第5話 『外科室』泉鏡花著  を読んで

『外科室』泉鏡花著を読んで    笹葉更紗



「――さん、ささ――さん」


 まどろみ中でかすかに聞こえる声にはたと気づき、慌てて頭を上げる。


「大丈夫? 笹葉さん」


 クラスメイトの小島さんが不安そうに立っていた。


 あたりを見渡すとどうやら教室のよう。ウチと、小島さん以外は誰もいなかった。


 どうやら一時間目の授業の途中から眠りに落ちてしまったらしく、そのまま授業も終わって休憩時間になっているようだった。


 頭の中がいまだ少しぼうっとしていて意識が虚ろだ。


 たぶん。何か夢を見ていたのだろうとは思うのだけれど、それがいったい何の夢だったのかは思い出せない。


「あ、みんなならもう音楽室に移動したわよ。ほら、次移動教室だから」


「ああ、ごめん。ありがとう起こしてくれて……小島さんがいなかったらウチ、一人取り残されてしまっていたかも……」


「あまりにも爆睡していたからね。みんな気にはなっていたんだけど気を遣っていただけなのよ」


「そう、みんな気にしていたのね……なんだか少し恥ずかしいわ」


「大丈夫よ。みんなきっとわかっているから。笹葉さん、大変よね。生徒会長の仕事って、やっぱり忙しい?」


「うん、大変は大変なんだけど、居眠りの原因はそういうことじゃないから……」

 


 ――正直に言うならば、本を読んでいただけなのだ。


 泉鏡花の全集を読んでいて、つい気が付けば夜をふかしてしまっていた。


 鏡花の文体はあまりにもきれいで、その字面を見ているだけでもうっとりとしてしまう。


 中でも特にお気に入りなのは『外科室』だ。


 とても短い小説ながら、その言葉のやり取りには何度読んでも色褪せない。

 婦人は手術の際に麻酔を使うことを拒否する。

 意識がない間に、外科医に秘めた想いを口から漏らしてしまうかもしれないとおそれたのだ。

 医師は麻酔なしで執刀する。


「痛みますか?」


「いいえ、あなただから、あなただから」そして「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」と言葉をつなげる。


 婦人は外科医の手を取り、メスを自分の胸へ刺す。

外科医は「忘れません!」とささやき、その言葉に微笑みながら息絶える。そして医師もまた命を絶つのだ。


 二人は過去にあったことがある。しかしそれは互いの胸の中に秘めたままの想い。

 婦人は医師にその想いを漏らしてしまうのではないかと恐れ、「覚えていないでしょ?」という婦人の言葉に、「忘れるわけがない」と返したのだ。



「小島さん、本当に助かったわ。起こしてくれて」


 言いながら、ウチは移動教室のための準備を始める。


「本当はさ、竹久君に起こしてもらいたかったんだろうけどさ。今日は日直で先に行かなきゃならなかったみたいだしね」


 小島さんが少しうれしそうに言う。


「――え、なんでそこで竹久が?」


「だって笹葉さん。居眠りをしながら寝言で竹久君の名前を何度もつぶやいていたから」


 一瞬顔面が蒼白になり、次の瞬間には紅潮してしまった。


「お、お願い……そのことはもう……忘れて……」


「ふふん。わすれなーい」


 小島さんははにかみながら言った。

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