8.リリアンの居ない五日間①


「嫌だ」


 アルベルトは何一つ取り繕う事なく、それだけを言った。


「そんな事言わずに。協力してくれてもいいだろう?」


 それに対するのは国王のグレンリヒトである。弟に対して決して甘い人物ではない彼が、アルベルトに対してやや腰を低くして宥めすかしている。


「嫌だ」

「そこをなんとか」

「嫌だ」


 場所は王城、朝議に無理矢理参加させられているアルベルトは、王の思惑なんぞ知った事かとそっぽを向いて、何に対しても「嫌だ」とだけを返している。

 なぜこんな事になっているかというと、事は今朝、朝食後の一時に遡る。



 リリアンとの素晴らしい朝食を堪能した後、アルベルトは執務室で新聞を広げていた。遠く離れた地域や他国の情勢、王国の政策なんかの情報をいち早く入手できる新聞は重要な情報源だ。その利便性を利用して、金で偽りの内容を載せるような事もあったが、その辺りは裏付けが取れているようであれば信用できる。ただそれは、裏付けが取れるような情報は、いちいち新聞で見る必要はないということにもなる。貴族が新聞で何を確認するかと言うと、「どんな情報が載っているか」である。その新聞社が、どんな記事を採用したのか。その記事は誰が載せるように裏で手を引いたのか。それが分かれば、その「誰か」の思惑が分かるのだ。

 この日は大した情報は無かった。この時期は大体、新年の仕事始めのことでいっぱいになる。自領の事でさえ割りとどうでもいいと思っているアルベルトとしては、どこで何が始まろうと興味が湧かない。ただ、リリアンの不利益になりそうな事柄があったのなら芽を摘む必要があるから、隅から隅まで目を通すのが日課となっていた。ぱらぱらと記事を眺めていると、つい最近聞いたような名前が目に入った。


『国内を騒がせた盗賊〝インビジブル〟、トールゲンの使者への引き渡し中に、ゲブラアース王国とトールゲン王国との国境地点で逃亡!』


 トールゲンは、〝インビジブル〟が指名手配された為に逃げ出した国の名である。その南東がゲブラアース、ここトゥイリアースはゲブラアースの更に東に位置する。トゥイリアースから見ると、ゲブラアースを挟んだ向こうがトールゲンだ。ゲブラアースの北方を覆うように伸びるトールゲンへは、一番近い関所であればトゥイリアースの王都から馬車で一ヶ月ほどで辿り着く。年末から護送を始めたと聞いていたから、少し早いが到着したのだろう。


「『賊はゲブラアースを縦断、港へ向かったと思われる。すでに当国より引き渡された後である為、今後はゲブラアースとトールゲンとで捜索がなされるようである』……ふうん?」


 アルベルトは見出しからそこまでを読んで、くいっと眉を上げた。


「嫌な予感がする」


 と、そこでコンコンと扉を叩く音がした。


「アルベルト様。城から使いが来ています」


 ベンジャミンの声だ。その内容に、アルベルトは上げた眉をきゅっと寄せて、盛大に舌打ちをした。



 城からの使者は王の使いであった。王は顔を合わせたら開口一番、「新聞読んだか?」に始まり、アルベルトの危惧した通り件の盗賊に関して協力して欲しい、と言うのだ。ぎゅむっと眉間に皺が寄ったのは言うまでもない。


「隣国ゲブラアースから、その向こうのトールゲンへ。捕まえたのがうちだからな、引き渡しにも立ち会う事になったのだが……あの賊めら、どうやってか隙を突いて捕縛を抜け出したそうだ」


 王はそう言うと、側に控えていた男を振り返る。

 そもそも、同行したレイナードと共に問答無用で朝議の場に引っ張り込まれて、それでさえ顔を顰めたというのに、この男が居たのがもっと嫌だったのだ。アルベルトのご機嫌は完全に斜めに曲がり切っている。

 男は王の視線を受けると一歩踏み出し、ガバッと勢いよく、九十度に腰を折った。


「もぉーーーし訳ッ!! ございませんッ!!」


 そして飛び出したのが、衝撃波に近い、馬鹿でかい声での謝罪であった。


「アルベルト様にはッ! なんッとお詫びをすればよいかァーーッ!!」


 びりびりと窓ガラスが揺れて、朝議に参加している者は皆耳を塞いでいる。


「うるさっ」


 アルベルトも勿論同じように耳を手で覆っている。

 肩幅があり胸板も厚く、筋骨隆々で声の大きいこの男。ガードマン・ハウリングと言い、第二騎士団の副団長を務めている。第二騎士団は王城警備の他、罪人を捕らえておく牢の監視も管轄となっているので、なにかと騒ぎに巻き込まれるアルベルトは面識があった。グレンリヒトやベンジャミンに言わせると「巻き込まれているのではなく、騒ぎを起こしているからだ」とのことなのだが、アルベルトは全く認めていない。

 ともかくガードマンはきっちりと腰を折った姿勢のまま叫び続けていた。


「ゲブラアースより要請を受けッ! 同行したのですがァッ、トールゲンへの引き渡しの際ッ、どういう訳だか連中の捕縛が外れていたのですッ!」


 ますます声を大きくしてガードマンは続けた。


「気が付いた時には時すでに遅しッ!! 逃亡を許してしまったのですゥーーッ!!!」


 唾がはちゃめちゃに飛んでいる。アルベルトはそれを、弱い風を出すことで防いだ。外側へ向けるように設定した風は、全方向に唾を弾き飛ばす。そのせいで周りにいた者に唾が飛ぶことになり、被害に遭った誰もが「うわぁ」と悲しげに声を漏らした。アルベルトはもう、目も閉じて我関せずの姿勢である。

 空気に波動の波紋が残っている、気がする。そのくらいの余韻があった。一同、余韻が終わったのを充分に確認した後、そろそろと耳を覆っていた手を下ろした。


「誠に申し訳ございませェーーーーん!!!」


 からの、最高潮の絶叫による謝罪である。間一髪耳を塞ぐのに間に合った者は良かったが、まともに咆哮を受けてしまった者はくらりと倒れてしまった。アルベルトはこの男の前では常に耳を塞いでいるので、なんともなかった。


「喧しい男だな相変わらず」


 ちっ、と盛大に舌打ちをして睨み付ける。が、ガードマンには通用しない。


「もぉし訳ッ!」

「静かにしてくれ」


 いい加減物理的に耳が痛くなってくるので、声を落とすように言ったけれども、どれだけ実行してくれるかは曖昧である。やれやれ、とアルベルトが肩を竦めていると、衝撃波から復帰した王がアルベルトに向き直る。


「詳しくは調査中だ。どうやら何者かの手引きがあったとか無かったとか……ともかくすでにうちからは引き渡されているから、トールゲンとしてはうちには責任の追求はしないそうだ」

「そうか」

「ただ、国内の警備の強化はする。〝インビジブル〟の連中がうちに居ないとも限らないからな」

「ふうん」


 詳細を聞かされてもなんのこっちゃ、である。だから何、としか言いようがない。

 王は、それでな、と話を続ける。


「強化の一環として演習をする予定なんだ」

「ほう。年明け早々ご苦労な事だ」


 興味関心がまったく無いアルベルトに、王はにこりと笑い掛けて言った。


「お前、暇だろ。協力してくれないか」

「嫌だ」




 ——そして現在これである。もはや朝議どころでは無くなってしまった。宰相が、そわそわとしていた貴族に退出を促す。彼らは時間通りに職場に着かないと、今日の業務に差し支えるのだ。業務が滞れば国政が滞る。そうなっては困る。今のうちだと言わんばかりにこぞって退出した者達を残し、約三分の一が王とアルベルトのやり取りを見守っている。


「いやあ、丁度監督出来そうな立場の奴が居なくてな」

「知らん。嫌だ」

「そんな事言わずに。協力してくれてもいいだろう?」

「嫌だ」

「そこをなんとか」

「嫌だ」


 グレンリヒトはやや腰を低くして、アルベルトを宥めすかしている。対するアルベルトの方は鉄壁の構えだ。決して折れぬという、強い意志をもって、王からの依頼をきっぱり断っている。


「名目は騎士団の強化と、周辺の魔物調査と討伐だ。実際の指揮はこのハウリングが執る。それに魔導士を同行させたいんだ、だからお前が適任で」

「嫌だ」

「魔導士の所属は魔法天文台まほうてんもんだい、そこの総帥はお前だろう。お前は見てるだけでいいから。な?」

「嫌だ」

「場所はちょっと離れた所がいいから、五日くらい見て……」

「ぜっっっっったいに嫌だ」

「そこをなんとかッ! お頼みもぉぉぉぉぉすッ!!」

「うるさい! 嫌だ!」


 途中、ガードマンもそれに加わるが、アルベルトが頷くことはなかった。腕を組んで、グレンリヒトの居る側とは逆の方へ顔を背け、ツーンと顎を上げている。

 こうなると手強い。それを知っているレイナードは、こっそり宰相と視線を合わせた。宰相は表情が死んでいた。「早く終わるといいなあ」、そんな投げ槍な思いが見て取れる。

 まあまあそう言わず、と宥める王と、聞く耳を持たないアルベルト。そんなアルベルトの姿にこめかみをぴくぴくさせているのが、この場に残ったシュナイダー・アズール公爵であった。

 そもそもがつく程真面目であるシュナイダーは、ちゃらんぽらんなアルベルトのことが気に入らないのである。そのくせ頭だけは良くて、なまじ才能があるものだから、次から次へと画期的なものを開発したり改良したりして国内を騒がせる。それが国の為ではなく娘の為でしかないと言うのだからますますシュナイダーは眉を吊り上げる。才能は認めよう、動機もわからないでもない。だがしかし、不真面目なその態度だけはどうにも受け入れられない。シュナイダーは真面目過ぎる男なのである。


「貴様ぁ! たまにはきちんと仕事をしたらどうだ!!」


 故に、こうして叫んでしまうのは仕方のないことであった。

 アルベルトは即座にその言葉に応じる。


「してるだろうが! 賊を捕まえたのは誰だと思っている!」

「まあ、殺しかけましたけどね」


 ぼそりとアルベルトの言葉に続けたのはレイナードである。それに応じる者は居なかったけれど。

 というか、〝インビジブル〟の追跡と捕縛は別にアルベルトの仕事ではない。魔法天文台は研究機関であり、魔法の使える者達が集い、日夜研究に明け暮れている組織だ。目的は魔法の原理の解明だとか、魔力を含んだ鉱石、『魔石』を利用しての魔導具の開発である。その中で、ごく一部の魔導士が騎士団に出向しているだけ。

 基本的に魔導士は武力として換算した場合、通常の体を鍛えた兵士よりも何倍も強い。なぜならば、超常現象を起こせるからである。魔力差や技術による個人差はあるものの、二十人三十人の兵では魔導士一人には敵わない。もっとも、魔法も万能というわけではない。発動するのに時間がかかるから、魔導士が魔法を使うまでの時間稼ぎとして兵士の力が必要になるのだが。

 名目上ではあるが、そういう魔導士達を束ねる立場であるのがアルベルトだ。盗賊の追跡、という業務は含まれていないのである。

 広い範囲で言えば、騎士団に出向している魔導士の最終的な管理者というのはアルベルトになるから、出向している彼らの業務の一環であるならば含まれるかもしれない。だが、魔導士の使う魔法は規模が大きく、街中で使われるのは戦時中くらいのもの。それ以外だと魔物相手だろうか。いずれにせよ、今回魔導士の業務には含まれないだろう。

 ただ、それを突いたところでアルベルトの考えを動かせるわけではない。グレンリヒトが依頼を持ち掛けるのは、「魔導士の管理者がアルベルトである」という事と「現場監督に相応しい爵位持ちがいない」という為である。アルベルト一人がうんと言えばそれで済む話だ。だからこうして、朝議の時間を割いているのである。

 はあ、とグレンリヒトはため息を吐いた。


「お前一人が行けば済む話なんだ。受けてくれたっていいだろう、他に仕事があるわけでもなし」

「嫌だ、断る」


 グレンリヒトは首を傾げた。


「なんでそんなに嫌がる?」


 その言葉に、アルベルトはぶちりと何かが弾けた気がした。思いっきり息を吸い込む。


「なんでだと!? リリアンに会えないからだろうが! 五日もだぞ!?」


 信じられないという思いでアルベルトは叫ぶ。


「五日! その間一切声を聞けない! おはようもおやすみもだ! いただきますもごちそうさまも!! あの天使の囁きが聞けないだなんて気が狂う! それだけでも耐え難いというのに、麗しいリリアンの姿を五日! 五日も見られない!! 誰が行くかそんなもん、訓練なら勝手にやればいいだろう! 私は知らん!!」


 しん、と静まり返る室内。


「まぁたそれかアルベルトぉーーー!!」

「それ以外に何があるというんだ阿呆ォーーー!!」


 シュナイダーの怒号が飛ぶが、アルベルトも負けていない。


「リリアンのこと以上に重要なものがあると思うのか!?」

「あるだろうがァ! 貴様、国をなんだと思っている!!」

「私にとって大事なのは国よりリリアンだ! 知ったことか!」

「くそぉ! こいつはそういう奴だった、そうだった!」

「ハッ、ようやく思い出したかねシュナイダー君。私が国よりリリアンを優先する男だという事に!」

「ええい、そんなことで威張るな馬鹿者!!」


 これが国政に関わる高位の爵位持ち、それも当主同士の会話だろうか。しかし、残念ながら見慣れた光景だったので、一同「まーた始まった」と半目でそれを見守る。

 いつもなら、アルベルトの方がまだ冷静な状態でシュナイダーをからかっているのだが、今は両者共に頭に血が昇っている。このままではいつ終わるか分からない。グレンリヒトは深く息を吐いて、俯いてしまった。レイナードも半目で糾弾し合う二人を眺めている。片方が肉親ということもあって少し肩身が狭い。


「少しくらい協力しようとは思わんのか!」

「思わないな! 逆に聞くが、お前は五日も娘と離れ離れになってもなんともないと言うのか!?」

「んぐぅ……! な、んともない、わけ、ではないが……!」

「ほーれ言わんこっちゃない! そうだろうが!」

「ぬぐぐぐ……!」


 それを見ていたガードマンは、ぽつりと思ったままのことを呟いた。その呟きは普通にでかい声だったので、全員の耳に届く。


「相変わらずお二人は仲がよろしいですなぁ!」

「うるさい!!」

「関係なかろう、そんな事は!」


 アルベルトは一喝し、シュナイダーは心外である、と叫ぶ。ガードマンはその勢いに押され、ちょっと引いた。

 だいたい五分くらいそうやって罵り合っていたのだが、その言葉を最後に、アルベルトは急に何かに気付いた素振りを見せた。そして左胸のポケットから時計を取り出す。


「——むっ。もうこんな時間か。リリアンとのお茶の時間だ。これで失礼させて貰う」


 普段そんなことしないし、なんなら全員から見やすい位置には大きな時計が置かれている。芝居だということはバレバレだった。けれども先程までのアズール公爵とのやり取りでうんざりしていた一同は、それを見送るしかなかった。アルベルトは誰にも止められず、その場を後にする。

 ぱたん、と扉が閉じて、真っ先にため息を吐いたのは誰だったろう。むしろ全員のそれが重なって、とてつもなく重いものになった。


「なんだあいつは……」

「何なんだあやつは……」

「父が、すみません」


 最初の呟きはグレンリヒトのもの、その次はシュナイダーのもの。それを受けてレイナードは正直な意見を述べた。もう、これ以上言い様がないくらい、心の声そのままである。

 まあいい、とグレンリヒトは首を振った。


「あれが、そう簡単に扱えるとは思っていなかったからな。しかしどうしたものか……聞く耳も持たんとは」


 分かっていた事でしょう、という声は宰相のものだ。


「国の為、というのはあの方の動機にはなり得ません。そうでしょう、レイナード殿」


 レイナードは呼ばれて、間髪入れずに「はい」と答えた。

 もしかしたらもしかするかも、という一同の期待は外れてしまった。先程までの喧騒が嘘のように静まり返る。


「陛下ァ! 如何なさいますかッ!!」

「うおっ」


 それを破ったのはガードマン・ハウリングである。大人しく議論の行く末を見守っていたのだが、アルベルトがうんと言わなかったのだから、演習そのものがどうなるかわからなくなってしまった。それで沈黙を破ったのだろう。グレンリヒトは突然のボリュームに驚いて目を白黒させる。だがそこは一国の王、すぐに復帰して、手を考えよう、と述べた。

 だが、誰も、何も言えない。城に居た者の中で唯一アルベルトに命令できる立場である王の願いも聞き入れなかったのだ。それ以外の官吏が何を言ったところで頷かないだろう。アルベルトには、城内での職務というものが無い。どこにも属していないのだから、どこかの大臣が何を言っても無駄だ。そもそもその頂点と言える王の言葉を拒否したから、社会的立場でものを言える人間はもう居なかった。

 となれば、あとは家族から話をして貰うしかないだろう。

 誰もがそう思っていたので、自然全員の視線はレイナードに集まった。レイナードは、ふう、と息を吐いて呟く。


「そういう理由で、僕までここに呼ばれた訳ですね」

「すまんな、レイナード」

「いえ、構いません」


 伯父であるグレンリヒトに一言返し、レイナードはふむ、と考える。

 アルベルトの事だから、この件に関してはもう話を聞こうともしないだろう。普通に言って聞かせる段階はとうに過ぎてしまっている。

 であれば、あとはもう、アルベルトの「動機」を、この演習に置き換えるしかない。眉間に皺を寄せて少し思案していたレイナードだったが、ふと妙案が浮かんだ。グレンリヒトも宰相達も、そしてレイナードも幸せになれる一手である。

 レイナードは顔を上げて、グレンリヒトに向いた。


「とりあえず、父上は参加の方向で調整を進めて下さい。こちらで説得します」

「そうか、助かる」

「いいえ。ですが陛下、その代わり……」


 そうしてレイナードは一つの提案をする。王は少し考えた上で、宰相に指示を出すと、レイナードの提案を全面的に受け入れたのだった。



◆◆◆



 翌日の朝、アルベルトはいつも通りに居間へ向かった。

 アルベルトはうきうきである。今日も朝から、美しいリリアンを拝むことができるからだ。本日のリリアンも実に麗しい。先程チラ見した時には薄桃色のふんわりしたドレスだった、とても愛らしい。そんなリリアンに、「お父様、おはようございます」と笑顔で言われると、一日頑張るだけの気力が溢れてくるのだ。朝のリリアンの笑顔は健康に良いと、アルベルトはそう思っている。

 そんな訳でにこにこして居間に入ったアルベルトを迎えたのは、リリアンの笑顔だ。


「お父様!」


 花開くようなその笑顔は、アルベルトの心を満たしてくれる。更に笑みを深めたアルベルトが歩み寄った、その時だった。リリアンががたりと席を立って、アルベルトの元に向かってくる。


「聞きましたわ! 今日から合同演習があって、そちらに参加されるとか」

「えっ」

「えっ?」


 ビタッと動きを止めるアルベルトに、リリアンは首を傾げた。


「あ、ああ、いや」

「魔法天文台の総帥としてのお仕事だそうですね。さすがですわ! 昨日の今日で出発だなんて、調整が大変でしたでしょう?」


 ——待て、リリアン。なんの話をしている?

 そんな言葉は声にならなかった。焦っているのをリリアンに悟られないよう、冷静を装う。


「そ、そうだな。まあでも、部下に指示をするくらいだから」

「それでもです。それに、地域住民の安全の為と言うじゃありませんか。素晴らしいです、さすがお父様だわ」


 褒められて嬉しいことは嬉しい。ただ、預かり知らぬことであるので、素直に喜べない。


(どうしよう……参加しないだなんて言えない……)


 アルベルトは背中に冷や汗をかきながら、とにかくリリアンの期待を裏切らないよう、振る舞うしかなかった。

 リリアンはそんなアルベルトに気付くことなく、小首を傾げる。


「ですが本当に急ですわね。昨夜のうちに教えて下さってもいいのに」

「すまない、リリアン。皆がどうしてもと言うものだから、その、調整の確認に手間取って」

「まあ! お父様が手間取るほどの規模なんですね……!」

「え。あ、う、うん。まあ、そうだな」

「凄いです。それを纏めあげるだなんて……。やはり、ヴァーミリオンの当主ともあらば、こうでなくてはいけませんのね」


 ほぅ、と頬に手を添えるリリアンは、尊敬の眼差しでアルベルトを見つめる。実際には、何もしていないし状況が掴みきれずにいるので、アルベルトはとにかく居心地が悪かった。なんでだか、リリアンを騙している気がしてならない。

 そこへ、廊下からベンジャミンを伴ったレイナードがやって来た。二人はやや大股で、アルベルトの元へやって来る。


「父上、準備が整ったそうです」


 アルベルトは息子の言葉にそちらを向いた。レイナードもその後ろのベンジャミンも、実ににこやかである。

 いつになく清々しい表情のベンジャミンが恭しく一礼をした。


「いやはや、さすがは旦那様でございます。的確な指示を頂けましたので、滞りなく進められました。いつでも出発できるそうですよ」

「は」


 ひくっ、とアルベルトは頬が引き攣ったのがわかった。何の事だ、という言葉を必死で押さえ込む。ベンジャミンの反対側では、リリアンが羨望の眼差しを向けている。これを翳らせるのは、アルベルトにはとてもではないが出来ない。

 そうしていると、がしゃがしゃという音が扉の方からしてきた。やって来たのは二人の騎士、彼らは王城から来た者達ではない。王城から来た騎士が、公爵家の居間にずかずかと入り込んで来るはずがないから当然である。

 彼らはヴァーミリオン家が所有している騎士団に所属する騎士だ。ただその実、彼らの主な職務は護衛だった。彼らは交代でヴァーミリオン家の家人を護衛するが、実際のところ護衛を不要とするアルベルトとレイナードに付く事は少ない。もっぱらリリアン専用の護衛である。

 その彼らが、武装した状態で居間にやって来る。どういう事なのかと、アルベルトはちょっぴり眉を寄せた。騎士の二人は間際までやって来ると、そこに跪く。


「万事整いましてございます。後は号令のみ。旦那様、ご指示を」


 どういう事なのか分からなくて、思わずアルベルトはレイナードに視線を向けた。

 レイナードと目が合う。すると息子は、普段からは考えられないようなにんまりとした笑顔を向けてきた。口元は三日月のよう、目は面白いものを見る目であった。そうしてその三日月から発せられた言葉に、アルベルトは目を見開く。


「父上、お気を付けて」


 その一言で悟った。


「お前……!」


 レイナードに嵌められたのである。



 行ってらっしゃいまし、とリリアンの声援を受けて、さも当然のような顔をして粛々とアルベルトは屋敷を出発した。第二騎士団は既に王城を発っているらしい。郊外で合流することになっていると聞いた。

 それにしても、してやられたなとアルベルトは歯を食いしばる。よもやレイナードがこんな手を使うとは思っていなかった。まさかリリアンにさも決まっていると話をしてアルベルトの退路を断ち、裏では準備を進めておき、出発せざるを得ない状況に追い込むなんて。

 ただそれに、リリアンを巻き込むのが、なんともレイナードらしくない。ベンジャミンの差し金か、はたまたグレンリヒトの思い付きか。そう言えば、昨日は使者に呼ばれレイナードと共に王城へ向かった。アルベルトは先に退室したが、その後レイナードに何かしら言い含めたのかも知れない。そのせいでこんな目に遭うとはなんたる不覚だと、アルベルトはぎりぎりと歯を鳴らす。隙を見て帰ってやろうとそのように考えている。なにしろこの演習は、五日間の予定なのだ。五日もリリアンと離れるなど、アルベルトには考えられない。

 だが、それには後ろの二人はいささか邪魔である。アルベルトはちらりと後ろを振り返った。


「お前らはなんで付いて来てる?」


 アルベルトの乗る馬の後ろ、付き従うのはヴァーミリオン家が抱えている騎士団の騎士だ。小柄な方がデリックで、やや品性に欠けるところがあるが、頭が良く回り神経が図太い。肝も据わっているから、例えアルベルト相手でもずけずけと物を言う。その反対の、大きく朴訥ぼくとつとした方がボーマン。無口だが面倒見が良く、意外と俊敏である。一言多いデリックを抑えるところがあり、見た目のアンバランスさはともかく良いコンビである。

 デリックもボーマンも、普段はリリアンの護衛が業務である。できることなら過剰になるくらい護衛を付けたいアルベルトであるが、肝心のリリアンは大袈裟に守られるのを好まない。ぞろぞろと引き連れて歩くのが嫌だそうなので、少数精鋭が基本となっている。アルベルトがリリアン付きとなることを認めているのだから、この二人の腕は確かだ。ただ、それをアルベルトに付けようものなら戦力過剰である。公爵当主に生半可な護衛を付けるわけにはいかないだろうが、アルベルトに限ってはそれは不要と言える。アルベルト自身が護衛の何倍も強いのだから当然であろう。だから護衛にするなら、形だけでいいのだ。王城の第二騎士団の人員から少し割いてもらうくらいで良いくらいである。

 デリックは、アルベルトの言葉に「あれ?」と首を捻った。


「旦那様、聞いてないんすか? 俺らが旦那様の護衛に付く代わり、レイナード坊ちゃんがリリアン様の護衛をされるそうで」

「……何?」


 馬の上で、アルベルトはがばりとデリックを振り返る。


「どういう事だ」

「どうもこうも、そういう話でしたんで。坊ちゃんはその為に五日間、休みを取ったそうですよ」

「はぁ!? 聞いてないぞそんなこと!!」


 どうしてそんな事になっているのかと思って、アルベルトははたりととある事に気付く。

 そうだ。居間で見た時も、そして見送りの時も、レイナードはいつになくにやけていた。


「あいつ……!!」


 ようやく分かった。レイナードがリリアンを巻き込んだ理由が。

 つまりレイナードは五日間ずっとリリアンの傍に居る為に、リリアンを巻き込んで今回のことを計画したのだ。

 デリックとボーマンをリリアンの護衛から外し、アルベルトに付けたのはアルベルトの逃亡防止のため、それとレイナードがリリアンの傍に居ないといけない理由にするため。

 朝議の場には王も宰相も、各部署の大臣も居た。レイナードは王太子マクスウェルの補佐官である。それが急に休もうとすれば、どうしたって調整が必要になる。レイナードが五日間抜けるのにその場で打診ができただろう。アルベルトを演習に参加させるのに必要だと言われれば、きっとその交渉も容易だったはず。王も宰相も大臣も、そしてレイナードも、誰もが幸せになれる一手である。唯一アルベルトを除けば、であるが。


「帰る!!!」


 アルベルトは叫び、馬の手綱を引くが、デリックとボーマンに両側から囲まれてしまう。どうどう、とデリックは、馬ではなくアルベルトを宥めている。まったくもって不敬である。誰も気にしていないが。


「旦那様、それは無理っすわ。大人しく行きましょ。ほら、リリアン様がああしてお見送りして下さったんですし」

「うるさい! そのリリアンと五日も会えないんだぞ! 帰る!!」

「まあまあ。しっかりこなせば、きっとリリアン様が褒めて下さいますよ」

「喧しい、お前にリリアンの何がわかる!?」

「いやーわかんないっすわ、でも旦那様ならわかりますでしょ?」

「なにが」

「リリアン様が、どんな旦那様なら褒めてくれるか、っすよ」

「リリアンが……」


 ——リリアンが褒める? あの子はどんな人物なら褒める?

 リリアンは、実に貴族然としたしっかりした令嬢である。責任感が強く、己の役割を果たすことに誇りを持っている。

 そんなリリアンが、無責任に役割を放棄し帰宅する父を、褒めるだろうか?


「ぬぐぅ……」


 ぎちぎちと歯を鳴らすアルベルトに、デリックはうんうん、と首を縦に振った。


「お解り頂けたようで」

「ぐぬうっ!」


 デリックもボーマンも、ヴァーミリオン家に仕えている事に間違いはない。そしてヴァーミリオンに関わる全ての者はアルベルトを筆頭に、いわばリリアン至上主義である。

 出発前、二人はそっと近付いてくるリリアンに言われたのだ、「お父様を、お願いね」と。

 そう言われてしまっては、手を抜くわけにはいかなかった。二人はそっと視線を合わせ頷く。

 ぱからぱか、と馬の蹄の音が響く。そこに不穏な歯軋りの音が混じるのを聞きながら、デリックとボーマンは当主があらぬ行動を起こさぬよう、目を光らせるのだった。

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