02.

 日が高くなった頃、慈風坊さまに起こされた。


 寝覚めに天狗面を突きつけられたおかげであっという間に脳みそが覚醒した。

 隣では飯綱さまの烏面に紫乃が悲鳴をあげていた。


「皆大黒審判の準備で忙しいみたいだったからね。僕たちが目覚まし役を買ってでたのさ」


「銀子ちゃんも紫乃ちゃんも寝顔が可愛いのだもの。もっと安らかな眠りにつかせてあげようかと思ったくらい」


 神さまというのは自由気ままな方々である。


 と、大事なことを思い出したあたしは、お二方に深く頭を下げた。


「これまで機会を逸し、申し上げるのが遅れたことをお許しください。慈風坊さま、飯綱さま。『流星丸』の調薬方のご教授、まことにありがとうございました」


 隣で紫乃も床に手を突き、頭を下げる。


「二人とも、本当にいい子ね」


「礼を言わせてもらうのはこちらだよ。何しろこれから世にも珍しいものを拝見できるんだからね」


 慈風坊さまより「伝言だよ。『弁天楼へ行きなさい』とね」と言いつかったあたしと紫乃は、人混みの表参道を避け裏参道を走った。


 弁天楼ではお婆さまが振り袖を用意して待っていた。


「今日は晴れの日だからね」


 三日前にあたしがつけた泥水の汚れはすっかり落とされていた。


 相変わらずの早業で着付けを済ませたお婆さまは、あたしと紫乃の背中を力強く叩いた。

「しっかり雪いでおいで」


 あたしと紫乃は、小股で仲見世通りの人混みをかき分け進んだ。


 表参道の人出は三日前よりも増えていた。

 中津宮岩屋宮の境内にまで溢れかえっている見物客も、やはり社殿の周りには近づけていなかった。


 社殿の脇には梅鶴おじさまと千里おばさまが揃っていた。

 おじさまは威風堂々、袖から突き出した拳を袴の脇で力強く握りしめ、眉一つ動かさず立っている。

 敵軍を迎え撃つ大将のようであり、島を丸ごと担ぐ大黒柱のようでもあった。


 手招きするおばさまの許へ駆け寄る。

「自分のしたことを、ようく見ておくんだよ」

 とおばさまはあたしと紫乃の肩に手を置いた。


 境内を取り囲む樹々の向こうから、ぴいひゃらぽぽこんとおめでたい音が聞こえてきた。

 笛と太鼓が近づく。

 七色の煙が参道の石畳を這ってきた。

 煙に影が浮かび、狩衣姿のねずみとうさぎが姿を現した。

 ねずみが紙吹雪を散らし、うさぎは三管三鼓両絃を鳴らす。


 三日前にはねずみとうさぎの行進に騒いでいた紫乃も、今度ばかりは息を呑んでいる。


 ついに真紅の大傘が現れた。

 大黒さまの御成である。


 お神輿から降りられた大黒さまは、脇に控えていた数之進に「長きに亘る饗応役、ご苦労であった。下がってよい」と声をかけた。


 大黒さまに一礼し、社殿の脇に控えるあたしたちの方を見た数之進が不意に目を見開いた。

 何かと思い横目で窺うと、いつの間にか慈風坊さまと飯綱さまがあたしの横に立っていらした。


「大黒さま。ご無沙汰ですね。僕です。慈風坊です」


「言わずと知れている。何用か」

 大黒さまは相変わらずの福々しい笑顔を浮かべていらっしゃるが、心なしかその口調は冷たかった。


「それこそ言わなくても分かるというもんでしょう。見物ですよ、見物。今日は珍しいものが見られるというのでね、高尾の山奥からわざわざ出張ってきた次第ですよ」


「その方、何ぞ仕掛けておるな。何やら騒がしいと思うたわ」


「滅相もない!」

「楽しみにしていてくださいね」

 否定する慈風坊さまのお隣で、飯綱さまは親指を立てて見せた。


「何ぞ嫌な声がしよると思うたら、飯綱に慈風かえ」

 と、頭上から琵琶の声が降ってきた。


「あら、弁天さん。ごきげんよう」

「こちらへお出でになってはいかがですか?」

 慈風坊さまは空へ向かって手を振られた。


「嫌じゃ。そなたらがおるとなれば尚更よ」


「弁天さん、だいぶお疲れのご様子ですねえ。そろそろ神上がりが近いのですか?」


「……滅多なことを言うでないわ」


 思わず見上げると、千里おばさまは唇をぎゅっと噛み締めていた。

 同じく振り返っていた紫乃と目が合う。

 弁天さまが辺津宮に篭っておられるのは、もしかしてそういうことだったのか。


「そんな弁天さんによく効くお薬がありますよ」


 と、不穏な空気もどこ吹く風と楽しげな飯綱さまのお言葉に応えるように、参道を埋めていたうさぎたちが一斉に道を開けた。

 不意の風が、薄く残っていた七色の煙と色紙とを空へと散らせた。


 参道の向こうから白金兄さまと金子姉さまが姿を現す。

 兄さまは両の手を握りしめ、姉さまは漆塗りの黒箱を台に乗せて持っている。


 二人を認めた大黒さまが声をあげた。


「稲羽!」


「これに」

 と進み出た稲羽が木台を置く。


 大黒さまが木槌を振り下ろされた。


「大黒審判である!」


 前回とは違い、今回は大黒さま御自らが『蒲の背撫で』を執り行われた。

 新規に霊薬局の認定を受ける場合の作法だ。

 今回は特例だろう。


 金子姉さまが漆塗りの黒箱を白金兄さまに差しだした。

 姉さまの表情が強張っている。

 距離を置いたここからでも分かるくらいに手が震えている。


 白金兄さまが黒箱を手に取る。


 思わず「え」と声を漏らしてしまった。

 前回と段取りが違う。

 兄さまはそこで蓋を開けて中からおちょこを取り出すはずだ。


 大黒さまも怪訝な表情で首をお傾げになった。

 対する白金兄さまは自信に満ち溢れた笑みを浮かべている。


 兄さまは蓋を開けると、漆塗りの黒箱を引っくり返した。

 逆さになった黒箱からは何も落ちない。


「……どういうことだ。打つ手がなかったと申すか。審判を、わしを侮辱するか」

 大黒さまのご尊顔から笑みが消え、俄に憤怒の形相が浮かび上がる。


 白金兄さまは僅かなりとも慌てることなく、黒箱を打ち捨てて立ち上がり、大黒さまに向かって堂々見得を切った。


「万の象之に有り! 三十三世龍神庵、『万象丹』を天に捧げ申し上げる!」


 兄さまが右手を掲げ指を鳴らすと、慈風坊さまが「待ってました!」と柏手をお打ちになった。


 境内を取り囲む社叢のあちらこちらから爆発音が鳴り響く。

 見物客が一斉に身を屈め、悲鳴をあげた。

 樹々の隙間から白い煙が空に上っていく。


 そして、弾けた。


 脳天から足下の大地までを揺るがすような轟音が鳴り響き、空には大輪の花が咲いた。

 お天道さまの恵みに満ちた昼日中であってさえ、その虹色の花は眩く天に輝いた。

 見物客の悲鳴が、ざわめきとなり、歓声となっていく。


「服すばかりが薬にあらず。空に散らせる花もある。お師匠さまの昔話さ。君たちの祈りは僕にも届いたよ」

 と、慈風坊さまは天をお仰ぎになった。


 舞い降る虹色の霧の中、唖然としていらした大黒さまが、次第に福々しい笑みをお浮かべになった。

 その全身が茫漠とした光を帯びていく。


「地よ! 星の骨たる地よ! 海よ! 星の懐たる海よ! 空よ! 星の息たる空よ! 遍く命がここにある! 懐かしき光! この虹!」


 大黒さまは空に咲く花を掴まんとするように手を掲げられ、その御身は次第次第に地より離れていった。


「龍神庵、よくぞ成した! 二百と七十年、失われていた星の宝を、そちは蘇らせたのだ!」


 白金兄さまは参道に平伏し、大声で「お言葉ながら、大黒さま!」と叫んだ。


「某のみの功にあらず! 我が一家の成せる業にて!」


 奏上をお受けになった大黒さまは、呵々大笑して宣った。


「見事なり! この大黒が認めよう! 龍神庵、合格である!」


 境内に声が溢れた。

 それまで見えずとも確かにあった境界線が千々に切れ、見物客が境内になだれ込んだ。


 平伏していた白金兄さまは梅鶴おじさまと数之進に助け起こされ、それから島の男衆に担ぎあげられた。

 胴上げの輪の中には、腰越の網元や観光協会の会長の姿ももちろんあった。

 その周りでは総吉や文枝、仲見世通りの悪がきたちが万歳しながら駆け回っている。


 岩本院の女将や食堂の店主ら女衆が囲む中、両の手で顔を覆った金子姉さまを、千里おばさまが抱きしめている。

 いつの間にか境内の隅にいたお婆さまは、天に向かって手を合わせている。


 鳴り止まぬ花火の音に負けじと、うさぎたちはぴいひゃら管を吹き、ぽこんちんと鼓や鉦を打ち鳴らし、ぽんぽろんと弦を弾いた。

 慈風坊さまと飯綱さまは、ねずみごと籠を抱えて大黒さまの周りを飛び回り、雨あられと紙吹雪をお撒きになっている。


 突如、海の割れるような轟音が鳴り響いた。

 龍神さまだ。

 天へと舞い上がった龍神さまが空を横切ると、御身から降り注いだ海水が境内に降り注ぎ、その軌跡をなぞるように虹がかかった。

 龍神さまのお背なには、羽衣を棚引かせた天女が腰掛けていらっしゃるのが見えた。


「これがわたくしたちのしたことですのね」

 隣に立つ紫乃が天を仰いで呟いた。


「あたしたちの薬、届いたね」


 心は晴れている。

 しかし、そこには傷がついている。


 あたしたちは知った。

 雪げる恥もあれば、拭えぬ汚辱もあるということを。

 あらゆる可能性を秘めたまま生きてはいけぬということを。

 それでも今を頑張るということを。

 そうして初めて成せる業があるということを。


 あたしたちは知り、思っている。


 紫乃は顔を下ろし、あたしと向き合った。


「銀子」

「紫乃」


 掲げた右手を打ち合わせる。

 響いた音は、あっという間に世界の轟音に飲まれていった。


 地より湧き上がった熱は島を覆い尽くし、海へと溢れ、やがて空へと散っていった。

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龍神庵銀子は薬売り 村井なお @murainao

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