事例1: (やさぐれた)個人との対話

運命の夜

 あの時、私はいつもの居酒屋のカウンターで飲んでいた。

 メニューの見開きページを埋める地酒リストを、端から順に頼んでは飲んでいた。お通し以外の食べ物は頼まず、日本酒だけをひたすら飲んでいた。ビールだのカクテルだのの気分ではなかったし、焼酎は、社長の好物だから見たくもなかった。


文華ふみかさん、今日はペース速いっすね。大丈夫です?」


 下の名前で呼んでくれるほど、顔馴染みのマスター。そのマスターが心配するくらいに、あの時の飲み方は激しかったみたいだ。

 自覚はなかった。自覚できるほどの精神的余裕もなかった。


「……転職してやる。今度ばかりは絶対転職してやる」


 ぐい飲みを手酌で満たしては空けながら、同じことばかりぼやいていた。


「お仕事で、また何かあったんっすか? SEシステムエンジニアって大変っすよね」

「今回は何もないよ。何もないのに、降格で減給が決まったってだけ」


 言った後、これじゃあ初心者の「何もしてないのにパソコン壊れた」と変わらない、と気付いた。追加情報を足す。


「私は仕事、ちゃんとこなしてる。引き受けた仕事は全部納期通りに終わらせてるし、致命的な不具合も出してない。だのに『言われたことしかしてない』から降格対象、だってさ」


 一気に喋ると喉が渇く。でも言いたいことは止まらない。お酒で湿らせて、さらに私はまくし立てた。


「本気でバカじゃないの……言われてないこと勝手にやって、顧客にいりませんって言われたら、その分の給料どっから出るのよ。労働時間にはコストかかってんだからね。それに『言われたことしか』って、言われたことを言われた通りに実行するのがどれだけ大変かわかってんの? 『このシステム遅いから早くして』って言われて、はいそうですかってホイホイ実現できると本気で思ってんの!? ……その手の無茶振り、私がどんだけこなしてきたと思ってんのよ」

「まあ……そうっすね。うちでいう『美味しい料理を出せ』みたいなもんっすよねえ。言うは易く行うは難し」

「でしょ!? でも社長様の見解は違うんだってさ。『提案力のない人間はキーパンチャーと同じ。いずれAIに取って代わられる。そんな人間はうちにはいらない』だそうで」


 言ってるうちに、また怒りが蘇ってきた。二杯、立て続けにあおる。


「社長の後先考えない、ありがたーいご提案の尻拭い、いつも誰がやってると思ってんのよ……まあ、もうどうでもいいんだけど。いらない子っていうなら出ていくだけ。ゴミ扱いされてまで留まる気もないし」


 酒で熱くなった息を吐きながら、己のキャリアを思い返してみる。

 システムエンジニア光石文華みついしふみか。二十二歳で情報工学科を卒業後、ITベンチャーに新卒入社して、そのまま今年で七年目。

 職場に愛着はそれなりにある。けど、仕事も成果も馬鹿にされて給料まで減らされて、これ以上留まる理由もない。

 思い知ればいい。「言われたことを、そのとおりにできる」人間がいなくなって、困るのは誰なのかを。

 ひとしきり愚痴を吐き出し終えて、スマホを確認してみると、時刻表示は既に二十三時を過ぎてしまっていた。終電が近い。

 あわててお会計を依頼する。樋口さん五千円札ひとりとお別れし、私は店を飛び出した。駅への最短ルート――店の裏路地を駆け抜けようと走り出すと、不意に足がもつれた。


(しまった……飲んだ後に急に走ったから!)


 立て直そうにも、上下の感覚がない。

 手足のバランスが崩れる。身体が、積まれた黒いゴミ袋の上に、いやにゆっくりと倒れ込んだ。


(職場でゴミ扱いされて、ここでまで私は、ゴミってことかな――)


 そんな考えがよぎったところで、私の記憶は、途切れている。

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