第2話

 夏休み明け初日。曲がりなりにも進学校というていを装っているから、初日から休み明けの模擬テスト。だから普通に授業をするよりは気楽なものだ。

 学校が終わったのは午後十五時過ぎ。部活もバイトも遊ぶ約束もない俺は、帰り道ついでにコンビニへ向かう。夕食代わりのカップ麺と野菜ジュースを買って家に帰る。

 十六時。アパートに帰ってくる。カンカンカン、と階段を鳴らし、部屋まで辿り着く。鍵を刺す。回す。

 ガチャリ、という音もない。となると既に開いていることになる。朝閉め忘れていた可能性と、それから不審者が中にいる可能性の半々。恐る恐る中に入れば、そこには、

「あー、アキ、おかえりー!」

 平日のまだ日が出ているうちから缶ビールを煽っている女がいた。

「……姉さん、遂に会社、クビになった?」

「ちがわい! 少し遅めの夏休みよ! といっても、今日の午後と、明日だけなんだけど!」

 不審者ではなく、姉さんだった。

 椅子の上にどっかりと座り、部屋着姿で酒を飲んでいる。酒癖がいいほうではないけれど、こんな風に荒れているのも、中々ない。

「……いつも思うけど、出版系って、そんなに忙しいの?」

「上司がろくでもないだけ! あと今日はインタビューするはずの人もひどくてねぇ、色々あって流れちゃって。そーれで早く帰ってきたわけ。別に近いからいいんだけどぉ……そう、それとアキくんの小学校の頃の友達……えーっと、名前忘れたけど、昔うちにも連れてきてた子と会ったんよ! いま主人公と同じ学校に行ってるって! 見かけたら声かけてあげなよ」

「いやその情報だけだと誰かわかんないんだけど」

「文句言わない! それでえ、久しぶりの学校はどうだった? よろしくやってる?」

「まあ、ほどほどに」

「ほどほどじゃダメよ! 友達たくさん作りなさいよ! あと学生のうちに彼女も作っておくのがおすすめ! 社会人になったらほんっと出会いないから! 青春なさい!」

「姉さん、ちゃんと水飲んでる?」

「飲んでない!」

「はいはい」

 酔っ払いの言葉を話半分に応対してから、手洗いうがいを済ませる。それからコップに水を汲んで机に出せば、姉さんは勢いよく飲み干した。

「酔っ払いの戯れ言と思って適当に流して! って、なにー? またカップ麺? お金は渡してるんだから、ちゃんとしたものを食べないとだめよ!」

 酔っ払い特有の会話の跳躍は、どうやら継続中だ。俺の持つビニール袋を目ざとく視認して追求される。

「野菜ジュースもあるから、栄養的には問題ないって。たぶん」

「そうじゃないのよ~……まあ今日は安心なさい、私が作るから」

「げえ」

「げえ、とはなによ、げえとは」

 姉さんは料理がお世辞にも美味いとは言えない。栄養的には問題なさそうだし、砂糖と塩を入れ替えたりもしない。ただ、微妙なのだ。同じ飯を食べて育って、どうしてこうも味覚に違いが出るのか。

 かといって、作って貰う身の上での拒絶もしにくい。姉さんが、俺のことを思ってしてくれることは分かっている。

「とりあえず、お母さんたちに線香上げてきなさいな」

 姉さんは缶を傾けてから言った。

 俺と姉さんは、たった二人だけの家族なのだ。


 酒を飲む姉を背に、仏壇に向かう。

 仏壇といっても、簡素なものだ。目下、姉と二人暮らしの身空。保険金や遺産はあるけれど、潤沢とも言いがたい。死者に対して使うことのできる金銭は限られる。地獄の沙汰も金次第とはいうけれど、テレビのサイズよりも小さい仏壇は、流石に浮かばれない気にもさせられる。

 仏壇には、両親の写真が置かれている。そこにはいつもと変わらない笑顔がある。

 仏壇の前へと座る。蝋燭に火をつけて、それから線香をつける。線香を灰に刺して、手を合わせる。最初はおぼつかなかったそれも、慣れたものだ。もう、六年も続けていることだ。

 両親は俺の十一の誕生日に死んだらしい。

 俺はその日のことを覚えていない。

 死の原因はなんのことはない、ありきたりな交通事故。

 事故の時、俺だけが車の外に放り出されて、俺だけが奇跡的に生き残った。

 事故の衝撃で、記憶に欠落が生じた。無理に思い出さなくてもいいとは言われて、以来そのまま。ぽっかりと記憶が抜けている。

 重要な日の記憶の欠落が、パーソナリティに影響しているかといえば、しているのかもしれない。

 事故のあと、退院後すぐに家を移すことになった。家族四人の一軒家から、姉さんと二人のアパート暮らしへ。元の家とは距離的には、さほど離れているわけでもない。バスで三十分程度の移動になる。ただ、住んでいる区画がズレたことで、これまでの友人たちとは離れることになった。

 病院の距離や、姉さんが大学を辞めて就いた仕事の兼ね合いらしい。けど、本当なのかはわからない。田舎の噂は巡りが早いから、そういう両親が死んだ子、みたいな扱いを受けるのを煩わしく思ったのかも知れない。

 いずれにしても、その頃からどうにもやる気が湧かない。意識の連続性が途切れた、というべきか。

 身近なものは、ある日突然失う。徒労かもしれないと思いながら大事に積み立てられるほど鈍感な人間では、少なくとも俺はなかったらしい。

 さりとて自棄になるわけでもなく、日々を消化し続けている。そういう自分の中途半端さが、時折嫌になる。


 目覚める。学校に向かう。授業を受ける。帰りがけにコンビニに寄る。夕食を食う。ゲームをする。眠りに就く。

 学校が始まって、生活が変化しても、それもすぐにサイクルへと変わる。日常の繰り返しに、大げさなアップデートはない。ディスプレイに映される、色鮮やかなオープンワールドゲームのほうが自由度が高い。現実で行けるマップは限られているから、単なる生活の繰り返しだ。

 家に帰れば余力をぶつけるように、映し出されるゲーム画面へと意識を向け続ける。そのゲームだって、新鮮味があったのは途中まで。装備や魔法の選択肢が増えても、使えるものは限られる。マップの空白もほとんど埋まった。倒していない敵はいない。残るはルーチンワーク。移動。敵と出会う。先制攻撃。攻撃を防ぐ。ジャストガード。反撃。敵は倒れる。勝てない敵が現れれば、敵を倒す。アイテムを手に入れる。レベルを上げる。最後には繰り返しに成り下がる。

 他にやることもないし、新しいゲームに手を出す気力もないから、同じものを続けている。

 家、学校、家、ゲーム。変わらないループ。高校生までの、いつか終わりが来る繰り返し。終わりから目を背けて、ゲームを続ける。日常を進める。

 夏休みが明けて、五日目。金曜日。

 いつもと変わらない一日だ。

 そのはずだった。

「ねえ、あなた。これから時間、いいかしら」

 授業が終わり、ショートホームルームが終わる。早足に帰る。

 話す相手も話すこともない。速やかに帰路に就く俺を、下駄箱で呼び止めてきたのは、

「……えっと、水瀬、さん?」

 生涯関わることがないと思っていた相手だった。

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