰さぬなんて真似はせぬから安心せえ」

「……そうか」


 ガノンは常なる装いのまま、己の席に腰掛ける。ただし背と手に携えていた得物は、床に置いた。赤褐色の蛮人と、黒き魔女。二人が対面する光景は、どこか異様なものだった。


「手間取りはしたが、ようやく話せるのう。ラーカンツの、ガノン」

「!?」


 名を言われて、ガノンはその黄金色をした目を見開いた。己は未だ、名乗ってはいないはずである。なのに、なぜ。


「なんだい。名乗りなんてなくとも、アタシにはわかっちまうのさね。ま、それでなくとも、今の荒野でアタシの領域に踏み込めるのは、アンタぐらいのものだよ。たまに迷い込む連中が、噂をしていた。『戦神を崇める匪賊狩りの傭兵がいる。ソイツは、闇の眷属をも倒せるらしい』ってね。変な肩書を持っているとね、そういう辺りもわかっちまうのさ」


 女が、自分を嘲るように口を開く。ガノンはいよいよ、鼻白んだ。これでは、話すことなど皆無ではないか。用がないのであれば、こんな場所など御免である。さっさと現実の世界に戻ってしまいたい。しかし魔女は、悠然と茶を飲みつつ。


「まあまあ。そう苛立つ必要はないさね。アタシの勘が確かなら、外……【現世】はそろそろ夜になる。一晩夜を明かすのも、また一興よ」


 魔女はカラカラとガノンをなだめる。ガノンは、渋々前を向く。彼女の言葉が正しいかは知らぬが、夜という暇を潰すにはちょうどいい。そうみなすことにした。そうして目――正確には布に隠された、目元と思しきところだ――が合ったところで、魔女は己を覆う黒布に手を掛けた。


「アタシだけがアンタを丸裸にしても、不公平だからね。喜ぶと良い。バンバ・ヤガの素顔なんて、本来ならラガダン千金を積んでも拝めないよ」


 そうのたまって、女が頭部の布を脱ぐ。するとそこには。


「……しわがれ声は、たばかりか」


 美しい、亜麻色の長髪。少々彫りは深いが、ほうれい線一つない整った顔。高い鼻。くっきりとした青い瞳。敢えて明言するのであれば、【聖女】と言っても差し支えのない美貌の女子が、そこにいた。それこそその手の免疫が薄い男子であれば、即座に恋に落ちるが如き容貌である。ガノンでさえも、一瞬息を呑んだほどだった。


「『そう』振る舞う内に、そうなっちまった。そういうもんさ」


 美女はしわがれた声のままに答える。演技をする内に、それが染み付いてしまった、ということであろうか。わからぬながらも、ガノンは小さくうなずいた。そこに向けて、さらなる言葉が落とされる。それはまったく、予想外の問い掛けだった。


「さてね。どこから話そうか。そうさな。あれだ。まずあれを聞こう。なあ、ガノンよ。ラーカンツってのは、どんな土地だい?」


 ガノンは思わず、口をあんぐりと開いてしまった。


 ***


 ハッハッハ。アンタまで口をあんぐり開けなくても。今でも鮮明に思い出せるガノンの顔が、生き写しのように蘇っちまうよ。

 ん? なぜそんな質問をしたのか、だって? 好奇心だよ。アタシも若かったのさ。アンタだって、まだ南方蛮域にまで足を伸ばしたことはないんだろう? そういうことさ。聖堂に置かれた本にゃあ載っていない、生の知識。そういうものが欲しかったんだ。

 なに? 他の英雄たちや、迷い込んだ旅人にも聞いたのか? ああ、聞いたよ。当然さ。

 すでに英雄だった者。アタシと出会った後に、名を知らしめた者。ただの旅人。さまよえる者。ここには色々な連中がやって来て、アタシに話をした。彼らはみーんな、自分なりの知恵や見識を持っていた。確かな足取りで生きていた。わずかな恋と嫉妬から闇に目をつけられ、見事に反転した女とはえらい違いだよ。

 んー? おやおや、なに生意気なことを言ってるんだい? アタシだって、確かな足取りを持っている? 冗談じゃないよ。確かな足取りを持っていたなら、闇を使って他人ひと様を手に掛けたりなんざ、絶対にしない。闇に飲まれた事実を、自分のために使った。この事実だけは、曲げらんないのさ。だから二度と、魔女に慰めなんてよしてくれ。

 ……しんみりしちまったね。話を戻そう。アンタだって、南方蛮域には足を伸ばしたほうが良い。かかわりがないわけでもないんだからね。彼の故郷を見るのは、いい勉強になるはずだ。遊学の身なら、なおさらにね。

 え? ガノンの答え? アンタは本当にせっかちだねえ。まだまだ時間はあるんだ。ゆっくりと話そうじゃないか。ほれ、茶でも飲むと良い。


 ***


「……悪くはない。こちらの荒野と同じで、決して潤沢肥沃な土地ではなかった。だが、悪くはない。人は戦いを尊び、礼を尽くしていた。戦いという行為を愛していた。女や子ども、弱き者に対しても、情があった。貧しくとも、人々は心で繋がっていた」


 口を開いてからややあって、ガノンはとつとつとラーカンツについて語った。彼は思う。故郷について語るのは、いつぶりであろうか。わずかながらも轡を並べた、重装の女戦士に対して口を開きかけたことはあったか。しかしそれ以外ともなれば、故郷を出てからとんと久しいことになる。


「ほう。そんな悪くない場所を、どうしてアンタは捨てたんだい?」


 ガノンの答えに、魔女は間合いを詰めた。一理あると、ガノンは思った。魔女が言う通り、悪くない土地であるならば、去る必要はなかった。にもかかわらず。


「おれには狭かった」


 ガノンは、手短に応じた。これは、彼にとっての真実だった。周囲の者はまだ早いと彼を諌めたが、ガノンは一刻も早く故郷を出たかった。故郷で多くの者どもをねじ伏せた、人並み外れたその力。どこまで届くのか。文明人の土地で、試したかったのだ。


「広き地に出れば、おれに伍する者がいると思った。事実、多くの人や事物に出会った。常人では抗えぬ誘惑、闇を知った。故郷では出会えぬものに出会ったし、強き者も多くいた。おれは、間違ってはいなかった」

「そうかい」


 美女たる魔女は、ゆっくりとうなずいた。しわがれ声は、あまりにもその容貌に不似合いである。しかしそれを元に戻す術はない。あるにしても、本人がそれを認めぬだろう。


「故郷に戻る気は?」

「おまえがしわがれ声を捨てる気がない。それと似たようなものだ」


 そんな魔女を慮るように、ガノンは問いを切って捨てた。事実、彼が故郷に帰ることになるのは、この邂逅より幾年も先の話である。今はただ、広い世界を歩んでいたかった。己の強さを、試したかった。


「これは一本取られたわい」


 魔女が、カラカラと笑った。彼女はおもむろに立ち上がると、部屋の一角にある倉庫へと向かった。なにやらゴソゴソやっている。しばらくして、彼女は幾枚かの干し肉と、大量の野菜を取り出して来た。


「私は別に、ほとんど食わんでも死にはせん。だが、聖堂の連中が時々食料を持って来よる。今日は一杯振る舞おう。振る舞わせてくれ。なに、【異界】の物を食ったら戻れない、なんてことはない。安心しろ」

「むう……」


 思っていたこと、脳の片隅に抱えていた疑問を、先に言い当てられる。こうなっては、ガノンにも返す言葉がない。かくて大釜が煮立てられ、ガノンは魔女の振る舞い飯を口にすることと相成ってしまった。


 ***


「ふう。食った食った」


 およそ一刻後……というのはガノンの時間感覚故に、証明できる材料はないのだが。外に設えられた食事の場では、腹を叩いて椅子にもたれる魔女の姿があった。当然、女性としてはあるまじき振る舞いである。しかしガノンは顔をしかめるでもなく、器いっぱいに盛られた己の食事に立ち向かっていた。


「くっ……」


 ガノンの食する手、実は少々前から止まり気味である。なにせ魔女と食事を始めた際には、この倍以上が見事なまでに器に盛り付けられていたのだ。魔女のはしたなき振る舞いよりも、こちらのほうが顔をしかめたくなる心境であった。


『いかに客が相手とはいえ、少々盛り過ぎではないか?』


 器を手に取る前、彼はあまりにもこんもりと積み上げられた食事量に、抗議の声を上げていた。たしかに、客に対して不足を感じさせる行為は、もてなす側としての最大の無礼である。だが、客を困惑させるが如き盛り付けもまた無礼ではないか。

 ガノンは、そう告げたのだ。彼は決して少食ではない。むしろ健啖家であるという自覚もある。しかしそんなガノンをもってしても圧巻、山のような盛り付けだったのだ。聖堂からの差し入れを、消費せねばならないにしても、だ。


『なにを言うさね。男は食らうが商売、動くが商売、だろう?』


 だが魔女――バンバ・ヤガは一笑に付した。ガノンはなおも抗議しようとしたが、魔女はそそくさと食事の開始――神への感謝、開始の合図――を告げてしまう。こうなっては、いかにガノンといえども食に挑む他なかった。動くが商売なのに、動けなくなってしまいそうだ。そんな逡巡は、干し肉とともに飲み込むしかなかった。


「どうしたどうした。食わねば大きくなれぬぞ」


 手が止まりがちのガノンに向けて、魔女から煽りの言葉が飛ぶ。真に食べおおせると見ているのか。あるいは、ガノンが音を上げるのを待っているのか。カラカラと笑うその表情からは、どちらの可能性もが窺えた。


「ぬかせ。少し休んでいるだけだ」


 しかしガノンも負けてはいない。負けを認めることもない。簡単に敗北を認めてしまえば、それはラーカンツの誇りを損ねることになる。戦神にもとる行為となってしまう。これは戦いにはあらず。されど、己との戦いであった。かくして。ガノンは再び匙を手に、器へと立ち向かった。そして。


「……これでいいだろう」

「見事だ」


 また一刻後、ガノンは無事に食事を完遂せしめた。彼は椅子にもたれることもせず、戦神に祈りを捧げていた。戦いを尊ぶラーカンツでは、食もまた、戦神からの恵みである。特に狩りで得た食物ならば、なおさらだ。仮に戦いで得た食物でなくとも、そこには気候や土壌、風土が密接に交わる。それもまた、ラーカンツの者にとっては戦いの一つであった。加護を祈るに、値せずとも。


「……おまえはいつも、こうして暮らしているのか」


 ややあって、ガノンは口を開いた。常ならぬほどに腹を膨らませているにもかかわらず、その口調には変わりがない。視線の先には、変わらず美貌を晒しているバンバ・ヤガがいる。彼女は表情を変えることなく、彼に向けて言い切った。


「そうさね。まあ、食事はともかく、のんびりと暮らしておるよ」

「……いかなる仕儀にて、二重の隔絶など」


 ガノンはさらに問う。彼は未だ、この魔女の身の上を知らなかった。常ならば特に気にする話でもない。だが今は、【異界】に踏み入っている。現世に帰れる可能性が上がるのなら、どんな情報でもかき集めたい。そんな思いが、彼を踏み込ませていた。


「とある聖女が迂闊に恋に陥り、嫉妬から闇に飲まれ、想い人と、その睦言の相手を手に掛けた。聖女は自分が闇に飲まれたことに気付いて自力で浄化した。しかしその結果闇は聖女を畏れ、時空から拒絶した。また聖堂は聖女の罪を許さず、その拒絶に輪をかけて隔絶の刑を施した」

「ふむ」


 ガノンは頷く。拒絶に拒絶を重ねるのは、相応の技量が必要な行為である。聖堂の術師の、腕の高さがうかがえる話だ。だが彼女の話、その要点はそこにはない。彼女は何故に、【聖女】から【魔女】へと陥ったのか。ガノンは問うべく、口を開こうとして――


「アンタ、意外と鈍いんだねえ。いくら闇を浄化したって、魅入られた以上残るモンは残るのさ。ついでにアタシは、人様を手に掛けちまったからね。コイツは、アタシ自身の烙印でもある」

「……」


 先手を取った魔女の口ぶりに、ガノンは沈黙を選んだ。珍しいことではあったが、彼には即答ができかねたのだ。ガノンにとって、闇は抗うべきものである。戦い続けることによって闇に飲まれることがなきよう、彼は故郷で教育を受けていた。

 血と憎しみを伴う戦は、非常に闇と近しい属性を持つ。南方蛮人は、そのことを肌で知っていた。

 恋と戦が近しいものかは知らねども、闇の手を取ったことの意味は知る故に。他者を手に掛けることの意味を知る故に。彼は即答を差し控えたのだ。


「そうしんみりするない。これでもアタシは、この生活を気に入ってるんだ。こうして時折踏み込んでくれる者がいる。聖堂の妙な気遣いのお陰で、不自由もしてない。これ以上を求めちゃ、神罰が下っちまうよ」

「……ならば、いいが」


 ガノンはそれでも、怪訝な顔を隠せなかった。一度は欲に駆られた人物が、そう簡単に欲を捨て切れるのか。疑問は表情に出、そして魔女に読み取られる。すると魔女は、ケラケラと笑った。


「なあに。最初の頃はメソメソ泣いてたもんさ。なにせここは寂しい。人っ子一人いやしない。だけどね」


 魔女は一度、空気を吸った。ガノンは彼女の目を見る。黒い大きな瞳には、力が籠もっていた。


「孤独。ソイツが、アタシを目覚めさせた。もう一度、自分自身と向き合わせてくれたのさ」


 そう言って彼女は、椅子から立ち上がった。


 ***


 さて。ここまで話を聞いててどう思った? 人間臭い? ガノンが? そりゃそうさ。アンタ、まさか【強大なるガノンガノン・ザ・ギガンテス】が超人だとでも思っていたのかい? 冗談じゃない。彼も。他の英雄たちも。ただの旅人、漂泊者も。みーんな人間だったさ。

 アタシを殺そうとした奴も。アタシと決裂した奴も。アタシと向き合ってくれた奴も。みんな人間だった。どこも、他の人間と変わらなかった。アタシのような、人でなしじゃなかったよ。

 おっと。さっきのような発言はよしとくれよ。アタシはやっちまったんだ。だから魔女なんだ。アタシは魔女で、アンタたちは人間。そこの線引きだけは、守らなくちゃいけない。未来永劫、絶対にだ。

 アタシはこの先何百年生きるかわからないけど、そこだけは曲げちゃあならないんだ。アタシの、罪だからね。アタシは生きてる限り、自分の罪と向き合い続けるのさ。

 悲しい? ああ、悲しく見えるだろうね。ガノンも、そう言ったよ。最初だったか、他の時だったか……もう思い出せない。だけど、言われたって事実だけは思い出せる。

 ああ、懐かしいねえ。最後に会った時も、ガノンはどこかにそんな想いを隠していたよ。わかっちまうってことが、こんなに辛いモンだった。それを初めて、知らしめられたね。そうだね。興が乗ったし、そっちの話もしていこうか。まさかまさかの、再会だったよ。そして、アタシたちは決別したんだ。


 ***


「……幾度目だったか」

「三から先は数えちゃいないが……五度目か六度目じゃないかね。ようこそ、【強大なるガノンガノン・ザ・ギガンテス】。一廉の王になったと聞いて、一度は祝福したかったよ」

「その名で呼ぶな。王になりたくてなった訳ではない」


 幾年ぶりかの再会はしかし、ガノンにとっては果たしたくない再会であった。その威光を黒河にまで轟かせ、軍勢が白江にたどり着くのも程なくとされる、ヴァレティモア大陸東部域の覇者ガノン。だが、彼は。


「倦厭しておろうがなんだろうが、あの日出会った一傭兵が、覇王にまで成り上がったんだ。祝福しなけりゃ、礼儀にもとるさね」

「……受け取っておくとしよう」


 ガノンは、灰色みを増した髭をしごく。かつては黄金色にけぶっていた瞳も色褪せ、その中には憂いや虚無を湛えてしまっている。かつては豪壮を誇った赤き長髪も、いつしか白いものが混じってしまった。

 王としての責務に倦み、一人街へと抜け出した所でこの状況。王都の石畳を歩んでいたはずが、今や黒かがった土をした、紫空の下にいた。ガノンは魔女を見、口を開く。


「相変わらず、ここに一人か」

「つがいなど、取れる訳もなかろうて」

「つがいの他にも、手はあるだろう」

「他人を取り込んで暮らせと? アンタも老いたねえ」

「……かもしれんな」


 ガノンは、【異界】の大地を見つめる。あの日、初めて踏み入ってしまった時と、なに一つ変わっていなかった。だというのに、己の心はちっとも湧き上がらない。喜びがない。ただの一問答で、わかってしまった。今の己には、この【異界】が寂しき大地に見えてしまう。原因は、やはり。


「王ともなると、視座が変わっちまうもんかねえ。アタシは悲しいよ」

「変わるな。ああ、変わってしまう」


 ガノンは、まっすぐに答えを告げた。視線が交わる。彼女は未だ、黒布を被ったままである。その下の姿はわからぬが、きっとあの日から変わらぬのだろう。ガノンは息を吐き、言葉を続けた。


「王ともなると、『先』を見なければならぬ。傭兵の折は、『今』だけを見ていればそれで良かった。つまり、おれは変わってしまった」

「だから、アタシにも」

「ああ、言う。過去を捨て、未来を切り開くほうが良いとな」

「お断りだね」


 魔女が、口をモゴモゴと動かす。それだけで、彼女の右手に杖が現れた。魔女はそれを、ガノンへと差し向ける。これまでで初めての、『敵意』であった。


「これ以上のたまうのなら、アンタといえども叩き出すよ」

「……」


 ガノンは、口を開かなかった。敵意が悲しかったのか。あるいは。ともかく、対峙はしばらく続いた。ややあって、魔女が呆れ気味に口を開いた。


「申し開きは?」

「ないな。おれは老いた。もうあの頃のようには、ここを見られない」

「愚直な正直さだけは、変わらないねえ」

「正直は美徳だ。おもねって嘘をついたところで、なにも変わらぬ」

「そこが変わらないだけでも、ありがたいよ」


 魔女が、杖を下げる。バンバ・ヤガは頭部を覆う黒布を取った。はたしてそこには、ほとんど変わらぬ美貌があった。彼女は、しわがれ声で言葉を続けた。


「ひとまず、叩き出すのだけは勘弁してやろう。最後の茶でも、飲んで行くがいい」


 魔女が杖をかざすと、目前に家が現れる。初めてこの異界に足を踏み入れた際と、まったく変わらぬ姿だった。魔女の管理が行き届いているのか、あるいは【異界】の効能か。


「どちらもあるね」


 ガノンの意志を読み取ったかのように、魔女が言葉を発した。掃除は、聖堂における初歩の奉仕であると、彼女は続けた。ガノンは首を縦に振り、魔女に続けて席に着いた。あの日と変わらず、半ば勝手に茶を注ぐ。何度も足を踏み入れたが故の、手慣れた振る舞いだった。


「最後の茶だと言うに、感謝の言葉もないのかい」

「いや、感謝はしている」

「表に出さぬか」

「……たしかにな。済まない。今まで、わずかとはいえ世話になった。赦しをくれたことも含めて、感謝する」

「よろしい」


 たしなめと、誠実なる感謝の言葉によるやり取り。魔女はたしかに、『最後だ』とガノンに告げた。故にガノンは、常よりもゆっくりと茶を飲み干していく。そこに感慨があるのかは、本人にしかわからぬが。


「さあ、そいつを飲んだら最後だ。もう二度と、会うことはないだろうよ」

「そうなると良いな。おれも、ここまで若かりし頃の心持ちに戻れぬとは思わなかった」

「なに。こんなコトは幾度もあったさ。悔いるでない。王たるを行け。ここが別れ目だったのだ」

「そう思うとしよう」


 ガノンは、一息に茶をあおった。やがてそれを、机上に置く。それを見てから、魔女が告げた。


「この家から出れば、アンタの居るべき景色が待ってるよ。おさらばだ」

「……さらば」


 ガノンが、容貌魁偉の身体を外へと踏み出させる。はたしてドアの先には、彼が居るべき王都の街並みが広がっていた。


 ***


 ……とまあ、これが最後のやり取りだったよ。よくあることだった。アタシが立ち止まっている以上、仕方のない話だったさ。

 それから十年、十五年は先だったかねえ。アタシは聖堂からの使者から、ガノンが亡くなったことを聞かされた。随分と寂しく、それでいて彼らしい最期だったと、アタシは聞かされたよ。それから知らない内に彼の王国が消え去り、大陸東部域はまた群雄割拠の時代となった。

 そうしてどこからともなくアンタが現れ、話をするようになった。これが、今に至るいきさつさ。

 ……どうした? ん? なるほど。アンタもいつか、アタシと決別する時が来る。だって? それが不安なのか。なに。不安に思うんじゃないよ。人は、生きている限り前進する。アタシはこの【異界】で、止まった生を生きている。だからどうしたって、道が分かたれる時が来るのさ。

 ましてやアンタは、あのガノンの後釜として戦神に選ばれたんだ。止まっちゃいけない。アタシなんざ、気に掛けちゃいけない。広い世界を見て、歩まなくちゃいけない。それが、アンタの使命なんだ。

 わかったかい? そうか。わかってくれたか。じゃあ、今日はここまでだ。この家を出れば、アンタは居るべき景色に戻っている。来たけりゃ来ると良いが、ほどほどにしとくれ。アタシだって女だ。色々と準備があるからね。ん? なに言ってるんだい。アタシは【魔女】だよ。女であることまでは、捨てちゃいないのさ。わかったらとっととお行き。しばらくは来るんじゃないよ。じゃあね。


荒地の魔女・完

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ガノン・ザ・ギガンテス 南雲麗 @nagumo_rei

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