チーズとランドセル

宿木 柊花

隣の席のチーズ

 それを見た瞬間。


 牧野まきののランドセルは手中を離れ、床に叩きつけられた衝撃で中身を盛大にぶちまけた。

 教科書はカーペットのように広がり、放り出された筆箱は鉛筆を吐き出し、消ゴムに至っては勢いそのままに弾けてどこかへ行ってしまった。


 慌てて片付ける牧野の脳裏にはあの光景が焼き付いている。

 すぐ泳ごうとする視線を律し、牧野はもう一度、今度はゆっくりとそれを見る。


 隣の席にがいる。


 国民的人気のあんパンヒーローに出てくるではなく、古い外国の映画やガラクタのお城が二足歩行しているアニメ映画にありそうながそこにある。


 しかも切られていない状態で。

 丸いまま。

 ドーン、と。


 ブラッドオレンジのような放課後の教室。

 机の上に取り残されたランドセルはなく、【忘れ物確認】という日直の仕事を終えた牧野が最後の一人となる。

 ロッカーにもベランダにもカーテン裏にも人の気配はない。

 施錠の確認も終えている。

 校庭ではサッカークラブの無駄に元気な声がこだまする。

 卒業式を見送った桜は入学式を迎える前に散り絶え、今は道をベットリと彩っている。

 空は茜色。

 カラスも帰っていく。

 これが夕焼けと理解できるまでは、空が燃えていると思いカーテンを閉めてベッドに潜り込んだのを覚えている。

 見えなくなってしまえば、なぜかそれは遠い場所の今いる世界とは隔絶された別世界の出来事に思えたんだ。


 それも遠い記憶にすぎない。


「さて、帰るか」

 床に居座ったままのランドセルを持つ。

 隣を見ないようにそのまま教室を出てしまえばいい。

 机をジグザグに走り抜け最短距離での脱出に成功した。





 ◇

 牧野の手には大きなビニール袋が握られている。ランドセルには廊下で待っていてもらう。

 完全犯罪は身軽の方がいい。

 ホコリの舞う音すら聞こえそうな教室で牧野はゆっくりと袋を広げる。


 ガサッ。


「……っ」


 聴覚が飛び上がり、周囲を観察する。

 不気味なほどの静けさと冷ややかな空気だけが流れる。

 体の石化が解け、縮こまった肺を無理やり広げるように大きく吸い込む。

 脳に酸素が染みる。


 ━━手早てばやく、素早すばやく。

 喉がゴクリと鳴く。


 ビニール袋は穴を開ければ雨ガッパになりそうな大きさがあった。給食室からもらってきた袋だ。

 ランドセルより一回り大きいチーズを入れるにはこれくらいは必要だろう。


 近くで見るとそれは黄色に近いオレンジ色で四角く薄く切り抜けばハンバーガーに入っていそうでもあった。表面はとても滑らかで思うほど光沢はない。

 香りは知っているチーズとは少し違う気がする。


「やっぱり伊崎いさきさんの忘れ物とは思えないし、一応預かってもらおう」


 慎重にチーズと机の隙間へビニール袋を合わせる。ゆっくりと左右に引きながらチーズを袋に収めていく。

 心臓は行進の足音みたく高鳴り、集中力が研ぎ澄まされていく。


 完全に入った時、問題が浮上した。

 重いのだ。

 発育が良いといっても牧野もまだ小学生。工夫を凝らして袋に入れることに成功しても密度のあるチーズを持ち上げることは不可能。


「牧野さん私の席で何してるの?」


 いるはずもないと思っていた相手の登場に牧野の心臓は止まる。それと同時に脳は高速回転をはじめる。

 思考が加速する。


 ━━問題は伊崎さんに見せるか否か。


 突如として自分の机上に見知らぬチーズが置かれている。

 小学生女子としてどう思うだろうか?

 男子としては食べてみる、という選択も無きにしもあらずだが、女子は……?

 泣かれたらどうする。この状況では誤解を生む可能性もある。


 牧野はビニール袋の上に、寒くなったら着るようにと母さんに持たされたシャツを掛けた。

 そう隠したんだ。


「ああ日直だったから席を整えていたんだよ。伊崎さんはまだ帰らないの?」


「ん? 帰るよ。ランドセル取り来た」


「そうなんだ……ランドセルないからもうみんな帰ったんだと思った」


「そ?」


 伊崎さんがズンズンと迫ってくる。

 どうしよう。

 牧野の後ろ手の下にはチーズがある。

 時間がない。

 整列した机を迂回しながらゆっくり来ているはずの伊崎さんは一直線に歩んでくるような気がする。

 ゆっくりと踏み潰されるような圧が牧野にのし掛かる。


 伊崎さんの手が被せられたシャツに掛かる。

 もう終わりだ。

 どうする。


 ━━どう誤魔化す!


「ね? ちゃんとあるじゃない」

 恐る恐る振り返る牧野の目にランドセルを立てる伊崎さんが映る。何の変哲もない見飽きたランドセルの形に魂一つ分落とした気分になった。


 シャツの下には当たり前のようにランドセルがあった。

 チーズはどこにもなかった。


「意外だね。牧野さんもこういう悪戯いたずらするんだ」

 クスクスと小さく笑う伊崎さんのランドセルは甘いキャラメル色だった。


「遅くなっちゃったから早く帰らなきゃ。また明日ね牧野さん」


「うんまた。あ、伊崎さんチーズ好き?」


「え? チーズはどちらかと言えば苦手かな」


 じゃあね。とだけ残してパタパタと上履きの音が遠ざかっていった。


「どこ行ったんだろう?」


 手に残る質感、腕に残る疲労感、まだ鼻腔に残る香り、どれも幻覚とするには生々しいものだった。

 校庭からの声は消え、空は燃え尽きたように夜を引っ張り込んでいる。


「ヤバ!」


 慌てて牧野はのランドセルを引ったくるようにして教室から飛び出した。

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