04.

 弁天楼から帰ってみると、店では金子姉さまが帳簿机についてお客さまを待っていたので、あたしは一度奥に引っ込むことにした。


 部屋にランドセルを置いてから薬房を覗いてみると、そこはもぬけの殻だった。

 あたしが薬房を使ってよいのは、白金兄さまも金子姉さまも使っていないときだけとされている。

 これは店主である兄さまが決めた掟だあたしとしても異存は全くない。

 霊薬師として才を発揮している二人が使ったほうが当然店のためになるからだ。


 龍神庵の薬房には小さな囲炉裏が設えられている。

 煎じたり、炙ったりと調薬には火を使う工程が多い。

 なお、煎じるとは、お湯で薬効成分を煮だし、そのまま水分を飛ばして粉末とする加工をいう。


 壁際には燭台が並べている。白金兄さまも金子姉さまも、電灯よりろうそくの灯かりがよいと言う。

 火の気が多いため、薬房には水道も引いてあるし、天井には煙り出しも付けてある。

 お客さまの目に触れる部分では弁天楼に敵わないものの、龍神庵の薬房は弁天楼のそれにも負けず劣らず優れた設えとなっているのである。


 店番の必要もなく薬房も空いているとなれば、とあたしは勇んで霊薬の調薬に挑んでみたものの……。


「駄目だ!」

 またも失敗した。


 床に寝っ転ぶ。

 もうこれで何度目の失敗か、数える気にもならない。


 調薬の方法や手順などを引っ括めて『調薬方』と呼ぶ。

 龍神庵の霊薬・朔龍湯の調薬方は至って単純、龍涎香を煎じるというただそれのみである。


 しかし、これがうまくいかない。


 煎じるだけならばあたしでもできる。

 幼い日より調薬の勉強は欠かしていない。

 霊薬以外の薬ならば、あたしにだってお茶の子さいさい。


 問題は技術ではないのだ。

 あたしは霊薬の秘訣をまだ得ていない。


 そこに絶対的な壁がある。

 霊薬を霊薬たらしめるもの、それが霊薬の秘訣である。


 白金兄さまや金子姉さまはこの秘訣を幼少の頃に得たという。

 それ故に二人は天才と呼ばれるのだ。


 兄さまも姉さまも、この秘訣については何も教えてくれない。

「霊薬の秘訣は自ら悟らねば意味が無い」

 兄さまはそう言う。


 ただ、兄さまも姉さまも霊薬を調薬する姿を隠そうとはしない。

 姉さまはここ数年めっきり霊薬をつくらなくなってしまったが、兄さまは月に数日、朔龍湯の調薬によいとされる朔日の前後に調薬を行う。

 技術は見て盗めということなのか、とあたしは兄さまの調薬をしばしば見学するが、今のところ得られたものはない。

 手順自体はあたしがしているのとまるで同じである。


 自ら悟るという言い回しから、霊薬の秘訣とは心持ちのことなのかも知れないと当たりをつけたあたしは、調薬中の兄さまの表情を伺ってみた。

 兄さまはいつも通り浮き世離れした微笑みを浮かべるばかりだった。

 最早朧気な記憶であるが、昔朔龍湯の調薬をしていた姉さまも、やはりいつも通り夢見るような表情でいたような気がする。


 今日は、それを真似て心を空っぽにするよう努めてみたが、やはり結果は失敗に終わった。

 秘訣とは何のことなのか、あたしにはまだ分からない。

 あたしは、霊薬つくりの端緒にすら立っていないのである。

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