05.

 展望台を出て十分も経たぬうちに山門に辿りつく。

 案内板には神変堂浄心門とある。


 門をくぐろうとするあたしを、紫乃が「お待ちなさい」と制した。

「そちらではありませんわ」


「え。こっちじゃないの?」


 門の向こうからは絶え間なく人が歩いてくる。


「そちらは三号路、こちらが一号路です」


「下り道だけど」


 紫乃が指さしたのは、鬱蒼とした森の中へ下っていく道だった。

 人通りも少なく、門をくぐるアスファルトの道と比べるとどうしてもこちらが外れにしか見えない。


「石畳の方は平坦ですが遠回りです。こちらは一度少し下ってからまた登る道で、負担はありますが距離はありません。ほら、急ぎませんと」


 紫乃の声には、焦りだけでなく苛立ちが混じっているように聞こえる。

 今の紫乃は平静を保っているのかと須臾の間躊躇ったものの、結局あたしはその判断に従うことにした。


 島を出てから今に至るまで、あたしは紫乃に全ての判断を委ねてきた。

 高尾山に入ってからも、道は全て紫乃が選んできた。

 麓の駅で案内板を見て以来、あたしは一度たりとも地図を見ていない。

 今更になってその判断に疑義を投げかけようにも、あたしは反論の具体的な材料を何一つ持ち合わせていない。

 ただ『そっちは違う気がする』というだけだ。


「行こうか」


「ええ」


 紫乃の言う通り、五分も歩かぬうちに坂は下りきった。

 こちらの道は、舗装こそされていないものの、よく整備されていた。

 土は剥き出しになっているが、木の根や石は少なく、これなら江ノ島の弁天沼に向かう山道より余程歩きやすい。


 山の斜面にへばりつくように道は進む。

 上ったり下ったりを繰り返す。

 勾配のきついところには丸太の階段が設えられている。


 こちらの斜面は山の北面に当たるのだろうか。

 恐らく高尾山それ自体の陰になってしまっているのだろう。

 まだ日没には早い時間だというのに、辺りは暗さをいや増している。

 何も言わずとも、先を行く紫乃の歩みは速くなる。


 二十分も進んだ頃だろうか、向かう先に横長の人工物が現れた。

 暗く濃い樹々の隙間、その空中に横たわる茶色の構造物。


「うわ、吊り橋!」


 思わず駆け出し、袂に立つ。

 暗がりに挟まれた真っ直ぐな道が、足許から対岸にまで伸びている。

 両脇に張られた綱のすぐ向こうには、正体なく重なる葉々と、その隙間から覗く闇の虚空。その光景に、あたしの興奮はますます高まった。


「ねえ、紫乃! ほら、早く!」


 応えはない。

 どうしたのかと道を少し戻ると、紫乃は屈みこんで地図を広げていた。

 手許を照らすスマホの灯かりは、宵闇の中で手の届く範囲を思い知らせるようで、却って心もとなかった。


「……吊り橋があるとなると、この道は四号路ですわ」


 俯いていてその表情は伺えないが、紫乃の声は明らかに沈んでいた。

 浄心門前の分岐で、紫乃はこの脇道を指して一号路だと言っていた。


「えっと、じゃあ戻ろうか」

 あたしは努めて明るい声を出した。

 紫乃の道間違いに気持ちは多少なりとも沈んではいたものの、今できることはそのくらいしかなかった。


 紫乃は顔を上げて、首を強く振った。

「いえ。このまま進んで一号路に合流したほうが早いですわ」


「分かった。じゃあ行こう」

 紫乃がそう言うならあたしはそうする。


 あたしたちは、暗闇を跨ぐ吊り橋を急いで渡った。

 吊り橋の先ではまた道が上りにかかった。


「きゃあ!」


「紫乃!」


 あたしの目の前で、紫乃は足を滑らせた。

 階段の丸太を踏んだ足にうまく力が入らなかったように見えた。


「大丈夫ですわ。少し擦りむいただけです」


 膝の辺りでレギンスが破れている。

 紫乃はスマホを取りだし、傷口を照らしだした。

 傷は浅い。

 レギンスで幾らか軽減されたのだろう。


「ちょっと待って。消毒して薬塗るから」


「いえ、このくらい」


「駄目! 確かに傷は浅いけど、問題は深さじゃない。体が開いていることが問題なの。菌が入っちゃう。分かるでしょ」


「……ええ」


 紫乃は大人しく治療を受けることを選んだ。

 消毒液で傷口を洗い、小石と砂を取り除く。

 それから治癒力を高める鮫の肝油を塗り、抗菌作用のある紫雲膏を塗った。

 そして綿紗を当てて包帯を巻く。


 治療を終えると、紫乃はすぐに立ち上がった。


「道なりに進めば一号路に戻るはずです」


 紫乃は言ったそばからもう歩きだしている。

 慌てて背嚢を背負い、紫乃を追いかける。


「問題ない?」


「言ったでしょう。すり傷だけです」


 坂を登り切ったところで紫乃がはたと足を止めた。

 平坦で開けた場所である。

 道らしい道が見当たらない。

 樹々の空ける間隙全てが道に見える。


「紫乃、一号路って方角は?」


「ああ、そうですわね。南のはずです」


 紫乃は、忘れていたとばかりに慌ててショートパンツのポケットをまさぐった。

 それから上着を手のひらで叩き、背嚢を下ろして中を漁った。


「ねえ、まさか」


「……ありませんの。コンパスが! ベルトループに括りつけておいたはずですのに!」


 辺りを見回したり、背嚢の中をスマホで照らしたりする紫乃。

 明らかに、混乱を来している。


 あたしは紫乃の肩にそっと手を置いた。


「落ち着いて。落としたとしたら、さっき転んだところじゃない?」


「……確かに」


「道を探して進むのと、戻ってコンパスを探すの、どっちがいいと思う?」


「そうですわね」


 紫乃は手を口許に遣って考える素振りを見せた。

 少しは落ち着きを取り戻すことができたようだ。


「戻る道は下りです。先に進みましょう。迷ったときには道を登るのが鉄則です」


「そうなの?」


「ええ。遠足のときに教わりましたの。山は山頂に行けば行くほど狭い。裾野に下れば下るほど広い。登ったほうが登山道に出やすくなる」


「ああ、なるほど」


 空に向かって尖る円錐を思い描く。

 その円錐に底面から頂点まで縦の線を引く。

 これが山道だ。

 底面に近いと断面の円は大きく円周は長い。

 頂点に近ければ円周は短くなる。

 縦の山道に行き合うまでに円周を歩く距離は、頂点に近ければ近いほど短くなる。


「登るのが正解です。ですから、先に進みましょう」


「分かった。じゃあ上りになってる道を探そう」

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