第二話 前半 『煮売り屋のお寅』

 さてさて、「花のお江戸は八百八町」とか申します。

これはその広い広いお江戸の一角にある小さなお稲荷さんのはなしでございます。

この稲荷、正式には「花房山稲荷神社」と申しましたが、誰もそんな名じゃぁ呼んだりいたしません。

なんでもかんでも願いがよく叶うってぇんで「叶え稲荷」と呼ばれておりました。


 ◇ ◇ ◇


 「お客にだって、そりゃいろいろな事情があるだろうさ……。」


 弁天様のごとき笑みを浮かべてオサキ様はそう言った。

オサキ様は、この「花房山稲荷神社」の稲荷神の使役キツネである管狐くだぎつねの元締めである。

今日も後ろ姿は裕福な町屋のちょいとばかり小太りで粋な女将さんだが、前から見ると顔はキツネというオサキ様のお気に入りの姿である。


 「いいかい、お前たち。

……大事なことはね、お客の声に真摯に!

あくまで真摯に、こと。

聞きにくいことでも耳を伏せるんじゃないよ。」


 それから目の奥に閻魔さんの炎を宿らせて続けた。


 「とは言っても、聞くだけ聞いたらさっさと右から左だ。

間違っても耳にも頭にも残しとくんじゃないよ。

同情なんてもってのほか!

この仕事に同情なんてもんは、不要。

わかるね?

ちよっと同情したばっかりに相手の土俵に引きずり込まれてごらん、にっちもさっにもいかなくなるからね。」


 オサキ様は威勢よくそういい放つと、黒繻子の帯をぽんと叩いて話を締めくくった。


 ――同情ねぇ。


 確かに、この商売のかたきはこいつだ。

今まで何匹の管狐くだぎつねがそれで身を滅ぼしたか。

ワシら取立て屋の管狐くだぎつねは、役目が果たせないと役立たずとして消されてしまう。

それこそ、オサキ様の指先ひとつだ。


 先だっても、管狐くだぎつね仲間の狐次こんじが若い娘にほだされてなんとその娘と駆け落ち、なんてことをしでかした。

その娘はある時は涙を浮かべ、ある時は袖に縋りつき、自分がいかに大変なのかを訴えて狐次こんじの同情を引いたのだ。 


 それは悪魔のささやきも似て、巧みに狐次こんじの心の中に入り込み涙を誘って、挙げ句に奴の心までさらっちまった。


 「そうですか。

そういうことなら仕方ない。

わかりやした。

返済を待ちやしょう。

ええ、大丈夫ですよ。

オイラがなんとかいたしやしょう。」

 なんて言いだしたら、もうおしまいだ。


 そんな時に限って狐次こんじ以外のワシらには見えてしまうのだ。

娘のにやりとした狡猾な笑みを。唇からチロリと除く蛇の舌先を。

そして、ワシらの忠告は狐次こんじの耳には入らないときてる。


 ――ああ、そうだ。


 ワシも今回は気を付けないといけない。

今回のお客は、おとら婆さん。

岡場所あがりのり手ババ…いやいや、商売上手だ。

今は「花房山稲荷」の近くに小さな煮売り屋「久や」をやっている。

この稲荷の上得意、まぁ昔からそれはそれはよくお参りに来ては願い事をして帰る。

そして今に至るまで「恩を返し」に稲荷にやって来た事はない。


 このおとらという婆…いや、女。

品川の飯盛女をしていた十八のときに小間物屋の若旦那に見初められて、身請けされ、小さな屋台を持ったところを皮切りにトン、トトトンのトントン拍子。

ちょっと奥さん、そりゃ双六かぃ?と聞きたくなるほど登り拍子の人生だったのだ。


 巧みな話術と迫真の演技、相手に寄り添う手口と思わせ振りな流し目で、こいつは吉原の太夫でも張れたんじゃないかという口説き上手。

いつの間にやらおとらの芝居に引きずりこまれて、結局相手の思う壺。

手の内が分かっていてもなお、気づくと彼女に肩入れしそうになる。


 男が変わる度に切り盛りする店は大きくなり、一番大きいときは両国近くに二階建ての大料亭を切り盛りしていたそうだ。

それが最後に引いた男がどうも疫病神だったらしく、あれよあれよといううちに零落れいらくし、元の屋台に戻ってしまった。

ある時その屋台も旦那の借金のカタに取られて、「叶え稲荷」に泣きついてきたのだ。


 さすがの稲荷媛神様もオサキ様もこれには渋った。

しかしおとらの願い事を叶えてやれなかった稲荷媛神様は強くは出られなかった。

とらは稲荷の「めぐみ」をもぎ取った。

その後おとらは長屋の一角で「久や」という煮売り屋を始めたってぇわけだ。


 何度か取り立て屋の管狐くだぎつねがお寅の元を訪れたが「恩」を回収できたキツネはいなかった。

こうしてワシのところにお鉢が回ってきたわけだが、とてもじゃないがうまくやれる気はしねえ。


 「はあぁぁぁぁぁ。」


 ――行きたくねぇなぁ。

 

 かくしてワシは憂鬱と尻尾をずるずると引きずりながら、おとら婆さんのもとに足を運ぶのだった。

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