第1話

 高校を選んだ理由は、家から近かったから。

 付け加えるのなら、そこしか選択肢がなかったからというのが正確かもしれない。

 神奈川県の南東部、横須賀の西側。相模湾を臨むその土地には、電車の線路も通っていない。

 海沿いの町だというのに、交通網の一部から切り離されたその場所は、当然のように観光街としての発展もしていない。

 遊びたい盛りの若者は、どう栄えている場所に行くかを考える。そうでない若者は、大抵昔ながらの不良になる。そういった事情も踏まえると、選べる学校は自ずと限られる。

 今日は夏休み明けの初日だった。

 夏休み中、家に籠もってゲーム三昧で鈍った身体を目覚ましで強制的に起こす。目覚まし時計が鳴る。消す。鳴る。消す。都度三回繰り返し、起き上がる。いつも通り午前七時十分。丁度いい時間だ。

 朝食をとる。着替える。準備をする。諸々を終えれば七時半。

 街に動く人が少ないうちに、バスに乗って学校に向かう。

 教室には、既にまばらに生徒がいる。そのほとんどが、軽く挨拶をする程度で、会話をするほどでもない仲だ。

 一ヶ月ぶりの自席に座る。

 早く来ても、勤勉に予習をするわけでも、親しい仲の相手と話すわけでもない。ただ、早く来てぼんやりと過ごすだけ。

 教室の窓の向こうをなんともなしに見る。そこにあるのは空に、景色を遮る小高い丘。海はその向こうにあるから見えやしない。誰かが既に開けた窓からは、歓迎するにはややぬるめの潮風が流れる。

 学校がもっといい立地にあればいいのに、なんて頭の片隅で思わないでもない。けど、これはこれでいいものだ。

 なんて浸っていれば、

「おーい、朝早くからなに黄昏れてんだ?」

 背後から声をかけられて、視線を移す。

「よ! 久しぶりだなアキノ! 充実してたか?」

「……久しぶり。聖は相変わらず、元気そうだね」

 乾いた口を、慎重に開いて言葉を返す。声をかけてきたのは、七草聖。クラスメイトの中で、俺がクラスの中で、唯一まともに会話という会話をする相手。

「充実……はしてたよ。昨日まで、家でゲーム三昧。そっちは?」

「俺は親父の漁の手伝いもしてたけど、山、海、花火大会と網羅してきたぜ。つーかクラスのグループチャット(グルチャ)、見てただろ? 暇なら来りゃあよかったのに」

「……丁度予定があって」

「アキノはいっつもそうじゃねえか」

 口を尖らせての追求に、俺は曖昧に笑って返す。予定なんてなかった。ただ、行く気にはなれなかったのだ。このクラスで話すのは聖くらい。それが大勢の中に入っても、場所が教室から変わるだけで結局は大差ない。

 クラスの中では、各々が固定の相手と集まって安定している。仲が悪いわけでもない。分断しているだけだ。各々の交流の輪に閉じこもる。外部とは話せば応えてくれる程度の薄い結びつき。自分たちの外側には、消極的な無関心。

 それが悪いこととは、俺は思わない。中学生の頃であれば、幼さ故に混ざり合って衝突していた関係が大人びた結果だ。他人は他人。自分は自分。分別が良くなって、関係性は希薄になる。そんな当たり前のことを、当たり前のものとして受容しはじめている。

 俺が一人でいたとしても、誰も気にすることもない。安堵と疎外感のブレンド。そんな今の状態が、いまの俺にはなんとなく生きやすい。

 コミュニティの境界をまるで気にせず、誰彼構わず声をかけるのは、それこそ聖くらいだ。勿論、誰彼構わずに声をかける聖が悪いやつだとも思わない。少なくとも、聖がこうして話しかけてくれることは助かっていた。好き好んで休み明け初日から、机に突っ伏し続ける生活をしたい訳でもないのだ。

 一人でいる時間は欲しいけれど、望んで一人になりたいほど強いわけでもない。そういう意味では、俺は間違いなく中途半端な人間だった。

「アキノはさ、なんかとっつき辛いっつーか。もう少し、人に寄り添ってもいいと思うぜ」

「俺は聖みたいに、クラス全員と友達になりたいわけじゃないから……」

「頑なだな~! もっと高校生活を楽しんだ方がいいぜ。ま、そんなだからこそ聖なんだけど」

 聖は知ったように言うけれど、別に旧知の仲でもなんでもない。クラスが二年連続で同じなだけ、と言ってしまえばそれだけの関係だ。

「水瀬さんも来てくれなかったしなぁ……年明けまでには仲良くしておきたいぜ」

 水瀬、と。そういった聖の視線は窓側の方へと向いていた。俺も、そちらに目を向ける。

 俺が来た時には居なかったクラスメイト。そいつは聖と話している間に、いつの間にか窓辺の席に腰掛けている。

 水瀬イサナ。

 そいつは、視界に入れてしまえば、嫌でも意識させられる。

 すらりと伸びた肢体。艶やかな黒髪。鋭い瞳は、僅かに残った幼さで中和されている。

 客観的に見て、十人が十人美人と言うであろう容姿。クラスの中でも、一際際立つ存在が、水瀬イサナだった。

 もっとも、水瀬イサナが目立つのは、容姿だけではない。一年生の頃から、誰とつるむことなく、常に一人で過ごしている。生活が謎に包まれているのも、拍車をかけているのだろう。聖の誘いに乗らなかったことから、今も変わりがないようだ。

「水瀬さん、遊びに誘った時は、東京の実家に帰って来れないって返してきたんだぜ。この意味が分かるか?」

「……東京に彼氏がいる?」

「違う! いや、そうかもしれないけど、用事がなければ来てくれるってことだよ!」

「そ、そうかなぁ……」

 俺のことといい、聖は変なプラス思考だ。まあ、止める理由もない。勝手に頑張って欲しい。

「まあ、しつこくやり過ぎるなよ。お前の恋路は応援するから」

「ち、ちげえよ、そういうのじゃねえって! いやまあ、確かに顔は好みのタイプだけどよ……せっかくのクラスメイト、せっかくの高校生活なんだし、一緒に楽しみたいだろ」

 スポーツマンの鑑の如く、爽やかな笑顔を返してくる聖。たぶん本音なのだろう。なんだか眩しくて目を細めてしまう。

「聖みたいな人間ばっかなら、世界も平和だろうな」

「なんだよ、急に褒めるなよ……それに、アキノも他人事みたいに言うなよ。次に誘ったら来てくれよ」

「……時間が合えばな」

「お、言ったな?」

 適当なやりとりに、実も種もない。益体のない会話をしていれば、そのうち聖は他のやつに呼ばれて、そちらへ向かっていく。

 一人になった俺は、再び窓の方へ目をやった。ただ、既にそこにいる水瀬へと視線が向いてしまう。これは不可抗力で、仕方ないことだ。

 水瀬は、窓の向こうを見ていた。その横顔を盗み見る。人気である理由は分かる。単純に、見栄えがする。窓の向こうを見る姿一つとったって、さまになっている。

 単に容姿だけではない。たとえばぴんと伸ばした背筋。たとえば無駄に口を開かないこと。表情の変化がないミステリアスさ。小さなことがいくつも積み重なっている。

 浮世離れした雰囲気に惑わされ、告白した男女を何人も玉砕させてきた……なんて話は小耳に挟んでいた。ちなみに情報源は勿論、聖から。

 正直に言えば、俺は水瀬のことが苦手だ。

 嫌い、ではなく、苦手。

 それも別段何をされたわけでもなく、一方的に苦手意識を持っているだけでしかない。

 俺と水瀬の共通項は一人でいることで、違いはそれ以外の全てだ。

 俺は怠惰と惰性で孤立している。でも、水瀬は違う。あいつは自分が望んで一人でいると、どうしてか思っていた。あくまで想像だ。本当にそうなのか、話したこともないから、知りようがない。

 他人のことをずっと見ているものではないだろう。視線を前へと移そうとして……ふと、誰かと視線が合う。

 気のせいだったかもしれない。けれども視線が窓ガラスの反射越しに、水瀬と目が合った、気がしたのだ。

 確認もせず、俺は咄嗟に顔を正面へ向けた。慌ててしまえば滑稽だとわかっていても、そうせざるをえなかった。

 焦るのであれば最初からしなければよかったのに、余計に良くないことをした気分になる。

 こういときは、忘れるに限る。少なくとも、俺と水瀬が関わることはないのだ。

 輪と輪ならまだしも、点と点。個体と個体だ。仮に関わるとしたら、どちらかが自ら接触しようとしたとき。つまり可能性はゼロ。もしくは小数点以下の事象でしかない。

 自分に関係のないことは、考える必要もない。心を閉じて、穏やかに過ごすことに終始する。

 いつからかは忘れたけど、俺はそんなふうに生きている。

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